第21話 白い猫
とにかく早く二人から離れたくて、マークシティのエスカレーターをかけ降り、駅ビルの外へ出た。追ってくるわけもないのに、逃げるように早足でずんずん、ずんずん歩いていく。
(私は現世では、あの人の奥さんでも、恋人でさえもない。どんな人と付き合おうと、文句を言える立場じゃない)
――下の名前でさえ、先程の彼女の呼びかけで、初めて「
気づくと、どうやら知らぬ間に代々木公園まで歩いてきてしまったようだ。あたりは日が落ちはじめ、帰路につく人たちと、これから遊びに繰り出す人たちとで入り乱れていた。国立代々木競技場では、今日はコンサートがやっているらしい。複雑な私の心境とは真反対の、爽やかな音色が響き渡っている。
(代々木公園でも寄ってから帰ろうかな・・)
何気なくそう思っただけだったのだが、まるで何かに誘われるかのように、それまで重たかった足取りは急に軽くなった。不思議に思いながらも、代々木公園の入り口にたどり着く。そして、門から一歩中へ入ると――瞬く間に漆黒の闇が広がった。
「え・・どうして? まだ六時前なのに・・しかも街灯も何も見えない・・」
ふと、自分の体を見てみる。あたりは暗闇なのに、自分の体だけはまるで白抜きのように明るく見える。かつて見たような不思議な光景に戸惑いを隠せないでいると、前方から、誰が呼ぶ声がする。
恐ろしさを感じながらも、声にいざなわれながら、私は一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めていく。
――するとそこにいたのは、遠い昔に見た記憶のある、年老いた白い猫だった。
「・・・ミイちゃん?」
呼びなれたその名前を口にしてみる。その場に丸くなってうずくまっていた猫は、ゆっくりと目を開けた。
「ミャア」とかすれたような声で鳴いた老猫は、ゆらりと体を起こし、こちらへ向かってくる。そして私の目の前に差し掛かった時、ブワッと強風が吹き上がったかと思うと、夫の葬式で目にした、あの恐ろしく美しい神主がその場に立っていた。
「あ・・」
驚いて後退りした私を見て、神主は、「フン」と鼻を鳴らす。
「ようやく来たか」
「あの・・あなたは・・あの・・・」
「そうだ、お前が秀明の葬式の日に見た、その神主で間違いない。ワシはな、この世で、お前の人生と秀明――今は武か――の人生が交わるのを待っておったのだ」
「どうして・・・また・・。まさかあの人、まだあの力を持っているんですか?」
「力自体は持っていない。――残っているのは、前世から続く不幸の
「ざん・・さい・・?」
一体どういうことだろうか。夫は、自分の残りの命を使って、洸太の命を救ったはずだ。それでちょうど釣り合いが取れたのではなかったのか。眉間にシワを寄せながら、必死に考えていると、神主が再び口を開く。
「どういうことかわからない、という顔だな。まあ無理もない、人間の
「あ・・」
私はその言葉を聞いて、ゾッとした。つまり夫――森本さんは、前世で自分が願った、大きな願いのツケとして、これからも不幸をかぶり続けると言うことだ。
「それは・・・どうにかならないんですか?」
私の質問を聞いていたのか聞いていないのか、神主は扇を取り出し、優雅に口元に当てる。
「残りの不幸は、あと二つだ。――一つは小さなもの、一つは大きなもの。それを乗り越えれば、完済だ。だがな・・前世で自分の命を手放したことの名残か、今のあいつは自分の人生を『諦めている』フシがある。最後のひとつに耐えられるかはわからない」
それを聞いて、森本さんと接したとき感じていた、前世との「大きな違い」が何かをはっきりと認識した。会話の節々に「自分なんて」という意識が見え隠れするのだ。昔の夫にはあった、どこからくるのかよくわからない自信と、なんとかなるさという楽観的な気持ちが、今の森本さんは完全に欠落しているように見える。
「つまり・・不幸に耐えきれなくて、自ら死を選ぶ可能性があるってことですか」
神主は答えない。私はそれを、無言の同意であると受け取った。
「本当に・・どこまでも損な人ね。人のことばかり気にかけて、不幸をかぶって。前世はよく振りかかった災難に悪態をついて憂さ晴らししていたようだったけど、今の世では悪態をつく元気さえないなんて」
氷のように鋭く冷たい――だが憂いを帯びた人ならぬ者の瞳が、私を射抜く。だが、どこか期待を込めたような、最後の可能性にすがるような瞳だった。
「・・お前は救えるか、あいつの魂を」
そう問われて、きっとそれが、私が前世の記憶を持つ理由で、この神主が私をここに呼び出した目的なのだろうと思った。しかたないなあという気持ちと、これでようやく、自分が過去にしたことへの償いができるという安堵を胸に――私は答えた。
「私はね、あの人の奥さんを約三十年もやってたのよ。どうやってあの人を励ませばいいかなんて、ようくわかってるわ。何度でも救ってやるわよ、どんな不幸からも。そして絶対今度は――最期まで笑顔で、あの人の旅立ちを見送るの」
記憶を取り戻してから初めて、心から笑えた気がする。ずっと最後の日々への後悔を胸に生きてきた。いつもどこかで、自分が一人、幸せになることへの罪悪感を感じていた。
――ここへ来て初めて、自分の生きる意義を見つけられた気がする。
「最後に――聞かせてほしいの。あなたは誰なの?あなたはどうして、秀明に『幸せを切り売りする力』なんて渡したの? 」
神主は目を伏せ、しばらく逡巡した後、私の瞳を見据えた。
「ワシは、こんな姿を借りているが、神でも、仏でも、化け猫でもない。言うなれば魑魅魍魎の一種だ。千年を生きるうち、もはや自分がどこから来たのか、何者なのかもわからず、生きることに飽きておった。そこで有り余る力を持って生み出したのが、あの芳名帳と日記帳だ。あれはな、ワシにとっての遊び道具だった」
「遊び道具・・?」
「そうだ。ワシは、退屈しのぎに、この遊び道具を気まぐれに人間に与えた。するとな、ある人間は与えた幸せ以上の対価を相手に要求するようになり、大富豪まで上り詰めた。ある者は力を使って、教祖のような地位を手に入れた。――でもなあ、最後は破滅するのよ。はじめに等価交換である、と言っておるのになあ。多く対価をもらいすぎることが、どういうことかわかっておらなんだ。そういう人間を見るのが、愉快でたまらなかった」
遊び道具の話をしている間、神主の姿はゆらぎ、醜く口元が歪んでいるように見えた。背筋に嫌な汗をかいているのを感じる。夫はとんでもないものと契約を結んでいたのだ。
「――ただな。秀明だけは違った。・・純粋にな、助けたかったのだ、あの男を。ワシはな、子どもの頃のアイツと出会って、初めて愛情というものをかけられた。大事にされることの心地よさと、友と語らうことの喜びを学んだのだ。それで・・あいつの弟を助けたいという願いのために、賭けに出た。・・あいつなら、あの真面目一本気な男なら、正しく力を使えると思ったのだ。まさか対価ももらわずに、自分の命を切り刻んで人に与えるとは思わなかったのだ」
歪んでいた神主の姿は、元の中性的な美しさを持つ姿に戻っていた。この神主も、夫がここまで人のために尽くせる馬鹿だと思っていなかったらしい。
潤んだ瞳からは、心から自分のしたことを悔い、秀明の人生を憂うさまが痛いほど伝わってきた。
「・・・話してくれて、ありがとう。安心して、きっと大丈夫よ・・・」
私のその言葉を聞いて、口にほほえみを讃えたまま、神主の姿は光の粒となって消えていった。
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