油すまし
油すまし(上)
***
「きみ、きみ、そうだよ、きみ。ちょっと、こっちに、来ないかい?」
ベンチに座った男がにたにたと笑いながら、八歳の少年に声を掛けた。
八歳というのは大抵の人間に子供扱いされる年齢だが、八年も生きていればどう見ても怪しい大人に声を掛けられても無視するぐらいには大人だ。と少年は自負している。
どこからどう見ても怪しい大人であった。
連日、真夏日が続いているというのに厚手のコートを着て、しかも前のボタンはきっちりと留めている。その上、黒いシルクハットを深く被り、目がまるで見えないような黒いサングラスをかけているのだ。
図鑑に怪しい大人の項目があるならば、載せてやりたいぐらいに男は怪しかった。
その上、トドメとばかりに口は三日月の形に笑っている。
少年は八年の人生経験を生かして、この状況に対してどのように対処するかを考え、答えを出した。
――逃げるしかない。
少年は何も言わずに、駆け出した。
住宅街にある公園だが、昼間のために人気が少ない。
周りに誰もいないのだから、誰も助けてくれない、少年の判断はシンプルだった。
少年は自分のかけっこに自信があったので、大人であろうとも逃げ切れると思っていた。
タッ、タッ、タッ、タッ。
しばらく走った後、逃げ切れたかどうか気になって、少年は振り返った。
――良かった。
怪しい男がついてくるようなことはなかった、男はベンチに座ったままである。
少年は向き直り、前を見る。
「やあ、きみ」
「うわああああああ!!!!」
怪しい男がすぐ目の前にいて、少年は思わず悲鳴を上げた。
ベンチから少年の距離まで百メートル以上は離れていて、一瞬で移動できるような距離ではない。どう考えてもありえないのだ。
少年の恐怖を一切気にしないかのように、怪しい男は言葉を続ける。
「ここには昔、きみのパパを殺した油すましが出たらしいよ」
――なんだって!?
少年には怪しい男の言っている言葉の意味がわからなかった。
少年のパパは毎日仕事に忙しく、帰ってくるのは夜遅くになることが多いが、元気で生きている。それをどうして、殺したなどと言うのだ。
少年の瞳が潤んだ。
恐ろしいことを言う、嫌な大人だ。
少年はその場で泣きそうになり、それをこらえようとして――その声をはっきりと聞いた。
「今もいるぞ」
少年はその恐ろしい声を聞いた瞬間に、気を失ってしまった。
少年が目を覚ましても、相変わらず太陽は上空で光り輝いていた。
どうも気絶したといっても、大した時間ではないらしい。
周囲を見回しても何もいない。
先程の怪しい男も、最初からいなかったみたいに消えていた。
少年は泣きたくなる気持ちを抑えて、家へと急いだ。
怖い思いをしたけれど、家の中にいれば安全だ。
角を曲がり、信号を渡り、そこから歩いた先の一軒家――そこが少年の家だ。
いつもどおりの自分の家――そのはずなのに、少年は違和感を覚えた。
――ママの花がない。
少年の母の趣味はガーデニングで家の周りを花で綺麗に飾り立てている。だというのに、今少年が見ている家には花が一つもない。
玄関の扉を開ける。
ぎぃ、きしんだ音を立てて扉が開いた。
玄関を見て、少年はまた違和感を覚えた。
――ほこりがすごい、ママはきれい好きだから掃除を欠かさないのに。
少年も常日頃から母親に自分の部屋を掃除しなさいと言われている。
そんなきれい好きの母親なら見逃さないはずのほこりが玄関に積もっている。
「ママ……ただいま……」
少年は不安になって、小さな声で「ただいま」と言った。
家に一体何が起こっているというのだろう。
「おかえり」
小さい、弱々しい声が返ってきた。
間違いなく、少年の母親の声なのに何かがおかしい。
「ママ?」
母親の声は仏間の方から聞こえた。
少年は不安にかられて、仏間へと急ぐ。
「あら、どうしたの?」
「どうしたのって……」
仏壇の前に座っている母親は悲しいほどにやつれていて、いつもの元気が全く感じられない。いや、それだけではない。
「なんでパパの写真があるの!?」
仏壇に飾られているのは、少年の父親の写真だ。
両親の実家で何度か見たことがある。
八歳といえども、遺影のことぐらいは常識として知っている。
「なんで……って……」
母親は少年の言葉に、泣き出してしまった。
畳を湿らせるほどに、涙があふれる。
「そうよね……わかんないよね……でもね、ちゃんと現実を受け止めなきゃダメよ……」
少年には今起こっていることが全く理解できなかった。
――このまま、ママと話していると恐ろしいことを聞いてしまう!
「……パパはね、死んじゃったの」
「嘘だ!嘘だよそんなこと!昨日だって帰るの遅かったけど、一緒にお風呂入って」
少年は叫ぶように言った。
実際、信じられるわけがなかった。
父親に教えてもらった手でやる水鉄砲も、昨日初めて上手く行ったことをしっかりと覚えている。
「昨日だなんて、そんなことがあるわけがないの……もうお父さんが死んでから一ヶ月経っているのよ……」
「一ヶ月!?」
そんな馬鹿なことが起こるはずがない、少年は思った。
ママが嘘をついているだけだとも思った。
だとしても、なんでそんな嘘を?
「パパが死んだの信じられないよね……私だって信じられないわ……でも……でも……うっ……」
少年の母親はその場に泣き崩れて、喋ろうとした言葉は何一つとして形にならなかった。
少年はただ混乱するばかりだ。
――何が起こってるの!?
「ここには昔――」
突然の声に少年は振り返った。
先程の怪しい男が、家の中に入り込んでいる。
「出てって!!」
少年は怪しい男を追い出そうと掴みかかった。
けれど、怪しい男はそんな少年の必死の努力など意に介さずに言葉を続けた。
「君のママを殺した油すましが出たらしいよ」
ぐにゃりと少年の視界が歪んだ。
母親の方に、視線をやる。
――ママ!?
少年の母親は最初からいなかったかのように消えていた。
涙の跡すらも残っていない。
仏壇を見ると、写真が一つ増えている。
笑顔の父親の写真の隣に、笑顔の母親の写真がある。
――ママがいない。
「今もいるぞ」
恐ろしい声がして、少年は気を失った。
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