ケラソス・レーテー
「……っ!」
彼の手はとても冷たく、骨張っていて。
「手を離すなよ、祁答院!」
力強くて。
「東雲くん、それでは君が落ちてしまう」
汗ばむ手をぎゅっ、と握り締めてくれて。
「なら、本望……だっ!」
くい、と私を引っ張り、自らが落ちていって。
すれ違い様、彼は「大丈夫」と口を動かした。一瞬、宙に浮いた身体が屋上の床に叩きつけられ、一瞬呼吸が出来なくなる。背中の感覚が鈍る。
そのまま意識が飛んでいき、気付けば病院のベッドで寝ていた。
卯月。
桜は既に散り、見事合格を勝ち取った大学の入学式の日にはキャンパス内に植えられた枝垂れ桜には葉が茂っていた。他の入学者は残念がっていたが、私は葉桜の方が好きなので別に残念には思っていなかった。
友人と呼べる人のいなかった高校時代。無論一人である。
きゃっきゃっ、と騒ぐ、私と同じ新入生と、ただぼうっと桜の葉を眺める私。何故こんなにも違うのだろう。
何事もなく入学式、新入生オリエンテーションを終え、初日は終了。やはり友人も出来ず、世の言う“人生で一番楽しい時期”を楽しめそうにないな、と大学生一日目にして悟る。キャンパスから出て春の風を吸い込んでみた。ただ、排気ガスのにおいが鼻をついただけだった。
「何やっているんだ」
非常に懐かしい声がした。空耳だろうか、と思いつつも返事をしておく。
「春を味わっていました」
とは言っても、季節感なんてないにおいしかなかったけれど。
「久々に会えたんだから、もう少し驚いて欲しいのだが」
ふわり、と良い香りが鼻をくすぐり、くしゃみをしてしまう。
「ああ、東雲くん……か。お久しぶり」
春の陽気で回転の遅い頭がようやく現実を理解して。
声にならない叫びをあげた。
「器用だよね、何でも出来ちゃう祁答院さんって凄い」
「出来ない事、ないでしょう」
そんな風に小、中と言われて過ごしてきた。私はなんでも出来るわけではない。ただ、人より努力をして出来るようにしてきた。他の人と私との相違点といえば、努力の差でしかない。そもそも、私は人より不器用であるので私と同じだけ頑張れば皆は私を越えるだろうに。それに気づかず、私に出来ない事があれば「え、出来ないんだ。なんでも出来る事しか才能がないのに。意外だね」と笑う。
笑われるのが悔しくて頑張って、出来なかった事を出来るようにするうちに、私と他の人との間に高い壁が出来上がり、「祁答院さんと私達じゃ、レベルが違うし、一緒にいても不快にさせるだけだよ、くだらないことに興味ないでしょ」と言われ、クラスから疎外されていった。
知っている。クラスの中心的人物で美人の女子が憂さ晴らしに特定の人物を虐め抜き、何度もターゲットになった子を不登校に追いやった事を。私に出来ない事があったときに笑うのはその女子と、私から見れば取り巻きにしか見えない、その子の『友達』。見目は美しいけれど努力をしていないので頭は空っぽ。私をターゲットにしたのは、自分と対照的な場所にいる私に腹が立ったとか、そんな理由だろうか。
くだらない。虐められようが死ぬわけではない。度胸がないのか、物をとって泥水の中に落とすような、教師にバレるような事はされていないし別に痛くも痒くもない。私を嘲笑う言葉も、小鳥の囀りと思えば良いのだ。
小学三年の頃はそう思っていた。しかし、何故か小学三年間その女子と同じクラスになり、中学も三年間同じクラスだった。
「てっきり死んでしまったのかと思っていた」
「勝手に殺すな。まだやり残している事がたくさんあるんだ。死ねるわけないだろう」
「じゃあやり残した事をやり遂げたら、死んでも良いと?」
近くにあったカフェに入り、対面する形で座った。じいっ、とあの頃と変わらない、私よりも長い睫毛を見ていた。
「祁答院は、あの後どうしていたんだ」
彼は質問をはぐらかしてしまった。逆に質問される。
「どうしていたもこうしていたもないです。変わらず、普通に生活を送っていました」
あの女子は変わらず絡んできた。でも、少しその頻度が低くなっていたかもしれない。大学でようやくあの女子と別れ、ほっとした。
注文していたコーヒーがやってきた。私は一口飲んでその苦さに顔を顰める。
「あの後、どうして学校に通わなかったんですか」
「気分だ」
素っ気なく言ってココアを啜る彼は最後に見た時よりも大人びて見えた。
「でも、生きていて、良かった」
私も、彼も。
「そうだな。もう、馬鹿な事はするな」
何故か寂しそうに言う彼は窓から友人と楽しげに話す同じ大学の生徒たちをぼんやりと見て、何気なく聞いてきた。
「今も、死にたいと思うか」
頬杖をつき物憂げな表情をする彼を見て、あの頃より遠くなったと感じた。
「思わない。今は、この瞬間が続いてくれれば良いと思っている」
「そうか」
こちらを見ずにそう答えた彼はまだ怒っているのだろうか。
「東雲くんは、今何を考えているのですか」
澄んだ目をしていたのに今は闇を抱えている、まるで底無し沼のような瞳。思わず出てしまった言葉にハッとした。
「いや、何でもない……」
「何を考えているのだろう。自分でも分からない」
そう言ってから彼は見慣れているはずの満面の笑みを浮かべた。
「そんな事より、また会えて嬉しい」
彼のはずなのに、別人のような感じ。あの日、私は彼を壊してしまったのだろうか。
私は、私が愛する人を、この手で殺してしまったのだろうか。
高校の入学式。私はその女子がいることに驚いていた。同じ高校を受けた事は知っていたが、彼女の偏差値では入学できないはず。金持ちの家に生まれていたらしいので、金を使って入学したのだろうか。そこまでして私を壊したいのか、と呆れてしまう。
それも、また、同じクラス。高校に入学し、新しい『友達』を作って私に陰湿な言葉をかけてくるのだ。可愛い小鳥の囀りにも限度がある。
いつものようにその女子が近づいてきて毒を吐く。
「祁答院さんって本当に凄いですね。完璧すぎ。屋上から落ちても死ななそう」
人間、屋上から落ちたら死ぬで。良くて重傷。そう、心の中で突っ込んでおく。気分はお笑い芸人だ。ボケとツッコミと思えば辛くない。
「じゃあさあ」
次の授業の準備をし終え、トイレに行こうと席を立った。
「今度、やってみようよ。バンジージャンプみたいな感じで」
その女子の『友達』の一人が口の端をにい、とあげて笑った。
つまらない。くだらない。
何が楽しいんだか、笑っている。そんな彼女達を白けた目で見ているうちに休み時間が終わってしまい、トイレに行き損ねた。
授業はグループワークの様だ。四人一組でテーマを決めて調べ学習をするらしい。苛々とした空気を辺りに撒き散らし、席の近い人とグループを作った。あの女子の『友達』二人と、クラスで人気の明るい男子。女子二人は全然協力をしてくれず、私はため息をつきながら一人進めていった。
「祁答院さん」
男子が声を掛けてくる。ずっと教科書を見ていたからこの人も非協力的、私任せなのかと思っていたが。
「何でしょう」
「ちょ、楽くん」
女子二人が何やら言っているが、冷たい眼差しを向け、その人は私に問いかけた。
「ここの部分、使えそうじゃない?」
教科書を広げてニカっと笑った。私に、今までそんなふうに言ってくれる人がいなかったので動揺し固まってしまった。
「何やれば良いのかわからなかったから取り敢えず祁答院さんが手をつけていない教科書を見ていたんだけど」
言葉の尻に行くにつれ、声を小さくさせる。怒っていると勘違いさせてしまっただろうか。
「ありがとうございます」
「お礼の言葉を言うのはおかしいよ。だって、グループワークだよ。僕達はおんなじグループじゃん。だからさ、遠慮せず指示出して」
その人の名は東雲と言った。
今日、大学はない。ダラダラと大学近くに借りたマンションでテレビを見ていたのだがつい先程、東雲くんからお出かけのお誘いが来た。再会した日に連絡先を交換していたのだが、東雲くんから連絡をよこしてくるとは思ってもおらず、びっくりした。
“今日、暇か”
“暇ではありますが”
“じゃあ、出掛けないか”
“何故、何処へ”
“何となく、高校近くの繁華街に行きたいと思って”
“何故私ですか。お兄さんと行けば良いじゃないですか”
“兄がいる事を知っているのか”
“知っているも何も、教えてくれたじゃないですか、それに面倒です”
“じゃあ、十時に高校前”
強引だし外に出るのは億劫だし、テレビ見たいし、本当は断りたかったのだがどうやら私に拒否権は存在しない様だ。
仕方なく着替えをして私が通っていた高校まで電車を乗り継いで向かった。今日は休日だが部活動に行くであろう高校生がまばらにいた。ちらちらと門の前で立っている私服の人を見ている。
「まだ、九時五十分だ。早いな」
門にもたれていた人が私に気付いて声をかけてきた。私は早歩きで向かい、おはよう、と声をかける。
「じゃあ、行くか。ここは目立つし」
目立つと分かっているなら最初から違う場所で待ち合わせすれば良かっただろう、という文句を無理に飲み込んで頷く。変な意味で目立っていた私たちの事に気付き、変な噂を立てられては困る。
「そういえば、何を買いたいのですか」
わざわざ私を呼び出したのだ、何か一人ではできない理由があるのだろう。
「服とか、家具とか。実家を出て一人暮らし始めたから」
「そうですか」
適当なビルに入り、適当に見繕って購入した。キッチン用品も、と言われ、あまり料理はしないけれどもなんとか今までに読んできた雑誌や本の知識を思い出して選別した。
お昼になり、ビルに入っていたフードコートで適当に注文をして、もう必要なものはないから今度は好きなところに行って良いよ、と言われた。
「何だか偉そうですね、口調が」
「生まれ持ったものだから、仕方ない」
「そうですか」
高校の時の彼の口調はもっと、やんちゃなものだったはずだが。なるほど、あれは素ではなかったのか。クラスの人気者でも猫を被ったりするんだ、と変なところで感心した。
「では、書店に行きたいです」
「書店に?」
「はい、言ったことありませんでしたっけ。私は本に住まう人間です。本の人、なんてあだ名を付けられたこともありましたね」
最も、それは私に友人がいない、と嘲笑う悪口ではあったが。まあ、私は本の人、というネーミングを気に入ってしまい、心の中で自分の事をそう呼んでいる。
「だから、すごく物知りなのか」
彼はラーメンを頼んでいた。豚骨ラーメンである。さらに餃子まで頼んでいたのでびっくりだ。私は蕎麦を頼んだ。東雲くんと同じ麺類であることが少々頂けない。何だか分からないけれど、腹が立つ。
「で、書店に行っても良いですか」
よく考えれば彼と一緒にいる必要はないのだ、私は任務をこなせたのだし、ここからは別行動でも構わない。質問してからその事に気付き、そう提案しようとした。その前に、良いよ、と言われてしまい、この後も行動を共にすることになった。
食事を終え、書店に入って好きなシリーズの新刊を発見して即購入をした私を苦笑した顔で見る東雲くんにグーパンチを食らわせつつ、書店の前に設置されたベンチに座った。私が殴ったお腹をさすりながら私の隣に腰を下ろし、ワクワクした表情で本を捲る私をぼんやりと見る。かなり恥ずかしい。
「見ないで頂けますか」
「無理。見られたくないんだったら家で読めば良くないか?」
現代人なんだから、スマホで時間をつぶせば良いだろう、と心の中でツッコミを入れながら冷たく言った。
「家に帰る時間が惜しいです。前巻で死んでしまった主人公が……」
「分かった。分かったから変な事言わないから心ゆくまで読書をお楽しみ下さい」
面倒な空気を察してか、私の話を遮ってぶっきらぼうに言われた。ここまで冷たい人ではなかった。ちゃんと私の話を、面倒な顔をしていたが聞いてくれた。でも、時が人を変えたのかもしれない。
「変わりましたね」
「まあ、人間はそういうもんだ」
その後十五分程本の世界に没頭し、肩を強く揺さぶられるまで目の前に人が立っている事に気付かなかった。はっと目をあげると大層機嫌の悪そうな顔であの女子が睨んでいた。私の手から本を取り上げ、フン、と鼻で笑うと高いヒールでそれを踏みつける。本は見事に折れ曲がり、それを見て怒りを感じた。
そういえば、東雲くんはいないが、先に帰ったのだろうか。まあ、良い。こんなところを見られても困るだけだ。一人で解決しよう。
「ねえ、久し振りだけどさあ、何してた?」
本を拾い上げて鳩尾に掌を落とした。あの女子はうめき、あり得ない、と言った目で私を見た。今まで反応という反応を示してこなかった私がいきなり殴ったからだろう。
「何すんのよ!」
驚き、そして怒りの表情をして私の髪を掴んだ。グイ、と引っ張られるが気にせず弁慶の泣き所に蹴りを入れる。大学に進学しても、この女に付き纏われるなんて御免だ。今日こそ、言ってやる。
「何してんだ、公衆の場で」
今までの鬱憤を晴らそうと大きく息を吸い込み、一気に吐き出そうとした時。
もう帰ったと思っていた彼が表情を消した顔であの女子を睨め付けていた。両手にペットボトルを持っているところから飲み物を買うために私の側から離れたのだろうと分かった。
「楽くん⁉」
あの女子は東雲くんの姿を認めた瞬間に青ざめた。
「まあ、そうだけど」
「だって! あの時死んだんじゃ」
「失礼な人だ。ここにいるのに死んだとかなんとか」
私の手に握られた本をチラリと見て、顔を分かりやすく歪めた。
「最低だね」
その瞬間、その女子は泣き出しそうな顔で東雲くんを見、私を睨み、走って去っていった。あの女子に同情するつもりはないが、不憫に思った。
恋い焦がれていた相手にあんな目を向けられ、拒絶されたのだから。私ではもう生きていけないくらい絶望的な感情を抱くだろう。
「はい、これ。あと、ちょっと待っていて」
手に持ったペットボトルを両方私に手渡し、本を一瞥すると目の前の書店に颯爽と歩いていった。悔しいがその後ろ姿がカッコ良かった。何も考えず炭酸飲料の方を開け、口に含み、固まった。炭酸飲料は苦手なのだ。しくじった。でも、勿体無いから全部飲まなければ。ごくごくとものすごい勢いで飲み、彼が戻ってきた時には空にしていた。
目をまん丸にして私の手元を見、笑って書店の袋を渡してきた。
「ありがとうございます」
今度、この本と炭酸飲料のお金を返却します、と心の中で思いながら礼を言った。
「ねえ、楽くんと仲が良いみたいだけど、どういう神経をしているの? 分かっていると思うけど、楽くんはクラスのアイドルみたいなもんなの。あなたみたいな人と話せる様な人じゃないの。分かった?」
どういう理論だ、無茶苦茶だ、と思った。だから、あの女子の言葉を、警告を無視した。
あのグループワーク以降、彼の中では私はちょっとした会話をする友人、という位置づけになった様で一日一回は他愛のない話をする関係に昇格した。私の中ではちょっとした憧れの人、であって友人ではない、と認識している。
「ねえ、聞いてるの?」
痺れを切らしたその女子は私の手を強く叩く。教室にぱしん、と大きな音が響いたが誰も助けはしなかった。生憎、東雲くんは教室にいない。
「あ、そうだ。これ、切っておいたよ」
顔を茹でタコの様に赤くしていたが、何を思ったのか余裕ぶった顔で私に何かを見せつけた。
「これ、大切にしていたものでしょう?」
それは、母が幼い頃亡くなったという母の妹、私から見て叔母にあたる人が死んだ時、開け放たれた窓から入ってきた、白いポピーを押し花にしたしおり。
私と同じくらいの歳で亡くなったという、優しく美しかったという叔母を勝手に尊敬していた私はなんとか母に言ってこれを手に入れたのだ。
しかし、それを粉々にされた。さらさらと、細かく刻まれたしおりの外見を保っていないそれを机の上にまぶした。
「落ちていたから」
上品な笑みを浮かべて私の表情を満足そうに見やった。
「そう」
本当に大切なしおりだった。あの女子に何かされないようにいつも持ち歩いていたのに、どのタイミングで。
席を立ち、笑顔を取り繕って教室から逃げた。逃げないと、感情の赴くままにあの女子を殴ってしまいそうで怖かったから。どこに向かっていたのかも分からず、ふらふらと歩けばどうしてか屋上に立っていた。
今度、やってみようよ。バンジージャンプみたいな感じで。
それも、良いかもしれない。今まで蓋をしてきた気持ちがぶわっと溢れ出した。もう、疲れた。辛い。この世界に私の居場所はない。
ここからとんだら楽になれるかな。
転落防止の柵を跨ぎ、笑った。転落防止。落ちようと思っていない人にとっては有用だが、落ちようと思っているものにとっては無用の柵だ。笑ってしまう。もしかして、ここで自殺した生徒が、なんてワイドショーのおかずになるかもしれない。
そんな事を考え、下を見た私はその時狂っていたのだ。ここで、思い切り狂っていれば他人に迷惑なんてかけなかったのだ。
悲しくも、私の行動を必死で止める声が耳に届いてしまった。
「祁答院!」
東雲くんは、私の行動にぎょっと目を大きく見開き、叫んだ。私は体を前に傾げていたが、その言葉に引き戻されてしまった。
そういえば、東雲くんは何故屋上に来たのだろうか。
それから東雲くんとは月に一度食事をするようになった。食事といっても彼は実家からの仕送りに頼っているため安価な店で、なんのムードもなく、だったが。その食事を何度もし、三月に入った頃。二度目にお出かけに誘われた。今度はちゃんと、直接言われた。これで高級レストランで、であればちょっと勘違いをしてしまうが、安価なファミリーレストランで、だった。
「桜の名所に行きたいんだ。一人だと悲しいから、一緒に来てくれるか?」
「まあ、良いけれど。良いの? 恋人とかいないの?」
「そっくりそのままその言葉を返す」
「はは」
私は、悔しいことに彼に恋をしてしまった。まあ、初めてこんなに気兼ねなく話した同世代であり異性であればそうなるもの普通であろう。この、付かず離れずの距離を心地よくも、焦ったくも思うほどに初恋を育てていた。仮に、彼に想い人ができたなら、と想像しただけで苦しくなった。
「何やってるんだ」
喉の皮膚を引っ張っていると呆れた目で見られた。
「あはは」
何とか祁答院を花見に誘ったが、その日は生憎の雨だった。まだ寒く、指先がキンキンと冷えた。待ち合わせをしていた、花見スポットの最寄駅で祁答院を見つけ、手を振ると無表情で振り返された。
「これ、貼らないカイロ」
ブスッとした顔で渡された未開封のカイロに心がほんわりと暖かくなった。ダメだ。本来なら関わることもいけないのに、こんな感情を抱くなんて。
「ありがとう」
「じゃあ、私方向音痴だから案内よろしく」
「はいはい」
敬語が抜け、変な笑顔も抜け落ちた祁答院は側から見れば無愛想だ。しかし、微かにしか動かない表情筋は素直で、話も面白い。まだ会って一年程だが、双子の弟が珍しく気にしていた少女に惹かれてしまった。間接的に弟、結楽を殺した人だとしても。
あいつが好きだったカンザクラは、まだ寒いというのに花を咲かせていた。祁答院は、キラキラした目でカンザクラを見ていた。
今日、あいつの好きな桜の下で全て告白すると決めた。一年、一緒にいたんだ。もう、あいつの身代わりなんてしなくても、自分の幸せを追い求めても良いよな?
「東雲くん」
ふ、と口を開いた祁答院。僕は目だけを動かして祁答院を見た。祁答院は一切こっちを見ていない。
「私、やっぱり東雲くんが好き」
恐らく、無意識に言っていたのだろう。言った後、顔を赤らめて俯いた祁答院は泣きそうだった。
「あっ。ごめん。つい本音が」
僕の方が、泣きそうだ。その、東雲はどっちを指している?
きっと、弟の方だ。この悲しみを君にぶつけたい。侮辱されそうで怖いが、それより、祁答院が自分の知らないところで事実を知ってしまった時の方が怖い。
「祁答院。僕は君をずっと騙していたんだ。それでも、か?」
弟が屋上から落ちた、と連絡を受け取った時、僕は電車の中だった。学校が終わり、家に帰る途中だったが、弟が搬送された病院に向かった。
血を分けた、双子の兄弟が虚な目を空に向け何かを探していた。
「楽久、楽久」
僕の名を呼んでいた。僕は結楽の口元に顔を寄せる。楽久は僕が近くにいる事を察したのか、お願いをしてきた。
「僕が死んでも、死んだ事は伏せて欲しい。祁答院を悲しませたくない」
後で聞けば、祁答院という奴を助けたが為にこんな状況になっているという。
僕は双子の弟が大好きだった。だから、死んでしまった時、祁答院を恨んだ。弟が通っていた学校に行って祁答院を探し、締め上げてやろうと何度も思ったが弟の言葉が僕の行動にストップをかけた。
高校卒業まで、僕は祁答院を憎みながら生きていた。そして、大学のオリエンテーションの帰り。誰かが近くでボソボソと話しているのが聞こえた。
「あそこのいる子、可愛くね? 後で誘おうかな」
「やめとけ。祁答院は高校にいた頃目立ってたグループに目を付けられてたんだよ」
祁答院、と聞こえたので怪しまれない程度に近くに行き話を聞いてみる事にした。
「えー、あんなに可愛いのに?」
「だからだよ」
「女子って分かんねー」
「ほんとだよ。祁答院、あんな見た目で屋上から落ちようとしたんだ」
話をしている人達の目線を辿れば花のついていない桜をぼうっと眺める儚げな女子が立っていた。
思わず、話しかけてしまった。復讐とか、そういうものを一切持たずにただ興味から。あいつになり変わって、あいつがどんな思いで祁答院と関わっていたのか知った。そして、最初興味だと思っていたのが興味ではなかった事も。
僕は、自分を偽って、実家から通っているのに、友人に頼み込んでここが自分の借りている家だと、あいつが死んでいる事を知られたくなかったが為に嘘を付いてここまで来た。
あいつが最後に言った願いの為ではなく、祁答院が惹かれていた片割れでないと気付かれたくなくて。
しかし、それも今日でしまいだ。僕は祁答院に嘘偽りのない事実を話す。そして、それがもし、もし受け入れられたのならば、最後の告白をしよう。
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