第二章 消えない傷と、あなたへの想い:藤田みさき

第12話 名前の由来

「おめでとうございます、元気な男の子ですよ。優しく抱っこしてあげてくださいね」


 金髪に作業着姿の夫は、オギャアオギャアと大きな泣き声をあげ、まだ全身に赤みの残る猿のような小さな命を、恐る恐る、そっと看護師から受け取った。


 彼の手よりも、ひとまわりもふたまわりも小さなその手の感触を確かめ、気の抜けたような声をあげる。


「やべえ・・・」


「ちょっと・・。もうちょっとマシな感動表現はなかったの」


「いや、なんつーか、やべえしか出てこねえ・・・」


「・・まったく」


 仕方がないなあ、とため息をつきながらも、感極まった表情で、嬉しそうに生まれたばかりのわが子を抱える「夫」を見て、私は幸せを噛み締める。


「ところで、どうして『祐也』って名前にこだわってたの」


 息子に夢中の夫は、なかなか私の呼びかけに気が付かない。もう一度呼びかけられて、ようやく質問に答えた。


「うーん・・なんだろうな。うまく説明出来ねえんだよな。でも、この名前にしたいって思ったんだよ」


「何よそれ。祐也に名前の由来、聞かれたらどうするつもりなの」


 私に責められ、困った夫は考えを巡らす。すると何かいいアイディアを思いついたのか、ぱっと顔を明るくした。


「俺さ、ここに来るときに車の鍵失くしちゃって」


「・・・はあ?」


 衝撃の一言に、思わず夫の話の腰をぶった切ってしまった。車の鍵をなくしただとう?


「こ・・この後警察に届けるし、仕事仲間にも連絡して探してもらうようにするし! まあ、とにかく話の続きを聞けって・・」


 祐也をベビーベットにゆっくりと寝かせ、パイプ椅子に座り直した夫は続けた。


「親切なおじさんがさ、病院まで送ってくれたんだよ。いろいろ世間話もしてさ。――その人も、名前が祐也って言うんだって。あとでお礼しようと思って、名刺もらったらさ、ほれ、字まで一緒」


 手渡された名刺には『鈴木祐也』という、名前が印刷されていた。


「だからさ・・お前が生まれる時、うっかりやっちゃった父さんを病院まで送り届けてくれたおじさんの名前をもらったんだよーって言うのはどうかな。って・・なんでお前も泣いてんの」


 夫の話を聞きながら、気づかないうちに私は涙を流していたようだ。自分の目に手を当てて、ようやく自分が泣いていることに気がついた。


「・・なんでもない。その人・・・いくつくらいの人だった?」


 私は確かめるように、夫に尋ねた。


「うーん・・定年って言ってたから、六十五か七十くらいじゃねえかな?」


「そうかあ・・・」


(・・あの子も、もうそんな年になったのねえ・・)


 起こしていた体を、ゆっくりとベットに倒し、私は天井を仰いだ。


 

 ―――私には、前世の記憶がある。


 私が前の生涯を終えたのは、「夫」が亡くなって二年後のことだった。


 夫は「人に幸せを譲る」という奇妙な力を持っていた。本来は、「幸せを切り売りする力」だったようなのだが、等価交換のための金銭の収受を行わなかったために、自分の幸せをすり減らし、最後は寿命まで削ってしまったのだ。


 彼が亡くなって、自分がこの世に別れを告げるまでの間。私は彼と過ごした最後の一年間に対する、後悔の念に苛まれ続けていた。


 私は本当に、ひどい妻だった。まさか、夫の余命がそんなに短いなんて、夢にも思っていなかった。いや、正確には、何となく頭ではわかっていても、受け止められなかったのかもしれない。


 彼が食事を口に運ばなくなった時、なんとか食事を口に運んでもらおうと、彼の好物をたくさん作ってやった。それでも彼はうつむき、何やらブツブツ言って、席を離れてしまう。


全身にがんが転移した彼の体はあちこちが痛み、命をじわじわと食いつぶすように、彼の内臓も蝕んでいた。


 おそらく、このときにはもう、普通の食事を食べられる力が残っていなかったのだ。


 それに気づかず、私はスパゲティやら、煮物やら、彼が元気なときに好きだったものを、そのままの形で出していた。そして毎回食卓で黙るだけの夫に、怒りを顕にしていたのだ。


 ――もう、あのときは、そんなもの、食べられるはずがなかったのに。


 風邪をひいたらおじややうどん、消化のいいものを作る。体調の悪い人にすべきそうした食事の気遣いが、老老介護に疲れ切っていた私にはできなくなっていたのだ。


 歩く速度も、どんどん遅くなっていった。すこし前まで、シャキシャキ自分の隣を歩いていた夫が、まるでヨボヨボの老人のようにゆっくりとしか前に進めなくなっていく。


「どうしてそんなおじいさんみたいな歩き方をするの、いつもはちゃんと歩けるじゃない」


 歩みの遅い夫に対し、急速に老いていく姿が受け入れられなくて、そんな言葉をぶつけてしまったこともある。


 そのうち彼は、アルツハイマーの症状がひどくなり、まともな会話のやり取りも、いよいよ成立しなくなっていた。ついに飲み物も口にすることができなくなり、先生からの勧めで入院した直後、病院で息を引き取った。



 ――最期の時、私が介護の辛さばかりを嘆いて、ちっとも彼の苦しみに寄り添うことができなかったことを、私は彼の墓前で、何度も、何度も謝った。・・きっと、彼は私のことを憎んでいたのではないかと思う。


 四十九日が過ぎ、一周忌が過ぎ、時が経てば経つほど、彼への懺悔と共に「もう一度、笑顔のあの人に会いたい」という願いが強くなった。


 ・・そして彼がそばにいることを許してくれるなら。今度こそは、優しい笑顔で、彼の最期を看取りたい、と。


 それから自分もいよいよ、病院のベットで、ついに臨終の時を迎えた。白い靄に包まれ、自分の意識がバラバラに解けて失われていく瞬間――最後に目にしたのは――白い猫だった気がする。



 ふたたび目を覚ましたのは、平凡なサラリーマン家庭の長女として、この世に産み落とされたとき。しかし生まれ変わった瞬間から、前世のことを覚えていたわけではない。



――思い出したのは、高校二年の夏。校舎の改修工事のため、作業しに来ていた「森本さん」を窓越しに見つけた瞬間だった。



* * * * *


 ジーワジーワと鳴く蝉の声が、茹だるような暑さをさらに一段押し上げている気がする。 


 首にかけたフェイスタオルで滴る汗を拭いながら、渡り廊下の窓の外に目をやると、ひときわ目立つ金髪の「彼」の姿が目に飛び込んで来た。



「あっ・・・」


「どうしたの、急に驚いたような顔して」



 ――友人の問いかけに、即座に反応できなかった。


 その時私の頭には、あまりに多くの情報が駆け巡っていたのだ。

 

 彼の姿を見たことを引き金に、まるで走馬灯の如く、前世の思い出のハイライトがぼんやりと浮かんでは消える。


 その中でも一際輝いて、はっきり映ったのは――亡き夫との日々だった。


 お調子者で、そそっかしい、でも愛情に溢れた優しい人だった。


 だけど変な男気があり、自分の葛藤や辛い思いを人には見せない。一人で抱え込んで知らぬ間に追い詰められていることもある。不格好で、人に騙されやすくて。


 頭は悪くないけど、突出した才能があるわけでもない。だけど、とても愛嬌のある、私の大好きな人。


――そして、最後の最後に、私が大事にしてあげられなかった、大切な人。




 そのうちボロボロと大粒の涙を流し始めた私を見て、彼女はぎょっとして私の両肩を掴んだ。


「ちょっと! 大丈夫? あの男になんかされたの?」


「ううん・・・どっちかっていうと・・逆かなあ」


「逆?」


 不思議そうな顔した友人に「心配ないから」と、涙を拭いながら返答する。


「なんかされたわけじゃないならいいけどさぁ。あの大工さん、結構競争率高いよ。この娯楽の少ない公立高校で、それなりにカッコいい男の人は貴重だからねー」


 私たちの高校は、ギリギリ都内には配置していたが、緑の多い、本当に都内か?と問いたくなるような交通の便の悪い場所にあった。


 周りに商業施設もなく、帰りに買い食いできるとすれば、コンビニくらい。


 そんな環境の中に、若い、それなりに見れる見た目の大人の男性が現れれば、女子高生の格好の標的になるのは自然の流れ。友人いわく、すでに何人かの生徒がこっそり連絡先を聞きに行ったらしい。


「連絡先って・・教えてもらえたの?」


「流石に断ってるみたいよ。仕事先の高校で問題起こしたら、クビになるでしょ」


 私はほっと胸を撫で下ろした。可愛い女子なんて、うちの高校には掃いて捨てるほどいる。平々凡々を絵に描いたような私が、彼女たちに勝てるわけがない。


 誰かのものになって、近づくことができなくなってしまう前に、この直感が、気のせいではないということを確かめたい。


 彼が――「私の夫」であった人であるということを。

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