第2話 通り雨、コップの水



玄関の鍵を閉めるなり頭ごと抱き込まれ、容赦なく口付けられる。顎まで下ろしたマスクの不織布がくすぐったかったけど、ほんの一言を差し挟む隙間もない。しかし何度も何度も繰り返すそれは再会を喜ぶと言うよりも、スーパーの駐車場で大人しく待てができた犬を褒めるような、そんなやり方だった。


わたしは玄関に降りるために履いたサンダルをバタバタと脱ぎ捨て、御堂さんを奥の部屋へ通した。彼も薄っぺらなレザーのバッグと濡れたコートを廊下に捨て、わたしの首筋に指を這わせながらベッドへなだれ込む。


そのまま躊躇いもなく脱がされた衣服が力なく床に横たわるのを見ていると、御堂さんはつ、とわたしの太もも二度撫でた。


「女の子の身体って案外痣とか傷が多いよね。皮膚が薄いっていうかさ、特にみつきは多い気がする」


「嫌い?」


「いや、女って感じでそそる」


そう笑ってわたしの肌に歯を突き立てた彼の背に、薄く開いた扉からリビングの明かりが追いかけてくる。かすかに破裂するような音もして、すぐにお湯を沸かしていたケトルだと気づいた。


今夜は雨が降っているから温かいものが良いだろうと思って沸かしていたけど、そんな必要もないほど御堂さんの手は熱く湿っている。肩口をくすぐる短髪だけが湿気を含んで冷たく、このご時世だというのに外からやってきた彼が手洗いすらしていないことは指摘できなかった。






男の人によっては終わったあと急に態度を変えることがあるらしいけど、御堂さんは必ずコップ一杯の水を汲んできて、それが飲み終わるまでベッドで話をした。大抵はとりとめのないことを並べるから、わたしはそれを深読みしないよう慎重に両手で受け取る。


しかし今日の御堂さんはいつもどおり何でもないことを喋るみたいにしながら、真っ白なシーツとベッドの間に爆弾を投げ込んだ。


「来月末からって、そんな急に」


「いんや、三ヶ月前から決まってたんだよ」


これだからサラリーマンはつらいよなーと愚痴りながら波々とついだコップの水を半分ほど飲み干した。みつきもいる? と差し出され、咄嗟に首を振ってしまったあとに喉がカラカラだったことに気がついた。


「嫁さんも娘も『1年で帰ってくるんだったら行かない』って平気な顔で言うんだぜ。これで晴れて福岡の単身暮らしが決まったよ」


自虐的に言ってから「でも福岡はメシがうまいって言うしな」とわずかに嬉しそうにした。


御堂さんは他人がいようがいまいが自分のペースを保てる人だ、会社の都合でどこへ飛ばされたところできっとうまくやるんだろうと容易に想像がついた。この部屋だってわたしの好みで選んだものに囲まれているはずなのに、不思議とすべて彼の好きにされているような気がする。




なのに、突然いなくなるという。




キッチンへ水を取りに行くときに御堂さんがつけたルームランプは鈍くオレンジ色に灯り、かえって暗さばかり強調している。わたしは普段こんなものに照らされて眠っているのかと思うとふつふつと孤独が湧いてくる。冷えた素足を泳ぐようにバタつかせると、大きな足にあたった。


「ん、どした」


彼が振り向くとコップの水が揺れ、内側についていた小さな気泡が次々に水面へと打ち上げられる。わたしは禁止されたわけでもないのに発言を許可された気持ちになって、できるだけ甘えた声ですがるように「わたしのことは?」と尋ねた。


「バレてないよ。『夜分遅くにすみません』でメッセージがはじまってると無条件で仕事のことだと思うみたいでさ、我ながら名案だよね」


悪びれる様子もないその唇は、奥さんと娘さんを「冷たい」と言っていたのと同じものだとは思えなかったし、ましてや先程まで情熱らしく肌を啄んでいたものとも違っていた。


だけどわたしから見たら矛盾する事柄も、御堂さんの中ではなんら問題なく共存している。そして気が向けば時々会うだけの女の質問の意味も、彼は取り違えたまま別の話をはじめるのだ。



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