オルフェウス

天池

オルフェウス

 図書館の近くの古本屋で買って来た、フランスの作家の古い評伝は薄いクリーム色の表紙をした一般的な大きさの上製本で、滑らかな手触りだが、近くで見ると蝶の羽の模様に似た細かなざらつきがあった。封筒のような紙袋を座り込んだ床に置いて、私は喉が渇いているのを仄かに自覚しながらそれを両手で抱えた。分厚い表紙を持ち上げて右にのけるとそれはよく開き、ツルツルとした白い特別なページが現れた。その紙は次の紙と引っ付いていて、開くのに少し難儀した。きっと顔が、写真がそこに載せられているのだろうと私は期待したのだった。しかし持ち上げて捲ってみると、それは一種の遊びの紙の一枚に過ぎず、静かに引き剥がした次のページには書名や著者名が何の驚きも惹起しない仕方で印刷されていただけで、私が先んじる瞬間に思い描いた図版の類は一切存在しなかった。きっと中のページには何枚か彼の生活や精神や諸々の結果を示す写真が載せられているに違いないが、私は一旦本を閉じてしまいたくなった。紙袋のクリーム色は本のそれより少々濃い。私は圧し潰したその袋の上に本を静かに置き、手を元の場所に戻した。評伝の作者は著名な批評家で、この文章も後の作家研究の基礎となったものだが、こうして薄っぺらな台座に載せられて床に置かれてしまえば静かなものだった。

 私は冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを持って来て、机の上でマグカップに注いだ。雨の日に買ったコーヒーである。縁の近くまで、出来る限りゆっくりと注いで机に置くと、ラベルの下の方まで中身が減っていた。ふと部屋を見回してみると、雨の日や晴れの日や曇りの日に買って来ては色々な場所に設置されたものばかりで、減っていくものや消えてしまうものといえばこのペットボトルのコーヒーだけであるような気がした。四角いボトルは冷たくて、ラベルは濃い緑だった。

 七月七日の夕暮れ、遠くの水面を赤い光がどこまでも広がりながら照らしているのを私達は眺めていた。今、クリーム色の砂浜に、白い大きな光沢紙が突き刺さって、私達と海とを遮った。私達はただ手を握り合って、背後まで暗闇が覆い尽くしてしまうのをじっと待っていた。風がパタパタと紙を揺らしたかと思うと、最後の一筋の光によってそれは周縁の方へ溶け出して、彼方で眩く時が光った。何かが始まるような海が、ぬるい夜空にすっかり包み込まれて、静かに揺れていた。丸い光は底の方に沈んでいった。湾曲した堤防に背中を見張られながら、私達は全てが落ちた海の一番表面のところに視線を向け続けた。全てが落ちると星が見えるようになった。空と海の境目はもう見えない。だが星は、さっきまでそこにあった世界の端の更にその向こうまで、同じ無防備さで散らばり、広がっているようだった。

 砂浜には私達の他に誰もいなかった。堤防の向こう、住宅街を貫く通りをまっすぐ行って、駅を超えた先の街では七夕祭りが行われているらしい。今では海の近くのこのささやかな広がりが、どこよりも静かな場所だった。

 キッチンの棚の中身を点検し、賞味期限の切れそうな食材を確認したが、特に見当たらなかったので缶詰を二つ開けてトマトと豆のスープを作った。カップに移してゆっくりとそれを飲みながら、作家の評伝を読みかける。カップが空になったらキッチンに戻り、鍋に半分程残ったスープにまた火をかけて、木べらで潰しながら水分を飛ばし、一度コンロからどけて、パスタを茹でる。茹で上がった麺をペーストになったスープとからませながらケチャップを加え、もう一度火をかければ、具は少ないのにボリュームがありそうな、ナポリタン風のトマトパスタが出来上がる。

 私は今日も優しい人でいた、美味しいものをつくった。いや、それは、今日だから、なのかもしれない。

 もう一度コーヒーを飲む。真黒な液体が身体の中に消えてから、伸ばした背筋を仄かに意識しながら、エアコンの冷気を吸い込む。まだ評伝に顔はない。

 四角いボトルのキャップのところを片手で持って、顔の前で左右に振る。残り少ない液体がぴちゃぴちゃと音を立てる。この机に載せられたもので一番重たかったのは平たい皿に盛られた具という具のないトマトパスタで、次に最初のコーヒーのボトルと元はそこから移されたマグカップ一杯のコーヒー、そして薫り高いスープと作家の評伝が並んで、最後にこの無くなりかけのボトルである。パスタを食べ終えてからマグカップにコーヒーを継ぎ足し、遂に空になった緑のボトルをそっと皿の向こうに置く。赤い食事は黒に落ちていく。

 スポンジを使って洗われた缶詰の消費期限は二〇二三年の四月と八月である。食器はもう全て洗い終えてあり、最後にそれ等を流しの横にコトンと下ろす。今、目の前に、横にうんと長い窓があったらさぞ気持ち良いだろうに。私はキッチンペーパーで手を拭いて、水分を吸い込んでぺらぺらになったそれをゴミ箱に捨てる。もう、減るものと言っては時間くらいのものである。いや、時間は決して減りなどしない。遠ざかったり近付いたりするだけである。

 私は、私は空になったペットボトルを慈しむ、私は……。

 外した腕時計を見ると、十一時を少し過ぎたところだった。私はマスクを着けて、部屋を出た。共用通路は生ぬるい空気に揺れていたが、外階段に出ると、一種の涼しさを確かに感じることが出来た。手を伸ばしても、手の長さ分だけ先にある空気にしか触れることは出来ない。しかし一段、一段下がって、一歩、一歩前に踏み出せば、どこまでも広がる夜の空気を進み続けることが出来る。袖口が濡れている。街を通り抜ける風に街路樹が葉を揺らす。私は着け直した腕時計をまさに慈しみながら、泣きそうな足で階段を下りる。

 一隻の船が無音の汽笛を鳴らしながら道路を過ぎる。

 昼の間大降りだった雨はとうの昔に去って行ったし、図書館の窓越しに――だが確かに私の目の前に落ちたように見えた雷もどちらを向いたってもう見当たらない。光は一筋の腕のような小さな隙間や真上やずっと遠くの真横から建物を照らすことを止め、等間隔で並ぶ街灯の白色に役目を譲っている。車道のアスファルトは一段低い。それは私が歩くときに地面から浮かせる足の高さよりも深く、その高低差は街灯がどこまでも続くのにぴったり沿って、遥か先まで保たれている。

 道は平坦だ。どちらに進むのも同じことだ。街灯はどちらにもある。

 だが、一度進み出したら、こちらの方に下がっていく勾配があるような気がして来る。丸いガラスが表面を成している白い発光体は、全て重力の作用に抗えずに落下して、私の先でも後でも、ただし私よりもずっと速い速度で坂を転がり始める。人は落ちて来ない。丸い光が全て黒に沈んでいったら、そのときはもはや背後に何も残されてはいないだろう。

 一本の手になりたいのだという千切れそうな願いと、一本の手だけがここにあれば良いのにという満たされない想いとを胸の前で絡ませながら、私は腕時計を嵌めた左手をちらりと見遣った。川の流れが四方から集まり、正方形の暗い淵にゆるやかに落ちていく。私は静かに横断歩道を渡り、一つの流れに逆行し始めた。無論それは殆ど流れなどではない。足は少しだけ地面から浮き、前に出され続ける。何本かの電線が両側にぴんと張っている。電線は分流し、蛇行し、上空に張り巡らされている。

 少しだけ風がある。空は下から上まで灰色に場を任せ切っており、その隙間を魚のように風はそよ吹く。暗さは変化しない。今から海には行けない。だけれど朝陽が昇って、明日になったら、その光り輝く海に私は、逢いに行くのだ。

 長袖の内側にじんわりと汗をかき始めていた。灰色の地面に私は立っている。

 歩き出す膝は泣く、そして私は風景の全てを慈しむ。ずらしたマスクと首の間が少し湿り出す。視界は広がりながら遮られ、電線が各所へ導いていく。そのずっと上に、海を見守る星の空が、交差する線の上に、掴みながら落とされるような黒い広がりが、全ての世界を解きながら結び付けるような、時の果ての息が、層を抜けた先にあることを、私は知っている。川が流れゆく先にではなく、私の歩き着く果てに海はあることを。

 いつの間にか歩道が消え、私は建物の底部と境のない道を歩いていることに気付く。黒々とした何かが湧き出して来るような道である。全ての建物に阻まれて、私は更に一段低く、空気は少しずつ開いている。湿った灰色に喧騒が時を経て変化した小さな浮遊する光が混ざり、スニーカーの下の地面は砂浜と大差ない。

 あなたといた場所の全てで私はあなたに逢うことが出来る。

 遠くはない場所が、浮遊する光に満ちたこの世界にある。雨の降った街で、灰色の匂いの中。私の服がパタパタと揺れたなら――。

 一度に現れ、少しずつ一斉に動いていく無数の星は、時間をいくら遡っても変わることのない景色で、それは小さなあの海の黒い表面も同じであり、私達の見た水上の光――それは一瞬のことだったかもしれない――も、体温も、仄かなざらつきも、あらゆる何も無さもきっとそうだった。

 開くと無くなってしまうものがある一方で、開くと身体を包み込まれるものも存在する。寂しいのに満たされる。その中にいる。

 いる。

 視線の先に四角く集った沢山の光を見る。或いは空気中の光がそこに流れ着いたか。私は何もない地面を歩いて行く。光は瞬き続け、知覚出来ない速度で狭い範囲の内を移動しているようである。アスファルトはその部分だけ色が濃い。沢山の、沢山の光。四角形の縁を、上空で結界を張るように電線が囲っている。私は今、そこに入っていく。光を踏みしめて、真上を歩くその最中にもそれ等は眩い高速の明滅を止めない。集合して四つの直角を作った電線達は四方の道路の壁の間を横断しながら伸びていく。それは坂になり、平行線を描き、無理な分岐を度々繰り返す。私は一つの影になった。写真には映らない影。ただ海から出来ている、ただこの星に生きている影……。電気がこの隙間を避けて四方に流れていく。雨が降ったり雷が鳴ったりする。

 その場所を抜け出すのは容易で、そのことに何の意味もなかった。私は見た。

 見た。

 同じ歩幅で、するりと宇宙を抜け出して、私はまた電線の下を歩いて行く。ここで歩いている。むき出しの家に取り囲まれた、もう光ってはいないアスファルト。灰色の景色、雨の跡地、それは私の跡地ではない、まっさらな空間である……。街に人がいないというのなら、あそこにあったものは眠る人々の夢なのかもしれない。世界が流れ込む場所はいたるところにあるということもある。

 街には屋台が並んだり、色とりどりの飾りが頭上に渡され、誰もがあけすけな様子で、絢爛豪華な山車も出る。でも今年は中止だろう。

 海の果てから太陽が昇る。

 手の温みをふいに感じ、街には長い腕が伸び、ガラスの表面で柔らかに屈折する。

 一つの影が消える。

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オルフェウス 天池 @say_ware_michael

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