第30話 プロポーズ
森本さんの想定外の言葉に、背筋が凍る。私の様子の変化に、再び川の方に向き直った彼は気づいていない。
(ちょっとまって・・・前世の記憶があるってことは、過去の私のことも覚えているってこと?)
人生の最期に、あんなにもひどい仕打ちをした女を、よく思っているはずがない。過去の奥さんがひどい女で、結婚に対して億劫だった、という話だろうか。
それとも、私が前世の妻であるということに気づき――昔の恨み言を言おうとしているのだろうか。
(待って・・今その話は・・聞きたくない・・・)
「あの・・・!」
「・・俺はさ、最低な男だったんだよ」
想像していたのとは真反対の言葉に、話の方向性を見失う。
「えっ・・どういうこと?」
私の問いに対して、彼はゆっくりと、遠い昔を想いを馳せるように、丁寧に言葉を紡いでいった。
「前世の記憶があるって言っても、生涯のすべてを覚えてるわけじゃねえんだ。最後の一年を、虫食いで覚えてるだけ。俺、前世の最後はがんで亡くなったんだ。結婚してて、奥さんと息子がいて。――でも最後の一年で覚えてるのは、ほとんど奥さんとの記憶だった」
彼は少しうつむき、両手を組んで、言葉を続けた。
「体もだんだん動かなくなってきててよ、辛くて、苦しくて・・死ぬのが怖くて。それで、目の前にいる奥さんに当たり散らしてたんだ。
・・甘えてたんだなあ、前世の俺は。奥さんは、俺の言動に怒りながらも、一生懸命世話してくれててな。でも本当に在宅療養の最後の方、俺は言っちゃあいけねえことを言ったんだよ、奥さんに」
森本さんの声が、かすかに涙声に変わっている。
前世と言えど、死ぬ間際の苦しみと悔恨を覚えていると言うことがいかに辛いかということは、私も身に染みて知っている。・・・それが大事な人に向けてしまった刃であれば、なおさら。
そして彼の心に強烈な後悔とともに残っていたその言葉は――私が、「この人は、私を恨んでいるかもしれない」と思ったきっかけの言葉でもあった。
「『お母さんは、もっと優しい人だと思ったのに』って、言っちゃったんだよ。それを聞いた奥さんは、すげえ落ち込んで。
俺、謝ろうとしたんだ。売り言葉に買い言葉だったって。俺はお前に感謝してる。全然怒ってなんかいねえよって――でも言えなかった。
そのあたりから、俺の意識は混濁して、言葉を発することができなくなっちゃったんだな」
――思いがけず、彼が前世の記憶の一部を覚えていたという衝撃の事実とともに、夫の最期の想いを聞いて、私も涙が溢れた。拭っても拭っても止められないその涙に気づき、森本さんは優しく私の肩を抱いてくれる。
「本当に、最後の最期に意識が戻った時――俺が見たのは、『お父さん、優しく出来なくて、ごめんなさい』って、俺に向かって泣いて謝り続ける、奥さんの姿だった。
後悔したよ――後悔してもしきれねえ。・・だから俺は、再び結婚して、奥さんを持って、幸せにするっていうことに――自信がなかったんだよなあ」
隣にいるのは、「森本さん」のはずだ。――だが、この瞬間だけは――隣に座っている森本さんの姿が、深い皺をおでこに刻む、白髪頭で猫背の、かつての「夫」の姿に見えた。
「でもさ、覚悟は決まったからさ。――うんと幸せにするから、今度は絶対に最後まで大事にするから。俺と結婚してくれるかなあ、みさきちゃん」
そう言って、森本さんは、スーツのポケットから、ケースに入った指輪を取り出した。
「プロポーズはみさきちゃんからだったけど、俺もちゃんと、みさきちゃんにプロポーズしたくてさ。だいぶ遅くなっちゃったけど、これ・・給料の三ヶ月分もねえけど・・・受け取ってください」
「給与の三ヶ月分」という古臭いフレーズに、私は昔に引き戻されたような気分になって、笑ってしまう。
そしてこれが、実はトータル百年近い記憶がある私にとって、初めてのプロポーズであることに気づく。
この人と初めに結婚したときも、親族に着々と準備を進められてしまったので、彼からの求婚はなかったのだ。
愛する人からのプロポーズが、痺れるように甘く、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
私は溢れんばかりの喜びを胸に、涙でグシャグシャの顔を必死に整えながら、この百年で一番の笑顔で答えた。
「ありがとう、喜んで。私も、森本さんを――武さんを、一生大事にするわ。人生の・・最後の最後まで」
これまでずっと胸につかえていた「後悔と懺悔」が、少しだけ溶けて、軽くなった気がする。・・しかし、彼は怒っていなくても、あの時弱りきった彼にした、私の仕打ちが消えるわけではない。
私が背負った十字架は、今世での最後の時を、お互い笑顔で迎えるまで、消えることはないだろう。
でも今度の人生では――私は覚えている、あのときの後悔と心を裂くような悲しみを。
「これからよろしくな、俺の奥さん」
そう言って、私の薬指に小さなダイヤの光る華奢な指輪を、慣れない手付きではめてくれる。いつもの笑顔でニカッと笑った森本さんは、私を力いっぱい抱きしめた。
前の人生の記憶は、きっと彼がこの先一人で不幸をかぶろうとした時、彼を助けるために役立つだろう。
いつもうまく行くとは限らない。でも一人で抱えることがどんなに辛いかは前の人生で学んだことだ。辛いときは家族を頼り、外の力も借りようと思う。
そして、私ができる精一杯で、彼の幸せを守り続けるつもりだ。
赤く染まった夕暮れが、緩やかにゆらめく川面を桃色に染めている。私達は涙で濡れたお互いの顔を見て、もう一度笑いあったのち、ベンチを後にする。
鶴見川の終わりの見えない曲がりくねった穏やかな流れは、まるで私達のこれからの旅路を表しているようだった。
FIN
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