第29話 前世の記憶

 どれくらい、時間が経ったのだろう。

 私は花束を突き出した、お辞儀をした格好のまま、顔を上げられずにいた。


(やっぱり…唐突すぎたかしら)


 そう思い、目にためていた涙が、ポツリ、ポツリと床に落ちた時――突然、森本さんが笑い出した。


「あはは…すげえなあ。本当に、積極的になってまあ」


 ゆっくりと、おそるおそる顔を上げると、森本さんは照れくさそうな、しかし複雑そうな表情をして私を見ていた。


「でもさ、みさきちゃん、俺、将来性ねえよ? 大学出てねえし。結婚したとしても、裕福な生活はできねえ。弟も高校生で、まだまだ金もかかる。それに――もっと、みさきちゃんを幸せにできる、いい人がいると思うんだよな」


 森本さんは、弱々しい笑顔で微笑んだ。私に諦めようとさせているらしい。自分は私にはふさわしくないと、そう言いたいのだろう。


 唇をキュッと結び、勇気を振り絞る。みっともなくても、涙でぐちゃぐちゃで醜くてもいい。だってもう、絶対この人の手を離さないと決めたのだ。


 私はなりふり構わず、かつて不幸を背負って逝かせてしまったこの人に、自分の気持ちを思い切りぶつけた。


「年収も、将来性も、なくて結構です。ダブルインカムなら十分暮らしていけます――それに…私の…私の幸せは、『愛する人を笑顔にすること』なんです。将来性のある、エリートサラリーマンと結婚することじゃないんです。私が卒業して、就職したら籍を入れてください。二人で力を合わせれば、仁くんの大学の費用だって、なんとか出来ます。…それでどうでしょうか」


 恥ずかしさと、緊張と、久しぶりに大好きな人に会えた嬉しさとで、もう心の中はぐちゃぐちゃだった。だけど、言いたいことは言い切った。


 最後に、もうひと押し、私は森本さんに問いた。


「私じゃ、だめでしょうか…」


 再び泣きそうな声でそう言った私を――森本さんは両腕で抱き寄せた。


「ああ…もう。だめじゃねえよ。…むしろ、贅沢すぎるくらいだよ、俺にとっちゃー。本当にもう、おっとこ前なプロポーズ決めやがって。立場ねえじゃねか、ちくしょう」


「それって…」


 顔を上げようとすると、片手で頭を彼の胸に押し付けられた。一瞬見えた森本さんの頬には涙の筋が見えた気がする。


「…とりあえず、飯、食わないとなあ。しっかり食って、元気になって、ガツガツ仕事して、体も鍛えねえと。――かわいい嫁さんをもらうんならなあ」


 森本さんは、そう言って私を抱く両手に、力を込める。私も、彼が今ここに生きていることを――彼の少し薄くなった背中に手を回して、しっかりと確かめた。


「…しっかし、すげえ花束だな。いくらプロポーズと言えど、趣味悪いって、この色味のチョイスは」


 その言葉に、私は思わず吹き出し、涙を拭う。そして、「そう思いますよね」と笑って答えた。


 それから私達は、これまで会えなかった時間を取り戻すように、たくさん話をした。この間食べたパンの話や住んでいる地域の話、亡くなったお母様のこと、森本さんの事故のこと、弟くんのことやこれからのこと。


 森本さんの言うとおり、私はまだ大学生で、結婚するには超えなければならないハードルがたくさんある。――だけど。


 私が幸せにしたいのは、一緒に幸せになりたいのは、今も昔も、この人だけなのだ。


 ――それから二週間後。食欲が回復し、みるみるうちに元気になった森本さんは、晴れて退院することができた。


 まだリハビリでしばらく通わなければならないが、経過も順調だという。


 仁くんは、森本さんが退院するタイミングで自宅に戻った。息子も欲しかったという母は、仁くんが出て行ってから、ちょっと寂しそうな顔をしている。


 まだ、両親には、結婚のことは話せていない。付き合っていることは伝えてあるが、私がきちんと職を得て、社会人になったら――森本さんが結婚の申し込みに来るという約束をした。

 


 そして――三年の月日を経て、ついに今日、待ちに待ったその日が訪れたのだ。


「はーい。森本さんね。今日は頑張ってね、お父さん待ち構えてるわよ」


 インターホンに答えた母は、悪戯っぽくそう言った。そして、私の背中をグイグイ押して、玄関へ迎えに行くよう促す。


「お母さん、楽しんでるでしょ」


「あったりまえでしょ。一生に一度しかないんだから! …あ、頼むから一生に一度にしておいてね」


「不吉なこと言わないでよ…」


 手に菓子折りを持った森本さんは、なんと髪を黒く染めて来た。いや、普通に考えて、当たり前と言えば当たり前なのだが、金髪のイメージが強かっただけに、もはや一瞬「どちら様?」と思うレベルの変貌ぶりだった。


 スーツもガッチリとした体型にあった、ぴったりなものを着ていて、いつもより四割増しくらいで格好よく見える。


「おう、そんなに変かよ。…さすがに今日ばかりは、気合い入れねえといけねえなあと思ってな」


 彼は顔を強張らせたまま、頭を掻きながらそう言った。彼の緊張がこちらまで伝わってきて、私も表情が固まってしまう。


 二人並んでガチガチに緊張して、応接間に入った私たちだったが、父の緊張はそれ以上だった。


 森本さんが話す言葉に、「うん」「ああ」「そうだね」としか答えず、まともに会話が続かない。豪を煮やした母が、父のグラスに次々酒を注いだことで、ようやく話がまともに回るようになってきた。――そして最後に、父は森本さんに言い聞かせるように、こう締めくくった。


「娘をよろしく頼む。…と言いつつ。今は男女平等の時代だからね。武くんが全部家族を背負うんじゃなくて、二人で半分ずつ責任を背負って、幸せも全部半分こするといい。男が一人で、全部背負う必要なんてないんだよ。辛いことも、嬉しいことも、二人で分かち合いなさい」


 父はこの三年間、森本さんとの交流を通して、彼が家族のために無理をするタチだとよく理解したようだった。それで、彼が孤独にならないように、こう言ってくれたのかもしれない。


 私は父の思いやりに、心から感謝し、森本さんの背中を、「一緒に頑張ろうね」という意味で、ポンポンと叩いた。


 最後は男泣きしながら、ガッチリと森本さんと握手をした父は、言うべきことを吐き切って、疲れてしまったのか「俺はちょっと休ませてもらうよ」と言って、さっさと二階に引っ込んでしまった。


「全く。しょうがないわねえお父さんは。昨日もね、ほとんど眠れなかったみたい。森本さんがいい人なのはわかってると思うんだけど、やっぱり、娘を嫁に出すってことは、男親にとっては複雑なものみたいね」


 両手を腰に当て、小さくため息をつきながらそう言った母も、どことなく寂しげで、でも幸せそうだった。


「まだ明るいし、駅前でお茶でもしてきたら?」という母に送り出され、私たちは鶴川駅へ向けて歩き出した。


 この辺りの道は渋滞のメッカなので、徒歩二十分くらいの距離であれば歩いた方が早い。私たちはバスには乗らず、鶴見川沿いの道を歩いて行くことにした。


「…みさきちゃん、ちょっとそこに座ってくんねえかな」


「…いいけど、どしたの?」


 森本さんは、川沿いのベンチにどっかりと腰を据え、隣に座るようベンチを叩いて促した。


「俺さ、みさきちゃんの男らしいプロポーズに負けて結婚承諾しちゃっただろ」


「男らしいは余計です」


「まあ聞けよ」


 視線を河川敷に向けたまま、森本さんは話を続ける。


「それからも、なんとなくここまで進んできちゃって、ちゃんと自分の気持ち、伝えたことなかったなあ、と思って」


 初めて聞くその言葉に、胸が高鳴る。確かに、三年間を振り返っても、この人が私のことをどう思っているかを聞いたことはなかった。


「みさきちゃんが高校生の時、俺に話しかけてきたときはさ、なんか変わった子だなーくらいに思ってて。でも、話し始めてみると、笑顔が可愛くて、でも他の学生と違って、ちょっと古臭い感じのとこがあって。で、理由はよくわからなかったけど、ちょっと影がある感じがしてさ。すげー興味を惹かれたんだよね。でもそれが女性に対する関心なのか否か、判断がつかないまま、異動になっちゃって」


 私は彼の話を聞きながら、森本さんの横顔を見つめていた。


「再会してからはさ、どんどんみさきちゃんに惹かれていって。一緒にいてすげえ楽しいし、初心な感じのとことかも可愛らしくてさあ。あとは、こんな俺の話でも、一生懸命聞いてくれるとことか、俺のために典子に怒ってくれたこととか。――とにかく、大好きになって。この子ともっと一緒にいてえなあって、思ってた」


 初めて聞く彼の気持ちに、なんだか落ち着かなくなってきた。自分への好意を、切々と語られることが、こんなにも嬉しく、恥ずかしいものだとは。


「でも――典子のことや、母さんのことがあってさ。もうこれは、この人を俺の人生に巻き込んじゃいけねえって思って、諦めようとしてたんだけど。みさきちゃんから、飛び込んできてくれて、『大好き』って言ってもらえたことが、嬉しかった」


 ここまで言って、森本さんは、私の方へ顔を向けた。言うべきか、言わないべきかと、何かをためらっている様子が見受けられ、私は思わず切り込んだ。


「…せっかくそこまで言ってくれたんだから、続きを聞きたいなあ」


「…俺さ、結婚に関しては――一度、後悔してもしきれないような経験をしてて、誰かと添い遂げることを約束するってことに、ためらいがあったんだよな。それで、嬉しかったけど、即答出来なかったことが、申し訳なかったなあと」


 どういうことだろう。まさか十代のときに、一度結婚と離婚を経験しているのだろうか。


「…笑うなよ…俺さ――前世の記憶があるんだよ」

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