井桁沙凪


 生前愛された人は燃える。

まきをやる』と人々は云う。僕らは僕らの魂を肉体の檻に閉じ込めた形で生まれてくる。昔、神様がそう決めたのだ。人の魂は良く欲し、良く発する。せめて生きている間は肉体の檻に閉じ込めておかないと、僕らの魂は誰に見つかることもないままに行方をくらましてしまうらしい。

 寿命だったり病気だったり事故だったり、なんらかの要因で檻にほころびができることがある。もう肉体が機能を果たせなくなっても、魂は檻の中に留まり続けようとする。小さな灰色の部屋が世界の全てだった少年みたいに、他に行き場を知らないのだ。

 そこで人々は薪をやる。魂を強く燃やし、肉体を灰にする。一度出ていった魂はもう窮屈な檻には戻りたがらない。ようやく自由になれたことを歓んだ魂は、またどこかで神様の手に捕まって、檻に閉じ込められた形で生まれてくる。


 初めて『薪をやる』現場に立ち会ったのは四歳か五歳の頃だった。親戚のおばさんが働きすぎで死んだ。弔いのために設けられた円形の広場にはホールケーキのロウソクのように黒い街灯が立っていた。灯りの下には僕とはまるで関係の無い人々がいて、全然知らない人が薪と共に燃やされていた。

〝あの人はなぜ死んだの。あの人は? あの人は?〟

 僕は母に聞いた。

〝知らない。〟

〝おばさんが死んだ理由は?〟

〝働きすぎたの。みんなのために一生懸命になりすぎたの。〟

〝それをみんなは知ってるの。人がこんなに少ないのはどうして。〟

 上からだと、まるで蟻がエサを選り好みしているみたいに見えただろう。僕は不思議だった。みんなのために一生懸命になりすぎたせいで死んだおばさんが、どうしてこうも寂しい目に遭っているのだろうと。

〝みんな知らないことにしたがるの。愛は必ずしも応えてもらえるものではない。〟

 母は険しい顔で言った。

 黒い服を着た人々はそれぞれの死者の前に列を成していた。僕と母はおばさんの魂に薪をやって、どこか逃げ帰るようにして広場を去った。


 君は僕のことを好きじゃないと言ったね。いま僕は海岸線に揺られている。もうすぐ波打ち際に漂着する。ずぶ濡れの身体は今さらどんな薪をもらったとしても燃えないだろう。そうやって、僕は愛をもらえないことへの言い訳をしている。こういう卑怯なところを君は好きじゃないと言ったんだろうと、僕は今でもずっと思っている。


 あれから十数年間、おばさんの記憶は僕の中にくすぶり続けた。母の言葉も。

 僕は奉仕の喜びを知る前に、与えられないことの恐さを知った。だからずっと静かにしていた。何年間も通うことになった箱庭は常に騒がしさと共にあったから、僕の静けさは自然と仲間外れにされた。その内ただの空気になって、雨の日にはその匂いによく混じった。途中途中で起こるどんな事件も僕を捉えることはなかった。

 ある日、クラスメイトの少女が自殺した。

 その報せが届いた時、僕は僕の孤独を誇らしく思った。仲間外れにされたことを苦に思っての死であるならば、少女の死因は空気になれなかったことだ。

 僕は誰よりも自由であって、誰よりも孤独だった。少女は死んでからようやく僕と同じ立場になれたのだ。生きている僕と死んでいる少女は同じだった。それでも僕は、やっぱり薪をやる側でいた。


 少女の家の庭で『薪をやる』は執り行われた。

 君は雪のように降る灰をかむり、髪を真っ白くしていたね。僕はごうごうと燃ゆる炎にも、灰になっていく少女の想い出の残骸にも、クラスメイトの顔から零れ落ちる透明ななにかにも目を向けたくなかったから、君をじっと見つめていた。箱庭にいる時は少しも目を引かなかったのに、そこで無感動に突っ立っている君は凄まじいほどの引力を纏っていた。その睫毛や鼻先や血色の悪い唇が、まるで僕自身が蟻になって君の肌を這っているみたいに、細かく、クリアに映った。

 僕は独りだった。だから、与えも貰いもしたことがない君が不協和音のような泣き声で溢れる庭の中でのよすがになっていることに不慣れな救いを感じていた。いま思い返してみると、君もきっとそうだったんだろう。僕らは同じものに対して人間が本能的に抱える愛憐でもって、独り同士繋がっていた。

 君は薪をやらなかった。そのことで後々開かれることになる悪意と欲望のお祭りに怯えるみたいに、君は唇を固く引き結んでいた。その割にはたくさん言いたいことを抱えていたから、唇をか弱くうずかせていた。

 それで、君は僕に言った。

〝好きじゃない。〟

 君は僕に言った。僕を通した誰かに言った。

 すべては愛に辿り着く。生きる時も、死ぬ時も。人はそれぞれの愛の持ち分に自分の価値を定められる。少女の庭は依然として正体不明の泣き声で溢れ、辺りには真っ白な灰が降りそそいでいる。

 僕は君の言動から伝わってくる拒絶をとても気高いものに感じたよ。世界が愛に溢れていても、愛なんて要らない。そうやって突っ撥ねる君の姿が僕にとってはただひたすらに愛でしかなかった。僕は独りでも孤独で、君は独りでも孤高だった。だから僕は安心して君を好きになれた。


 僕はそれから箱庭を出て、君と離れて、ある日を境にすべてが嫌になってしまった。

 来る日も来る日も、考えるのはあの庭のことばかり。君が僕を捉えたから、僕も思いがけず実体を得て、あの庭にいつまでも囚われることになってしまったようだった。

 クラスメイトの顔から零れ落ちていた透明ななにかが美しいものであると謳われれば謳われるほど、僕の世界はあの庭に収束した。世界中の人間がみんなああだったら、僕はずっと空気のままでしか生きれない。

 君みたいな人はこの世界にどれだけいるだろう。乾いた顔に、薪を持たない綺麗な掌。気高い孤高の人。そんな人と出会うまでに、僕はいったい幾つの紛い物と遭遇しなければならないのだろう。あの日、僕は二匹ぽっちの蟻の片割れだった。降りそそぐ真っ白な灰。君の髪。

〝好きじゃない。〟

 ぴしりと、外から霜の割れる音がした。僕はその瞬間、分かった。だから、部屋の扉を閉ざして、ベットの上に蹲った。そして幾度も考え直そうとして、結局行き当たる答えが同じであることを、時間をかけて咀嚼した。呑み込んだ時、僕は妙に清々しく暗い心持ちで部屋を出た。


 いま僕は波打ち際にいる。ヤドカリが顔の側を歩いている。いまや肉体は完全に機能を失い、魂はなお中で考え直そうとしている。


 みんなが消えるより、僕が消えるほうが早い。


 そうやって孤独を愛そうとしている僕のことを君は卑怯だと感じ、本物の愛の言葉で見送ってくれるだろうか。君になにも伝えることができなくてよかった。僕はいまでもずっと、そう思っている。

 ああ、僕の肉体を目の当たりにし、か弱くうずく君の唇。

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井桁沙凪 @syari_mojima0905

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