小咄
第31話 森本さんの事前準備
「ねえ、母さん・・兄さん、どうしたのかな」
土曜日の夜。友人と遊んで帰ってきたところ、先に帰宅していた兄の不可解な様子を目にした。
普段なら、夕食をとっとと済ませ、近所のドラッグストアで売っている一番安い発泡酒を煽っているころだ。
帰ってきて早々に風呂に入ったらしく、石鹸の匂いをさせながら、コンビニで買ってきたらしきファッション雑誌を鼻歌を歌いながら読んでいる。
いつもだったら、酒を飲んだ後、テレビを見ながら横になり、風呂に入らぬままうとうとした所を、母さんに怒られているはずだ。
「日曜日、デートらしいわよ。母さん、気になって聞いてみたら、教えてくれた」
そっと僕に、母が耳打ちする。
「えっ、あの派手な人? 典子さんだっけ」
そう小声で聞き返すと、母は一瞬嫌な顔をしたが、すぐに好奇心の塊のような顔に戻った。どうやら彼女のことは嫌いらしい。
「違うわよ。以前の職場で知り合った、学生の子らしいわ。あれはかなり気に入ってるわね。そうは言わなかったけど、ほら、あの子、好きな子できると口数増えるし、その子の話いっぱいするじゃない?――完全にそうね、あれは」
「・・まじか。ちょっと僕も聞いてみる」
取り敢えず自分の部屋へ、荷物を置きに行く。うちは2DKと狭いが、母と兄が、「勉強するのに部屋が必要だろうから」と言って、一部屋は僕の勉強部屋に割り当ててくれている。
畳敷の居間では、相変わらず兄がニヤニヤしながら雑誌を見ている。なんだかちょっと気持ち悪い。
「兄さん、デートなんだって? どんな子?」
あまり前のめりに聞くのもなんだか悔しいので、興味なさげな顔を作って、目線は合わせずに兄に尋ねる。
兄はこちらには一瞥もくれず、雑誌を見ながらこう答えた。
「あー、みさきちゃんて子。デートっつうかまあ、飯食いに行くだけだけどよ。お嬢さんって感じの、穏やかそうな子でさ。まあ、まだあんまり深く話したことはないんだけどなぁ。でもいい子だよ」
(ああ、なるほど。これは確かにそうかも)
一言聞いただけで、これだけ話してくれるということは、きっとそうなのだろう。対して興味のない子だったら、「ふつーの子」とか、「ああ、まあな」くらいでスルーされるはずだ。
中学まで、割とほれっぽかった兄は、しょっちゅう誰かに恋をしては、この状態に陥っていた。・・まあ、大体振られるのだが。
どうやら「いい人だけど、恋愛対象としてはちょっと」という、いい人止まりのポジションらしい。
しかし、父が蒸発して、母が働けなくなってから、兄は女の子の話をしなくなった。きっと家族を生かすことに必死になって、それどころじゃなかったのだろう。
母が働きに出始めて、僕が公立高校に受かって、少しだけ生活に余裕が出てきたのもあって、またそういう気になったのかもしれない。
なんにせよ、兄が自分の幸せのことで顔をほころばせているのは、僕たち家族にとって、心から喜ばしいことだ。僕たちのために自分の将来を犠牲にしてしまった兄には、幸せになってほしいと母と僕は思っている。
「へえ、そうなんだ。まあ、また振られないことを祈っとくよ」
「・・ひでえ言い草だな。なあ、お前さ、この雰囲気とこっちだと、どっちがいいと思う? 俺こういうのわかんねーんだよなあ」
兄は、ファッション誌の、「デートにピッタリのコーディネート!」みたいなコーナーを指し示しているのだが、どう考えても、そもそも買う雑誌を間違えている気がする。
「兄さんさ、兄さんの髪色と顔立ちでそのファッションしたら、確実に組織の下っ端のチンピラか、売れないラッパーになっちゃうでしょ。シンプルがいいよ、シンプルが。クラスの女子も言ってたけど、一番は清潔感らしいから。スニーカーきれいに拭いたやつ掃いて、ふつーのジーンズに、シンプルなTシャツが一番だと思うよ」
「・・清潔感か!そうだな、わかった」
「これはお前にやるよ」と、ギャル男雑誌を僕に押し付け、兄はクローゼットに向かっていった。今度は実際の服選びに取り掛かるらしい。
僕は台所にいる母のところに戻り、「あれは相当だね」とささやいた。
「お兄ちゃんが、また自分のことに気持ちを向けてくれるようになってよかった。・・うまくいってくれるといいねえ」
母さんはそう言って、浮足立つ長男の背中を、嬉しそうに眺めていた。
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