奪色

鳥川 みいし

奪色

 父は手品師だった。夕食が終わると母がテーブルの皿を片付けている最中からトランプを広げて僕を楽しませてくれた。紙で出来たトランプは裏面がカラフルな曼荼羅模様でそれがシャカシャカとシャッフルされているのを眺めるのも好きだった。

 ある時初めて父の職場に遊びに行った。半円状の客席に囲まれたステージに父は立っていた。一人しか立てないほど狭いそのステージが空間の中で一番輝いていた。手品を一通りやり終えた父が一礼すると、大きな拍手が起こった。父はお辞儀をしたまま顔をすっと上げて客席の一番奥に座っていた僕に目配せをした。僕に背を向けて座っていた全員が一斉に振り返った。

「今日は私の小さな息子が見学に来ています」

 弾けるような歓声に運ばれるようにして僕はステージの目の前までやってきた。父はしゃがみこんで私に言った。

「お前に1つだけ手品をしてもらいたい」

 突然のことに驚きながら、最近父が私に手品を1つだけ教えてくれた理由がわかった。

「あれをやればいいの?」

 父はゆっくり頷くと僕を抱え上げてステージに乗せた。そんなに高くないはずなのになぜかクラクラとめまいがした。

「ミスターめまい!」「小さな手品師さぁん!」

 掛け声のシャワーを浴びながら僕は目を瞑って父に教わった手品を思い出していた。

「お手持ちの品が真っ白に脱色されても良い!という強靭な心の持ち主はステージの前までいらしてください」

 父が叫ぶと最前列に座っていた金縁メガネをかけた婦人が朱色のハンカチをふりあげながらやってきた。本当によろしいですか、という父の言葉にフーフー鼻息を荒げて婦人は笑っていた。

 練習のときと同じように、父は一輪の薔薇を透明な瓶に入れて僕の目の前に差し出した。それは白い薔薇だった。その隣には朱色のハンカチ。僕の膝は小刻みに震えていた。トンと父が僕の肩に手を置いた。僕は右手を目の高さまで上げてハンカチ全体を包むイメージをした。

「それではご唱和ください。はい、3、2、1」

 僕は包んだイメージを白い薔薇の中で開いた。ぎゅっと握った拳をふわりと開くように。目の前には朱色のバラと真っ白なハンカチがあった。色は移動していた。ハンカチから薔薇へ。え、え、え、とつっかえるような戸惑いの声が客席から響く。

「イニシャル!イニシャル!」

 ハンカチを提供した婦人は父の手からハンカチを抜き取ると、隅のイニシャルを探した。どうやらそれは見つからなかった。

「イニシャルがなければ私のじゃないわよ」

 勝ち誇ったように婦人が言うと、父は人差し指を口元に当てて、ざわつきかけた会場をなだめた。それからハンカチを優しく持ち上げて人差し指と親指で隅のあたりをゆっくりとつまみながら撫でた後、婦人の手を取ってそっと彼女の指を誘導した。婦人は違和感に気づいた表情をして、ハッとハンカチを凝視した。

「ある!イニシャルがある!イニシャルの黒い糸も真っ白になってるのよ!」

 彼女は興奮したままばたばたと自分の席に戻った。それが合図だったかのように拍手と口笛の嵐が起こり、父は満足そうに笑顔で僕を抱き上げた。朱色の薔薇は家の食卓に飾られた。


 僕は手品師ではない。あの一件の後、それ以上の手品を父は教えてはくれなかった。そして、52枚のカードのうち1枚だけがどこかの誰かのポケットへ消えてしまうトランプ手品のように父はふといなくなった。神経衰弱ゲームで永遠にペアが見つからないかのように母は頭を抱え、そのまま病に倒れた。残されたのはあの曼荼羅模様の紙トランプだけだった。

 僕が自分の力に気がつくまでに時間はかからなかった。僕は手品師ではなかった。僕が小さい頃に見せたあの手品にはタネも仕掛けもなかった。色は本当に移動していた。普通の人にはそれが出来ないらしい。そして僕は自分の力の本質は色を移動させることではないということに気がついた。もらった色は僕のイメージの中に蓄積されるのだ。そして、その分僕の思い出や記憶はカラフルになる。そのことがわかってから、僕は積極的に色をもらうようになった。父と遊んだ日々も、母の渾身の手料理も絵を見るかのように思い浮かべることができる。僕は少しずつ少しずつ街から色を奪っていった。いつしか僕の街は脱色の街と呼ばれるようになった。気づかれないように盗み取ったはずの色が抜け落ちた痕跡は、街を未完成のパズルのように変えてしまった。僕は街を後にした。


 僕が最後に住んだ街は雪国だった。しんしんと降り積もる雪は一年中やむことがなかった。世界は一面真っ白だったが、目を閉じればいつでもカラフルな思い出に浸ることができた。この生活は優雅だと思った。

風のない夜、僕は外に出て雪原を一人歩いた。空は真っ黒だった。真っ黒な空と真っ白な地面を雪が繋いでいた。ちらつく粒の向こうにうずくまる人影が見えた。狩りに出て道に迷った青年だった。足を怪我していてうまく歩けそうになかった。彼は泣いていた。なぜ泣くのか聞くと、何も見えなくなったのだと答えた。鹿を仕留め損ねて目をやられたのだという。血が流れていた。急いで病院へ連れていくと、寝ぼけ眼の医者が出てきて応急処置をしてくれた。

 僕は青年の家を訪ねるようになった。青年は怖がっていた。覚えている風景をだんだん忘れていくのが怖いと震えていた。僕は一瞬考えた後、青年に今日で自分はこの街を出ていくと伝えた。青年は首を横に振りながら僕の腕を必死に掴んだ。掴まれていない方の手を目の高さまで上げると僕は拳を握って自分の記憶の中にある全ての色を包んだ。それから父に教わったときのようにそのイメージを青年の心の中で開いた。

「あ」

 青年は呟くと、

「ここは天国ですか?」

 と言った。僕は何も言わずに立ち去った。

 外に出ると街は一面真っ白だった。それから歩ける限り歩いて街から街へと渡っていった。どの道もどの街も真っ白で影だけが黒かった。どこまでも歩いた先に、かつて自分が暮らした脱色の街に辿り着いた。もう今の僕にはどこが欠けていてどこが色づいているのか識別することも出来なかった。生まれ育った家は旅立つときのまま何も変わらなかった。扉はあいていた。中へ入ると全身に疲労が回っていくのを感じた。もう長くはないのだろう。ベッドを目指して寝室に向かう途中、テーブルの上に並べてあるものが目に入った。紙のトランプだった。その紙トランプの曼荼羅模様だけが、最後まで鮮やかに色づいていた。

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奪色 鳥川 みいし @miishi-torigawa

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