最終話 雨上がり、犬と牛乳



御堂さんが帰ったあと、浴槽に湯を溜めた。バスルームの内倒し窓から覗くと雨はいつの間にかやんでいて、ぽつぽつと心細そうに星が出ていた。


傘を差さなくていいなら、と思ってお風呂が沸くまでの間に近くのコンビニへ牛乳を買いに行く。腹が減ったと言って彼が飲み干していった牛乳は、わたしが起き抜けに飲むために用意しているものだった。


家から一番近くの店まで、できるだけ街灯の多い道を選ぶ。最短ルートに比べると少し遠回りになったけど「女の子なんだから」と言った御堂さんの言葉に素直に従っていた。


誰ともすれ違うことなくコンビニに着くと、駐輪場の端っこに毛むくじゃらが座っていた。それは犬に慣れていないわたしが無遠慮に撫でるのには少し大きすぎて、しかし腰を落とさずに目線を合わせるのには少し小さすぎたから、何もできずに横目で見ていた。


だが彼がずいぶん行儀よく伏せをしているせいか、わたしと入れ違いで店を出てきた女性から「いい子ね」と笑いかけられていた。牛乳をポリ袋に入れてもらって店を出た頃、もう犬はいなかった。


都会の街中でもないくせにこのあたりの空はいつも淀んでいた。もしかすると日本で最も雨が多い場所なんじゃないかと思って調べたが、そんなことは決してなかった。


なんだかんだ言っても、御堂さんはわたしを捨てたりしないと思っていた。わざわざ断ち切るほど興味がないことの裏返しでも、つなぎとめてくれさえすればよかった。


でも、わたしは彼の犬ですらなかった。ただ通りすがりに「かわいいね」と撫でられただけにすぎなかった。だってわたしたちのセックスは『夜分遅くにすみません』からはじまるのだから。そんなのって良い笑い草だ、そう思ったら手の中からポリ袋が滑り落ち、凹んだところから白い液体がとくとくと音を立ててこぼれていく。お腹の底がくつくつと熱くなった。


びちゃびちゃになった牛乳パックを拾い上げ、白い斑点をつけながら家まで歩いた。帰るとちょうどお風呂が沸いたところで、わたしは牛乳を含んで臭くなった靴を洗濯機に突っ込んで湯に浸かる。


なぜか頭の中でカントリーロードの歌がめぐり、口ずさむ。明日はいつもの僕さ、帰りたい、帰れない、さよなら。




「女の子は傷つきやすいって知ってるくせに、」




言えばよかった、と思うことの大抵はひとりになった頃ようやく追いついてくる。


優しいことも、冷たいことも、楽しいことも、彼の中ではすべてが均一に注がれている。それが本来人間らしいことなのだろうけど、わたしはそれを信じたくなかった。


優しいだけなら辛くたって平気だったし、冷たいだけなら離れられたし、楽しいだけなら友だちになれた。そのどれもないなら、諦められた。


浴槽から上がって、鏡越しに自分の身体を見た。彼の言った通りいくつか覚えのない傷があって、その全部が御堂さんのつけた傷だったらよかったけど、おそらくは机の角にぶつけたり、ものを強く押し付けたときについたものだろうと思ったら泣けもしなかった。


わたしの身の振り方を、御堂さんは決めてくれなかった。だから、自分で決めなくちゃいけない。


下着もつけずにリビングへ出て、戸棚から救急箱を取り出す。薄く埃を被ったケースから適当な軟膏を選んで裏面を見ると、効能の部分に「内出血」とあって、わたしはくしゃみが出るまでそれを繰り返し読んでいた。



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雨の日、白の行進。 七屋 糸 @stringsichiya

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