「偽教授接球杯Story-4」

もう、何度扉を開いただろう。もう、何度声に従っただろう。

進まなくてはいけない。進まなくてはいけない。そう声が言うので進まなくてはいけない。

…ああ、もう沢山だ。

私は食べなかった。

私は眠らなかった。

私は性交をしなかった。

私は頭の中から聞こえてくる声に全て従った。

何故こんなことをしているのだろうと何度も何度も思った。最初に感じたあの声に従わなくてはいけないという強迫観念は屋敷を進む内に次第に薄れ、今では惰性で従っているような状態だ。

クソッタレ。そう吐き捨ててそこの窓からこんな気味の悪い屋敷からはさっさとおさらばしたいくらいだ。


それでも私は声に従い続け、今なお声が言う通り進み続けている。

…進み続けないと、一生この屋敷から出れない気がするのだ。

言う通りにしないと今すぐ死んでしまいそうな、そんな気がする。

ただの予感だ。ただの怖気だ。この屋敷に入った時から感じているただの違和感だ。

そう思っても私は歩みを止めることが出来ない。声が命じた通りに動いてしまう。

扉だった。そこにあるのはまた扉だった。

今までの扉とは何かが違う扉だった。


「あなたは進まなくてはなりません」

また声がする。

私は扉に手をかけた。この扉を開ければ何かが変わる。そんな予感を抱えながら、そんな不安を抱えながらドアノブから手を離せない。

「あなたは進まなくてはなりません」

私を動かしたのはやはり頭の中から聞こえてくる声だった。

声に促されるままに私は扉を開けた。


扉を開けた先には白い、白い空間が広がっていた。何も無い訳では無い。家具はある。カーペットも敷いてある。部屋の奥には私が寝ようとして使えなかったものと同じ天蓋付きのベッドが置いてある。

屋敷の中の他の部屋と何ら変わりがないのに色だけが白い。白で溢れかえっている。


「あ、貴女達は…」

天蓋付きのベッドの隣に控える様に先程見た女達が立っていた。先程と変わらぬ一糸まとわぬ姿で。

彼女達は私が部屋に入ってきたことを認めると顔を上げて微笑んだ。

「ようこそいらっしゃいました」

「ようこそいらっしゃいました」

「ようこそいらっしゃいました。神嫁様」

「かみ、よめ…?」

女達は口を揃えて先程と同じ言葉を口にした。しかし、最後の女だけが耳慣れない単語を最後につけた。

───なんなんだ、神嫁って

「あなたはこちらに来なくてはいけません」

私が聞き返そうと口を開ける前に天蓋の奥から声がした。頭の中からではない。しかし、同じ声だ。

私の頭の中で聞こえるのと同じ声がリアルな質量を持って実際に天蓋の奥から発せられたのだ。

頭がズンと重たくなる。私は聞こえた言葉の通りにフラフラとベッドに近付いた。

近付くと自然と天蓋の奥にいる人が見える。

否、それは人なのだろうか。

全身が真白で縦に細長く、身体を折り曲げているのに頭は天蓋の天井に届いている。長い指が特徴の両手をだらりと身体の横に投げ出し、伏せた顔に白く長い頭髪が覆い被さるように顔を隠している。その髪の間から唯一見えるのは単眼の瞳。深海の様な黒い青色をそのまま写し取ったかの様な瞳が私をじっと見つめていた。

どう見ても、人ではなかった。

どう見ても、異形だった。

私はその「ナニカ」に魅入られた様に身動ぎさえも出来なかった。


「ナニカ」が言う。

「あなたはこれを食べなくてはいけません」

恭しく控えていた女が一人、天蓋の中に入ってくる。彼女は両手にお盆を抱えていた。その上に乗っていたのは私が先程飲み損ねたスープだった。

声に従ってそれを飲む。とても美味しいスープだった。手が止まらない。ごくごくと飲み干すと胃がグルグル動いて喜んだ。

食欲が満たされた。

「ナニカ」が言う。

「あなたはこの女達と交わらなくてはなりません」

声に従っていつの間にかすっかり天蓋の中に入ってきていた女達に縋り付く。彼女達は楽しそうに楽しそうに身体を曝け出した。誘われるまま、私は女達と交わった。

性欲が満たされた。

「ナニカ」が言う。

「あなたは眠らなくてはなりません」

声に従ってベッドに横になる。女達との性行で私の体はフラフラだった。倒れるように沈んだ私の頭の下に女の一人が枕を差し入れる。私が引き裂いて破り捨てた枕だ。フワフワとした枕は寝心地が最高で私はすぐに寝入ってしまう。夢か現か女達がクスクスと笑う声を耳にした。

睡眠欲が満たされた。


どれくらい眠っていただろう。目を覚ますと目の前に青色が広がっていた。あの「ナニカ」が私の顔を至近距離から覗き込んでいるのだ。

驚きに萎縮した私のことなど気にもとめず、単眼の瞳は嬉しそうに細められた。どうやら「ナニカ」は笑っているようだった。

「あなたはふさわしい。私にふさわしい。あなたは食欲を我慢しましたね。あなたは睡眠欲を我慢しましたね。あなたは性欲を我慢しましたね。あなたは人の欲を我慢しましたね。私の声に従って。私の言う通りにしましたね!」

「ナニカ」は語気を強めながら顔を更に私に近づけた。長い指が私の輪郭を覆う。「ナニカ」は喜んでいた。とてもとても喜んでいた。

「あなたは私にふさわしい。あなたは私のためのもの。あなたは私の愛しい番」

するりと「ナニカ」の薬指が私の口元に寄せられる。

「あなたはここに口付けをしなくてはいけません」

それを聞いた時、私の中にこの屋敷に入ってから一番の衝撃が走った。

それは恐怖だったのかもしれない。それは高揚だったのかもしれない。それは絶望だったのかもしれない。それは喜びだったのかもしれない。

何かは分からない。何もかも全てひっくるめた言葉に出来ない感情が私を襲った。

「さあ、口付けを…あなたは私の言う通りにしなくてはいけません」

何もかも分からない。

私はなぜこの異形に迫られているのだろう。

私はなぜこんな意味のわからない屋敷にいるのだろう。

私はなぜあの嵐の中、歩いていたのだろう。

そもそも私は、私は───私は、何処から来た何者なのだろう?

分からない。

分かることは二つだけ。

この命令に従えば全てが終わってしまうということ。

そして、私は言う通りにしなくてはいけないということ。

私は口付けた。「ナニカ」の白く細長い異形の薬指に。

その瞬間、私の頭の奥で何かが弾けた。

そして、何もかもがどうでも良くなった。いや違う。何もかもではない。私は「ナニカ」の声以外はどうでも良くなったのだ。


「おめでとうございます。これにて婚姻は相成りました」

「おめでとうございます。これにて白露糸色山守目神様の伴侶様が誕生されました」

「おめでとうございます。あなた様は人の身で得難い名誉を得たのです」

女達が祝いの言葉と共に盛大な拍手を私たちに送る。いや、女達だけではない。屋敷中だ。この屋敷の全てから祝福の拍手が聞こえる。

ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち

聞こえる。

「喜びなさい。私の伴侶。この屋敷はあなたの為に用意したマヨヒガです。あなたのためのものなのです。さあ、賞賛しなさい。愛しきあなた」

「ナニカ」が私に命じる。従わなくてはいけない。

「あ、ああああ…素晴らしい、素晴らしいお屋敷です、こんなに素敵なものを私がいただいてもよいのでしょうか」

「勿論です。勿論ですわたしの番。さあ、最後の仕上げをしましょう。大丈夫、何も怖いことはありません、少し私に「近く」なってもらうだけです。怖がってはいけません。抵抗してもいけません」

「ナニカ」はそう言って私の顔に這わせていた指を私の耳の中に差し込んだ。長い長い指は何処までも何処までも私の頭の中に入っていく。裸の女達が拍手をしたままそれを見守る。

恐怖はなかった。だって怖がってはいけないから。瞼一つ動かさなかった。だって抵抗してはいけないから。

私は言う通りにしなくてはいけないから。


「あなたは私の言う通りにしなくてはいけません」

言う通りにすれば、いいのだから。




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迷ヒ仔 292ki @292ki

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