リトス・レーテー
「あればこそ人もつらけれあやしきは命もがなと頼むなりけり」
木の幹に座る一人の美青年。
そして、青い空。
腕には、先程粗大ゴミとして捨てた筈の大きなテディベアがいた。
「何やってるんですか」
上下ジャージ姿の私と陰陽師服の青年。
「和歌を詠んでいました。とは言っても他人の詠んだものですが。いやはや、今の時代は便利ですね。上の句を入力するだけで下の句がすぐに出てくる」
「そうですか……ってそれ、私のじゃないですか」
「ああ、ちょっとお借りしましたよ」
ランニングコースにある神社の神木の枝に座っている青年。普通に立ち入り禁止区域に入っている上、コスプレが趣味ときた。さらに、人のものを盗むやつ。
「返して下さい、あとそこから出た方が良いですよ。一応そこ立ち入り禁止ですから」
「問題ありませんよ」
軽やかに飛び降りてスマートフォンを返すとテディベアを抱き締めて笑った。
「貴女以外に私の姿は見えませんから」
疑わしい。
そう顔に書いてあったのだろう。
そうだろうな、信じないよな、と青年は唸り、丁度通り掛かった権禰宜に謝罪の言葉を述べて。
おらあ、と体当たりした
かのように見えた。
しかし、箒で境内を清めている権禰宜は青年にぶつかられたにも関わらず涼しい顔で立っている。
そして、青年の体が権禰宜の体に貫通し、透けていた。
私は取り敢えず理解する事を一旦やめ、青年に向かって顎をしゃくった。
一緒に来い、という合図だ。
青年は笑顔で頷き、権禰宜の体からゆっくりと離れた。
「まあ、上がって。汚い家だけど」
「私の家に比べればかなり良いですよ」
家に招けばフォローしているんだかしていないんだか分からない言葉を頂戴した。
「ええと、信じられないけれども、青年は幽霊なんだね」
座布団を引っ張り出しながら問えばテディベア青年はこくんと頷いた。
「いつ頃の幽霊なの?」
いつ頃の幽霊、って。どういう質問だ。
「平安くらいかなあ」
出したお茶を啜りながら返事を返した。
「平安かあ……え、あの、この世をば、の下膨れが美人とされた時代のあの平安?」
「ええ、その位ですねえ。ミッチーよりも後に生まれたけど」
ミッチーって誰だ。まさか、藤原道長のことを言っているのか?
「で、私の姿が見える貴女にお願いがあります」
テディベアを隣に置いて、正座をし、そのまま手を綺麗に揃えて土下座をした。
「私の心残りを浄化し、この世から解放させて下さい」
「はい?」
「ですから、私は普通であれば輪廻転生に乗っ取り違う人物として違う人生を歩んでいるのですよ。しかし、強い心残りのせいで閻魔大王の前に行けないのです」
「はあ」
「そして、私は京の都から流刑された身。自由に動けないのです」
「その割に私の物を色々と盗んでいたみたいだけど?」
「盗んだだなんて人聞きの悪い!」
ガバリと身を起こし、ぷんすか、と頬を膨らませて文句を言う青年。腹が立つほど可愛い動作だが、見た目に騙されてはいけない。
こいつの年齢は4桁だ。
「……で、心残りって?」
私は鬼ではない。困っている人を助けてしまう性格だ。だから、溜息をついて青年に問いかけた。
決して、きらきらと目を輝かせる青年に根負けしたわけではない。
「ありがとうございます!」
わあい、とテディベアを天に掲げて喜びの舞を舞う青年はどう考えても平安から生きてきた年長者のにおいがしなかった。
◆
何か罪を犯し、京から追い出され、死ぬまで住んでいた地。
四方を山に囲まれたその地は空気が美味しく、都で行われている醜い権力争いを忘れさせるほどのどかで、今まで自分がやってきたことが愚かに思えた。
「あ、貴族さんだ」
丁度収穫を迎えた稲を両手に田を駆け回っていた子供が私に気付き手を振ってきた。
私は微笑みを浮かべて手を振り返した。
子供が走ってやって来て服の端をちょいちょいとつまむ。
「姉ちゃん、あそこにいるけど行かないの」
頭に布を巻き、時折額の汗を手の甲で拭いながら稲刈りをする女を指さす。
都でも稀にしか見ない様な美しい見目をした女はせっせと稲を刈り、背中に背負った籠に入れていた。
私が初めてこの地に足を踏み入れた際、唯一救いの手を差し伸べてくれた心優しい人。
「まだ凹凸のある地面を踏みしめることに抵抗がある故、ここで見るに留める」
「んー、じゃあ姉ちゃん呼んでくるよ、きっと喜ぶから!」
無邪気に笑い、私の返事を聞かずに女の方へ駆けて行った。止めようと伸ばした手は空を掴み、近くで見ていた年配の夫婦は私を意気地ないねえ、と笑った。
ちらりと女を見れば驚いた様に目を見開き、服の裾で汚れた手を拭き、急いで走ってくるところだった。
「貴族様がこの様な場所に足を御運びになるなんて。白く美しい肌が真っ赤になってしまいますよ?」
キラキラと美しい瞳に映るは頬を赤らめた自分の姿。
きっと、今私の肌が赤いのは陽に照らされたせいではなく、貴女のせいだ。
私はフイと顔を逸らした。
◆
青年は自分の恋したと言う女性がどの相手と結婚したのか、そしてその子孫に会ってみたいと言った。
「平安時代って平民には名前が付いていなかったはず。だから、青年の恋した相手の家系図なんて残っていないって」
「あれ、知りませんでしたか。この地域では平安時代から平民にも名を与え家系図を書いていたんですよ。何せここは山深く外の人間が滅多に入らない地。血が濃くなりすぎない様に調整する必要があったんですよ」
そんなこと知らないのだが。
「公にしているものは明治時代以降のものです。江戸までのものは当時この一帯を治めていた豪商が地に埋めてしまいました」
何故埋めた。
「まあ、そこら辺はどうでも良いのです。明治以降のものは公民館で普通に閲覧可能です。豪商が埋めた場所は知っているので掘り返しに行きましょう」
「え、なんか悪い事をしている気分」
「まあまあ」
そう言って青年は私の腕を掴んでドアの方へ歩いた。
「今からですか」
「ええ、鉄は熱いうちに打て、と言いますからね」
「……そのことわざ、ここでは使えない様な気がするんだけど。好機も何もないと思うんだよなあ。地面を掘り返すことなんていつでもできるしさ」
青年は私の言葉を華麗に無視し、ドアをすり抜けた。勿論私は実体のある人間なので通り抜けられず、ドアに思い切りぶつかった。
「迷惑な幽霊だ。こんなことになるなら無視すりゃ良かった」
私はぶつぶつ呟いてドアを開け、愚痴をこぼした。
◆
「あちゃあ、今年は稲さんの元気が全くないねえ」
私がこちらに移って五年が経った。時の流れは早く、女は婚姻を結べる歳になった。女の弟は都で行われている工事を手伝う為に駆り出され、今はここにはいない。
「今年はお天道さんが威張り散らかしているなあ」
「雨が降ってくれにゃあ稲は育たねえんだがなあ」
私の事を意気地なしと言ったあの夫婦は二年前の流行病でこてんと亡くなり、女の隣の田を任されたあの夫婦の息子とその嫁は照りつける太陽を心配そうに見つめた。
私はいつもと変わらず、女が仕事をする姿を眺めていた。鳥が呑気に囀る中、砂埃を上げながらやって来る人を見て眉を顰めた。
「ああ、こちらにいらっしゃった」
その人物はほっと息を吐き、私に書を手渡す。
「これは?」
「ある方からです。すぐ読む様に、と仰せつかっております」
その手紙を開いて読み、私は唇を噛んだ。
「今になって私を呼び戻すか、あのボンクラは」
◆
今日はやけに浴衣姿の人が多い。
「今日、何かあるんですかね」
青年も首を傾げて通り過ぎる人を見ている。そして、電柱に貼ってある紙を見て納得した様に頷いた。
「ああ、雨乞い祭ですか」
夜には花火も上がるらしい。屋台なんかも並ぶらしく、寂れたこの地で唯一楽しい行事とも言われている。
「夜に行ってみますか」
ワクワクした表情で青年は雨乞い祭のチラシを見ていた。
「私も行くんですか、それ。人混み嫌いなんですが」
「行きます、これは決定事項です。一緒に行ってもらえないと食べ物買えませんし」
私は何度目かのため息をついた。人生で一番ため息をついた日になりそうだ。
青年が案内したのは鬱蒼と茂った森の中だった。
「ここです」
青年が指差したのは何の変哲もない地面だった。
「本当に?」
「ええ、私の記憶に間違いはありませんよ」
そして、掘ろうとなって私はスコップを持ってくるのを忘れていたことに気付いた。災難な日だ。
舌打ちをして辺りを見回し、太く長い枝を手折って青年の指す場所をちょっとずつ掘る。
掘り進め、手のひらに豆ができ、気付けば二時間も経っていた。そろそろやめてしまおうか、と枝をぐさりと地面に突き刺せば硬いものに当たる感触を覚えた。
「何だ?」
私が頑張って掘る姿に飽き、木の上でうつらうつらしていた青年は私の声に反応して降りてきた。無言で肩を叩き、親指を立てた。腹が立つのでこれが終わったら一発殴ろうと思う。
茶色の壺が見えてきた。紙で封がされている。長年地面にあったせいかその紙は茶色く変色しており中にあるであろう家系図が無事か心配になった。
「早く開けてください」
ワクワクとした声色で騒ぐ青年。
ついにキレた私は壺を持ち上げて青年に投げる。青年は避け、壺は地面に強く叩きつけられて割れた。
◆
「都にお戻りになられるのですか」
「嗚呼、だが直ぐにこちらに戻ってくる」
早く出立を、と急かされたが私はその言葉を無視し、女のもとへ向かった。しばらく姿を消すが必ず戻ってくるのでどうか私の事を待っていて欲しい、そして、その際には言いたい事があるのでどうか結婚はせずに待っていて欲しい。そう告げたかった。
女は田におり、枯れた稲を絶望しきった顔で見ていた。どの村人も同じ様な顔をしていたが女は特に酷かった。
それもそうか。他の村人には少なくとも一人は家族がいる。しかし、女は早くに親を失い唯一の肉親である弟を国に取られている。そこに私の都行きの知らせ。
この飢饉の中、知り合いもいないのはきっときつい事なのだろう。家族がいればお互いに励まし合って生きていけるがそれも出来ない。
私はまだ家族ではないが、この村の中で一番女と仲が良いと自負している。
現に、不安そうな女の顔が少しだけほっと緩んだのでその考えは勘違いではないだろう。
「ええ、お待ちしております」
女は懐から綺麗な翡翠色の石を取り出して私の手に握らせた。
「どうか、これを私だと思ってお持ち下さい」
しかし、政治的な思惑により私は二年間女のいる地に戻れなかった。どうにかこうにかして村に戻ると最後に見た乾燥しきった田ではなく、潤った田があった。青々とした穂を気持ち良さげに揺らす稲を見て私は微笑んだ。きっと、あの田で女は稲を育てているのだろう。私を待っているのだろう。そして、笑顔で迎え入れてくれるのだろう。
記憶を漁り、女の田があった場所へと足を早めた。ようやくだ。
田に人影があった。その影は女のものではなく、女の弟のものであった。
弟は私に気づくとこちらに来て、無表情で言い放った。
「貴方は遅過ぎました。姉は遠いひとの元へ嫁いでしまいました。あと少し早ければこんなことにはならなかったでしょう」
女によく似た瞳を細めて、責めるかのように弟は言った。
◆
家系図は巻物であり、ボロボロで触っただけで崩れてしまいそうだった。
「貸して下さい」
きっと私の方が扱いに慣れているでしょうから。
そう言われれば渡す以外の選択肢がなかった。触れるのかが疑問であったがそれは杞憂だった様だ。
丁寧な動作で紙を開いた青年は目を素早く走らせて唸った。
「こんなに文字が擦れて見えにくくなっているとは思いませんでした」
背後から覗き込めばミミズの様な字の羅列が見えた。残念なことに私は理系なので国語はからっきしだ。何と書いてあるのか読めない。
そんな中、一つだけ解読できたものがあった。
「水守女」
我が姓である水守。
水守女から下は線が引かれていないがその人物と兄弟の関係にあった人物からは線が続いている。
その時代、水守女以外に姓プラス女の表記がされた女性は他にはいなかった。大体が女、という一文字で済まされている。どうしてだろうか。
その家系図を一旦家に置きに帰り、そのあと私は箪笥の奥底にしまい込んでいた浴衣を引っ張り出して着替えた。
青年はその間はソファに座ってテレビを見ていた。腕に抱いたテディベアの両手を上下に動かしながらかなりシリアスな海外ドラマを見ていたがどう言う神経をしているのだろうか。
着替えを終え、いつもはそのままにしている髪を上の方で結わえてかんざしを刺す。薄く化粧をして青年の前に出れば、青年は一瞬瞳を揺らめかせた。
「お綺麗ですね」
「見え透いた冗談は言わない方が良い」
鼻であしらい、テレビを消して、行くぞとドアの方に向かいながら言った。青年はテディベアをソファに座らせて私の後をついてきた。
雨乞い祭は平安時代から行われている、歴史の古い祭りだ。
もともとこの一帯には田が広がっており、国に稲を納めていた。かなりの収穫量を誇っていたこの一帯だが、ある年から雨が降らなくなり稲が育たず国に納められなくなった。
良心的な国司であれば稲を納める量を少なく、又はゼロにしてくれただろう。しかし、ここの国司は悪人だった。農民の長が国司に嘆願書を出せば、農民風情がこの私に命令をするな、と一蹴し、さらに納める稲の量を増やした。
一応、万が一に備えてちょっとずつ蓄えていた稲を献上していたが、二年目に入る頃には貯蓄していた稲もなくなりどうしようもなくなった。
依然として降らない雨に、年々増えていく稲の献上量。
農民の長は今までやらずにいた儀式をするしかない、と決断を下した。
人を一人犠牲にして、水の神様の怒りを鎮めよう、と。現代を生きる私から見れば何を言っているんだ、と突っ込みたくなる考えだ。しかし、当時は科学も何も発展していない時代だ。何か悪い事があればそれは神様の反感を買ったからだ、と思っていたと何かの本で読んだ事がある気がする。
そして、多くのものがその犠牲者になる事を拒んだ。一部やっても良いと言ったものがいたが家族が必死になって止め、結局誰もいなかった。
どうするべきかと頭を抱えていた長の元に一人の女がやってきて自分がやっても良いと言い出す。
私はどうやら自分の信じていた人に裏切られた様で、生きている事が辛いのです。自殺も考えました。もう、生きることに執着はしておりません。ですから、この命、この村のために使いましょう。
女はそう言う。長は女の事情を知っていたので躊躇ったが生気のない瞳を見て確認をした。本当に良いのか、と。女は頷く。
そして、その翌日、女は白い着物を身に纏い、山の奥深くにある池に一人入っていった。その夜二年ぶりの雨が大地に降り注いだそうだ。
「全くもってアホらしい」
祭りの起源を思い出していた私は焼きそばを啜りながら顔を顰めた。信じていた人に裏切られたくらいで大袈裟な、と思ってしまう私はおかしいのだろうか。
「このリンゴ飴も買って下さい」
青年は立ち並ぶ屋台を楽しそうに巡り、欲しいものがあれば買う様に請求してきた。仕方なく屋台のおっちゃんからリンゴ飴を一本購入して横を歩く青年に手渡した。
「いやあ、このお祭りはとっても楽しいですねえ。活気があって良いものですよ」
リンゴ飴の包装をいそいそと取って舐め始める。私は食べ終わった焼きそばのトレイを設置されていたゴミ箱に投げ入れて、祭り会場の入り口で渡されたタイムスケジュールを見る。
「人柱の儀が十分後から本殿で行われるみたいですね。行ってみますか」
屋台をあらかた見終わり、暇になった私はそう提案した。
青年が頷いたので本殿へと向かう。祭りが行われている、水神を祀る神社の本殿には既に多くの人が集まっていた。
青年はリンゴ飴を口の中で転がしながら嫌そうな顔で本殿を見ていた。
「私の住んでいる神社とは全く違う雰囲気だ。何というか、禍々しい」
本殿のちょうど真ん中に舞殿があるのだが、そこで巫女達が鈴を振ってその場を清めていた。
しばらくして巫女達は退場し、続いてやって来たのはお面を被った、白装束の女。舞殿の中央にやって来た女は優雅に一礼すると、手に持った扇を広げて舞い始める。
日本舞踊に明るくない私は専門的なことはよく分からない。分からないがただ美しいと思った。
十五分ほど経っただろうか。尺八、和太鼓などの音に合わせて舞っていた女の動きが止まる。和楽器の音もなくなり、その場は一瞬静寂に包まれた。扇を勢いよく閉じてすり足で前へ進んで自らの胸にその扇を突き刺した。そして、ゆっくりと地面に倒れる。
和太鼓がダンダン、と鳴らされ尺八が哀しげな音を出して人柱の儀は終了した。
「よく分からなかったけど綺麗な舞だった……っておい、青年。聞いているか」
隣で見ていた青年は口からリンゴ飴を落としてわなわなと震えていた。
「おい」
肩を揺さぶれば青年は小声で何やら呟いていた。
◆
女が私の手から離れたと知ってからの人生は虚無だった。ただ、女が長年生きてきた地を汚す奴が許せなくて違法に高い税を取り立てていた国司は解任させ、私が代わりにこの地を治めるようになった。
農民のことを考えて土地管理をしていたのが良かったのか、農民からは好かれ、直談判や暴動、焼き討ちといったことは起こらなかった。
だが、ある夜。
都で私を嫌っていた一派が私の住む屋敷に押し入り、私は呆気なく死んでしまった。
まだあの地には悪人が潜んでいる。私の後釜に据えられた人物は野心が強く農民の生活を考えない奴だ。
このままでは死ねない。
私はあの女を死なせてしまった。しかし、あの女の弟はしっかりと生きている。そして、結婚もしていた。
未来永劫、私の力が及ぶ限りあの女の血を持つ人々を守りたい。
その強い思いから私は輪廻転生に逆らい、この地に居座る様になった。
あの女の血族をいじめる者は厳しく処罰し、救う者には困っている時に助けた。陰ながら見守っていたが、長い年月が経ったある時にこの地は戦火に巻き込まれた。その時にこの地に住むものは散り散りになり、あの女の血族もこの地を離れた。
そこから私は女の血族を見失い、いつか帰って来るその日までこの地で待とうと思った。
◆
「何やってるの」
一人家に帰れば先に戻っていたらしい青年が一心不乱に何かを探していた。部屋はぐちゃぐちゃでため息が出て来るのみだ。
「あのテディベアは何処にありますか」
焦った顔で私を見る青年。なぜそんなにあの熊に執着するのか。まあ、人の趣味嗜好をとやかく言うつもりはないが、顔立ちが整った人が必死に探すものがテディベアとはちょっとおかしい。
「それなら寝室に置いてある。青年、あのテディベア気に入ったんだろう。間違えて私が捨ててしまうかもしれないからきちんと管理はしてくれ」
青年は首を横に振った。
「違うんです。私が求めているのはあのテディベア自体ではない」
よく分からないが。
「とりあえずテディベア持って来るわ」
青年は懐をぎゅっと握りしめて頷いた。
私は寝室に行き、君が悪いと思っていたテディベアを見やった。無造作に置いたテディベアの綺麗な翡翠の瞳が電球の光を受けて煌めいていた。それが恐怖であり、そして切なくもあった。
乱暴に腕を掴んで青年のもとに早歩きで戻る。青年は手を握りしめて私を待っていた。
「ちょっと貸して下さい」
私は半ば放り投げる形でテディベアを渡した。
青年は何の躊躇いもなくテディベアから両眼をもぎり取り、懐から石を出して手のひらを閉じた。何やら詠唱を始めた青年の手に光が集まり、電球の光が消えた。
現実的ではないその光景に脳が考えることをやめたのか、私はそれを眺めていた。
十秒ほどで電球の光が灯り、青年の手に集まっていた光が周囲に砕け散った。
青年はゆっくりと手を開き、一つの塊になったものを見て涙を流した。
小さく謝罪の言葉を呟いた青年は翡翠色の石を胸に抱き抱えて姿を消した。
私は大きくため息をついて目のなくなったテディベアを掴んだ。前よりもさらに不気味になっている。だが、どうしてか捨てる気にはならなかった。
翌日。
青年は姿を消したままだ。そんな中、両親から蔵の整理をしてくれないかと言われ、敷地内にある蔵へと足を踏み入れた。
結構お宝な文書もあるらしく、古文書マニアの人がよく訪問しに来る。
まだまだ整理できていない蔵だ。ものすごい掘り出し物があるかもしれない。
そう思って、ふと青年を思い出し、平安時代の文書を見てみようと思った。
この蔵にあるものの中で一番古いとされている文書だ。きっと紙はぼろぼろに違いないと決めつけてその書物を取り出せば不思議なことにそれは傷んでおらず、黄ばんでいるのみだった。
水守自伝記。
達筆な字で書かれた題名は色褪せていた。開けば、ちゃんと虫干しをしていなかったのか、虫の死骸が挟まっていた。
水守自伝記を蔵の窓から差し込む日の光で全て読み、私はただ黙って両親に電話をした。
「良いのか、東京に住むことが瑞稀の望みだったじゃないか。おじいちゃんおばあちゃんに申し訳ないからって相続しなくても良いんだよ」
「良いんです。思い出の詰まったこの土地に水守以外が住んでしまうのは先祖に申し訳ないというか」
「みーちゃん、そんな先祖に申し訳が立たないなんていう時代錯誤も良いところよ。自分の生きたい様に生きれば良いの」
「だから、ここで暮らしていくことが私の思い」
有名大学を卒業し、東京の一等地にある高層マンションを買い、誰もが知る有名企業に就職した。最初、東京から離れ、仕事を休むことに強い抵抗があったし、相続することになった土地を整理しにいくことだって嫌だった。
世の言うワーカーホリックまっしぐらだった。
早朝にランニングをして祖父母の遺産を売るもの、捨てるもの、取っておくものに分ける日々。
先祖代々伝わる謎の翡翠色の石を気味悪がった祖母が、砕いて目にしたというテディベア。それを見つけた時には背中を優しく引っ掻かれた様な感じを全身が駆け巡った。
とにかく気味が悪かったので次の日ちょうど粗大ゴミの日だったこともあり即廃棄した。
そして、それを抱きしめた青年を発見したのだ。
「きっと、これは自己満足でしかないけれども、これは私の思い」
◆
〈伍・姉ノ事〉
私には大変美しい姉がおりました。私を産むとすぐになくなってしまった両親にかわり、私に愛情をたっぷり与えて育ててくれた優しい姉。
悲しいことに私自身は平凡な容姿でしたがそれでも優しくて美しい姉が大変自慢でした。
さて、私が十くらいのことでしょうか。私たちの村に貴族様がやってきました。そうです、つい最近までこの地に安寧をもたらしていた、あのお方です。
何があったのかは知りませんが都から追い出され、辺鄙な地にやってきたようでした。
出会いはなかなかに鮮烈なものでした。
喉が渇いたとごねる私のために姉はちょっと離れた共用の井戸まで水を汲みに行ってくれました。その帰りに木に登った貴族様を見かけたのだ、と姉は申しておりました。姉は問います。そこで何をしているのか、と。貴族様はこう答えたのです。木に登っているのだ。
見ればわかることを返してきた貴族様がおかしくて姉はくすくすと笑ったそうです。木登りをする貴族様なぞ聞いたことがない。そう言えば、貴族様はまじめ腐った顔でこの世は広いからな、知らないこともあるのだろう、と返されたのだとか。
〔中略〕
姉に約束をした貴族様は帰ってこない。姉は嘆いていました。同時に納得もしていました。きっと、都で私よりも遥かに良い方を見つけたのだろう、と。
一年が過ぎ、二年目に入りました。
姉の笑顔は見られなくなり、私たちが小さい頃に近くの山で見つけた翡翠の石をじっと見つめていることが多くなりました。田は干からび、することもないので仕方のないことかもしれません。夜には床から這い上がって光のない瞳を開いてふらふらと村を徘徊するようになり、流石にこれは見過ごせないと思って神社へと姉を連れて行きます。
神殿の前に連れていくと姉は気が触れたかのように笑い始め、髪を掻きむしりました。かと思えばいきなり糸が切れたかのようにプツンと静かになり地面に崩れ落ちました。動かない姉を見て心配になり揺すると目を閉じて寝息を立てています。
神職に問えば、精神が安定しようやくゆっくりと眠れるようになったのだと言われました。
〔中略〕
姉が、人柱になると言いました。
目にはどんよりとした光はなくむしろ清々しい色が浮かんでいました。
自分が生きていては他人の迷惑になる。どうせなら人の役に立って死にたい、と。
それを決めてからの姉の行動は早かった。
私にいつも見つめていた翡翠の石を託し、子孫に託すように言って家から出て行きました。私は止めましたが姉はこうと決めればそれを曲げない人でした。
そのまま村の洞窟に足を踏み入れて帰らぬ人となりました。
ああ、この命がなくなれば貴方は同情してくれるのかしら。でも、死を前にしても尚生きて貴方と微笑み合いたいと思ってしまうのは何故なのでしょう。
姉はその言葉と涙を残してこの世から解放されたのです。
そして、その数日後に貴族様は髪を乱して村に帰ってきました。まっすぐ私たちの田までやってきたのです。
私は遅過ぎた貴族様に残酷な現実を突きつけました。私たちの田には、青々とした稲はありませんでした。
姉を失った貴族様は都に戻るだろう。そう思っていたのですがこの地に留まり、高すぎる税を徴収する国司様を解任、自らがその地位に立ち、この地に住まうもののことを考えた行動をなさいました。朝から晩まで、まるで姉への贖罪のように。
根を詰め過ぎてはいけないと我々も何度も申したのですがそれを聞き入れず働きまくるのです。
貴族様は、自身の反逆派によって命を落とすまでろくに睡眠を取らずにおられました。ですので、私たちはようやく安らかにお眠りになられた貴族様をみて少しほっとしてしまいました。
どうか、姉と貴族様が来世で結ばれますように。
そう願い、私は貴族様をお見送り致しました。
【水守自伝記一部抜粋】
◆
遠くで目覚ましの鳴る音がする。私は腕を伸ばして目覚ましを叩こうとした。
カタン。
何かが落ちる音がして体を起こし、それを見やればテディベアだった。何だ、君か、と思いつつつまみ上げれば腕に何やら抱き抱えている。まだ焦点の合わない瞳を働かせてじっと見つめれば、翡翠の石だった。
「兄弟石故に引き合ったのか」
私は翡翠の石を一瞥し、目のないテディベアを無表情で見た後、裁縫セットを取り出した。
中学時代以来触っていない裁縫セット。家庭科実技の成績は散々なものだった。
だから、裁縫なんてしたくもない。ないはずだか。
針に糸を通す事も、玉留め、玉結びも、何もかも面倒で嫌なはずなのに私はその行為を楽しんでいた。
蔵から持ち出し、机に置きっぱなしだった水守自伝記。
窓から入った風でページがめくれ、最後のページが開かれた。そこには。
『貴方が最後まで私を思ってくれていたのに私は信じれなかった。そのことがとても悔しい』
まだ乾ききっていないインクの跡。
きっと、青年と私の先祖は巡り会えるだろう。
記憶は甘く切なく残酷で 東雲 蒼凰 @myut_cat
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