第4話
「私もお水もらっていいですか」
一瞬何のことを言われているのか分からなかった。ただ、目の前にある色素の薄い茶色い瞳だけが私の意識の中に飛び込んできて強烈な光を放った。野生の狼みたいだと思った。凛とした、強さをふくんだ目。実際に野生の狼を見たことはないが、なぜだかそう思った。それは彼女の意思そのもののように静かに息づいていた。
真っ直ぐに向けられていた瞳が一瞬不安げに揺れたことで停滞していた空気が動き、ハッとした。彼女から話しかけられていたことを思い出し、頭の中に咄嗟に浮かんだバラバラの文字を素早く捕まえて、言葉にする。
「あ、あの、ごめんなさい、お水ですよね。どうぞ」
とにかく早く返事をしなければいけないと慌てたせいで、カタコトのような拙い日本語になってしまい恥ずかしさで顔が熱くなった。顔が赤くなっているのが自分でもわかり、それを誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべながら、ぎこちない仕草でピッチャーの持ち手を彼女側に向けて差し出す自分を、気持ち悪いと思った。
ピッチャーを手渡すときに、ふと、隣に座る男の存在を思い出して、気づかれないように盗み見ると、男は私のことなど気にもしていないかのように、下を向いて携帯か何かを操作しているような仕草をしていた。首をこれでもかと下に垂らしていて顔は見えないが、頭頂部に鎮座しているふたつのつむじが彼女と私のやりとりの様子をこっそり窺っている気がした。個室内の空間をぼんやりと照らす橙色の光は、男のつむじ周りに密集している白髪をギラギラとまだらに浮き立たせた。
こんな男に見られて恥ずかしいことなど、もう何も無いはずなのに、さっき気持ち悪いと思った自分の姿を男が見ていなかったことに何故かほっとしていた。
「ありがとうございます」
そう言って彼女はちいさく会釈をしながらピッチャーを受け取ると顔を緩ませた。目が三日月を横にコトンと倒したような形になり、そこには人懐っこさが滲んでいる。
彼女が水を注いでいる様子を眺めているのはどこか不自然な気がして視線を外したが、そのあとどこに視線を向けるべきなのか分からなくなってしまった。それは、自分の呼吸を意識してしまった途端に今までどうやって自然に息を吸ったり吐いたりしていたのかがわからなくなってしまう厄介な状態に似ていた。どれくらいの量空気を吸ったらいいのか、はたまた、息を吐く長さは何秒くらいだったか、意識せずにしている自然な呼吸に立て直そうとすればするほど、不自然にちぐはぐな呼吸になってしまうときみたいな状況に陥った。うキョロキョロするのは一番まずいと思い、たまたま目についたテーブルの上の水滴に視線をとどめた。
まるくぷっくりと浮き上がる水滴を見つめていると、この水滴を見つめているからには何かアクションを起こさなければいけないと、今度はなにか脅迫めいたものを感じ、一円玉程の大きさの水滴に左手の人差し指を置いた。それは、確かに触れているはずなのに、触れているのかいないのか分からない不思議な感覚だった。指先を通して感じている水滴の温度と、今私の体の中に存在する体液の温度は少しの狂いもなくぴったり同じ温度なのではないかと、いい加減なことが頭に浮かぶ。そう思うとなんだか水滴に触れている指先がそわそわとむず痒くなってきて、私は置いていた指に力をいれてテーブルにその得体の知れないそわそわをなすり付けるように指をすべらせた。
ぺしゃんこにだらしなく伸びた水滴を見つめていると「大丈夫ですか?」と声が聞こえた。
「え」
一瞬、水滴と戯れていたことを咎められたのかとおもい、ドキッとしたが、そういうことではなさそうだった。彼女は私の顔を少し覗き込むようにして、「具合は大丈夫ですか」と言葉を繋いだ。具合は大丈夫ですか。
その言葉は日本語ではないように聞こえた。英語やフランス語などの、私が聞いても理解できない言葉のように耳に流れ込んできた。驚いていたのだ。自分の思考が置いてけぼりを食らうくらいに驚いていた。以前、占いに行った際に、過去に付き合っていた人の誕生日をピタリと言いた当てられた時以来の驚きだった。私の体調を、ほとんど初対面の彼女に指摘されたことに動揺してしまい言葉が詰まった。なんて言おうか迷っていると、説明が足りてなかったというように、「少し前から、顔色が良くないなって気になってて、大丈夫かなって」と遠慮がちに彼女は言った。心臓の鼓動が静かに加速していった。いつから私の事を見ていたんだろう。彼女について考えていたこと全てを見透かされているような気がして、その後ろめたさから胸が苦しくなった。
「ずっと私のこと見ていたんですか」
頭に浮かんだ疑問が、口から勝手に出てきた瞬間、しまった、と思った。自分の意思とは関係なく発してしまったその言葉は、彼女と私の空間にはっきりと響いた。
彼女は一瞬キョトンとしたが、すぐに目元を緩めた。
「唇が真っ青です。あと、腕さすってましたよね。寒いんですか?」
ああ、見ていたのか。助けを求めて周りを見渡したときに知らんぷりしている私をどんな顔で彼女は見ていたんだろう。それを考えると、とても怖くなってしまった。
「少し寒いかも。」
「エアコンの風が当たるからかな。良かったらこれ着てください」
そう言って彼女は薄手のカーディガンを手渡してくれた。
「ありがとう」
ふわりと桃のような柔らかい匂いがした。
そのやりとりの隣で男は酒を飲みながら小さくなっていた。わたしはわたしで、三年の月日が流れているのにも関わらず、未だにこんな調子でビクビクしなきゃいけないことに正直疲れ果てていた。あの一件から飲み会には欠席していた男が、今日は何故だか参加しているお陰でこんなに居た堪れない気持ちになっていると思うと腹が立った。今回参加したのはきっと、三年ぶりに新入社員がはいってきたからだ。
改めて卑怯な男だと認識するのと同時に、彼女のことを守らなければと思った。
星空行き列車 手塚 未和 @mit0618
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