第3話
一瞬、血が沸騰するような熱さが身体中を巡る。そのあとを追うようにつめたい冷気が血管の中にするすると流れていく感覚がした。心の動揺が体の不調となって現れるのは今までもよくあった。その大抵は後ろめたいことがあるときに発作のように現れた。
私は何故か自分のことは棚に上げて、周りに対しての憎悪を滾らせていた。自分から彼女に救いの手をのばすこともできるはずなのに、その役目を他人になすりつけ、思うようにことが運ばないと理不尽に腹を立てていた。それは吐き気を催すまで無自覚だった。当たり前のように自分を部外者として考えていたのだ。その驚くほどの傲慢さに弱い笑いが込み上げる。僅かに引っ張られた唇の皮がぴぴぴっと破けて鋭い痛みが走った。その痛みを和らげようと、破けた箇所に温かい舌をあてるとはっきりと濃い血の味がする。誰よりも軽蔑すべき人間は自分自身だった。
彼女のことを気の毒に思う気持ちは確かにあった。怖々と引き攣る彼女の顔をみていると可哀想で、みぞおちの辺りがジリジリと焼かれるように痛んだ。でも、その可哀想という気持ちには下心が混じっている気がしてならなかった。心の底から素直に湧いて出た清潔な感情かと問い詰められると、正直分からなかった。心ではなく脳がそう思うように仕向けているのではないかと自分の感情を疑っていた。彼女に対して同情心を持つことによって、自分の黒い心を真っ白な殻でコーティングし、誤魔化しているのではないか、と。それは無関心にやり過ごそうとしている人たちよりもよっぽどタチが悪かった。自分は善良な心をもっていると、自分自身で無理に信じ込もうとしているようだった。そう信じることによって、心の健やかなやわらかさを維持するように。善良だと自惚れた時点で透き通った心はみるみるうちに黒くなり、腐臭を撒き散らしながら腐っていく。自分の心が時間の流れとともに固く冷たくなっていることを受け入れるのが怖かった。
真に善良な人は、自分の感情や思考、それに付随する行動を善と自覚することはない。いきなりナイフを突き立ててメリメリと割り込んできたその言葉は、私の恐怖心を嘲笑うかのようにひっそりと悪意をもって頭の中に響いた。
肌に張り付く冷や汗が空気をふくんで冷たい。蒸し暑い室内に規則的に流れるエアコンの風が余計にその冷たさを際立たせ、体の奥の体温をさらっていった。シフォン生地のブラウスの上から右腕に触れると、手のひらの温度がじんわりと温かく溶けだした。凍っていた身体が解凍されるかのようにゆっくりと生気を取り戻す。そのまま腕をさすっていると、ブラウスが私の手汗を吸い込んでほのかに湿り気を帯び、溶けてしまいそうにしんなりとへたっていた。
口の中が乾いて動かしづらかった。周りの騒がしさに紛れ込ませて、あ、と小さく声をこぼしてみる。喉がカサついているからか、声が内側にひっついて出しづらい。なにか水分を流し込めば、たちまち喉の粘膜はてらてらと滑り、声の通りが良くなる気がしたが、甘ったるいお酒を飲む気にはなれなかった。テーブルの上に置いてある、水の入ったピッチャーに手を伸ばす。持ち上げると意外と重たい。不意きたその重さに、支える手首が頼りなさげに揺れて、結露した水滴がぽたぽたと滴りテーブルにまるく跡を残した。グラスの中にはクーニャンがまだ3分の1ほどくたびれて残っていたが、構わずに水を注ぐと、水圧に押された氷がグラス内をバタバタと循環し、溺れているように見えた。薄く色づいたべっこう色の液体を一気に飲み干す。飲み込むたびに、ぐっぐっぐっと勢いよく通り過ぎる水分が喉を押し広げ鈍く痛んだ。2、3個残っていた氷も口の中に流し込み噛み砕いて喉の奥に追いやった。もう一度、あ、と声を出し、喉の調子を確認すると、さっき流れていったはずの氷の冷気が食道を逆流し、乾いた咳になって押し寄せた。ごほ、ごほ、と苦しく鳴る咳をなるべく抑え込むようにしてやり過ごしていると、その音に反応して、隣に座っていた女性が私のことをチラ見した。その反応をうけて、私はここに存在していることを改めて実感させられた。
咳が落ち着いたところでまた水が飲みたくなり、もう一度ピッチャーを持ち上げ、空いたグラスに水を注ぐ。グラスの底に水と氷が打ち付けられると、静かな音になって耳に届いた。注ぎ口からささやかな川のように流れる水を眺めていると、あの、っと音が聞こえた。
その音の余韻を辿って視線を上げると、彼女と目が合った。もう一度「あの」と発せられた音ははっきりとした声になって頭の中にはいってきた。
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