第10話 父に、幸せあれ

 俺と七海の結婚が決まり、結婚式の準備を始めてすぐの頃、親父が「俺が結婚式で余興をやりたい」と言い出した。


 子どもの頃から歌が上手かった親父は、歌手になるのが夢だった時期があるらしい。目立ちたがりやなので、大きいステージで歌いたかったのだろう。恥ずかしさから「絶対に嫌だ」と言う俺と何度も口論になったが、親父はどうしても折れてくれなかった。


 七海が、「私はお義父さんの歌、聴きたいなぁ」と言うので、渋々俺が拳を下ろすことになり、親父は入念な準備の上、本番に挑んだ。


 しかし本番はやはり緊張したのだろう。何しろ会場には八十名もいるのだ。カラオケスナックで歌うのとは訳が違う。結果親父は、自分の出番の前に酒という名のガソリンを大量に煽り、泥酔状態でステージに上がってしまったのだ。


 親父が選んだ曲は、長渕剛の「乾杯」。


 マイクを握りしめ、歌詞カードを震える手で持つ父親のバックで、ピアノ奏者が前奏を奏で始めた。


 足元はフラフラしながらも、伸びやかな声で朗々と歌いだした父の歌声に、会場からは歓声が上がった。


 ちゃぶ台を囲んで父の映像を観ていた俺たちも、小さく手拍子を始める。


 親父は段々と調子が出てきたのか、声にハリが出てきた。一番を歌い終え、照れ臭そうな、嬉しそうな、なんとも言えない幸せそうな顔をして、会場を見渡している。


 二番に入り、リラックスしてきた親父は、歌詞カードを持っているのが嫌になったのか、新郎新婦が座っている高砂の横にある、テーブルに目をやった。だがそこにはキャンドルがたくさん置かれている。


 酔っ払ってそれに気づかなかった父が、うっかり薪をくべるかの如く歌詞カードをひらりとおこうとしたのを、慌てて俺の友人が自席を飛び出して見事キャッチし、その場に跪き親父の譜面台の役割を果たしてくれた。


「このときは焦ったよなあ。会場が火の海になるかと思った」


 親父らしい、コミカルな失敗を、義父は映像を見つめながら懐かしんだ。


 画面の中で「すまねえな、ありがとよ」と友人にお礼を言った親父は、二番の途中から再び歌い始める。今度は俺たち夫婦の顔を見つめて。感慨深いような、寂しいような感情を顔に浮かべ、時折涙声になる親父の姿に、会場の観客の中には、ハンカチで目を押さえる女性もいた。


どうせ大きいステージで歌いたいから、結婚式で歌いたいって言ってるんだろ、と俺は当初思っていた。だが改めてこの映像を見て、親父は本当に歌を通じて、俺の新しい門出を心から祝いたかったのかもしれないと感じた。


(快く、いいよ、歌えよって、はじめから言ってやればよかったな)


 また一つ、後悔が増えてしまった。


 俺は、居間にいる家族にも、一緒に歌うよう促した。ぽつりぽつりと、口ずさみ始めた家族の声は、徐々に大きくなり、最後は親父の歌声に合わせて大合唱となった。


 洸汰が、「じいじ、もっと」とせがむので、その後何度も、みんなで、笑いながら、泣きながら「乾杯」を歌った。


 親父のこの先の幸せを願うように、今度は親父が大きな幸せを、自分のためにつかんで離さぬように。俺は、心を込めて歌った。



 * * * * *


「下手くそめ・・・。しょうがねえなあ、やっぱ俺が歌わねえとだめだな」


 自宅の生け垣の上に腰掛け、家族が歌う様子を見ながらそう秀明は悪態をついた。しかしそう憎まれ口を叩く彼の肩は、かすかに震えていた。


「ああ、ああ、祐也は。ギターなんか持ち出しちゃって。・・・まあ、洸汰が楽しそうだから良いか」


 生け垣の向こう側から、一匹の白い猫が顔を出した。トボトボと歩いてきたその猫は、秀明のすぐ横で丸まった。


「ミイ、お前が神主様だったんだなあ、全然気づかなかった。長えこと俺のそばにいたのになあ・・・伝言、ありがとな」


白い猫は、得気な顔をして、秀明を見上げた。ミイの喉元をくすぐってやると、目を細め、ゴロゴロと気持ちよさそうに鳴いている。


「・・俺はよ、本当に、家族のみんなには感謝してるんだよ。母さんも、俺の抗がん剤の通院のときにはよ、毎回毎回付き添ってくれて。看護師さんが言ってたんだよ、いつも奥さんがついてくる患者さん、珍しいのよってなあ。祐也も、いろいろ喧嘩はしたけどよ・・。忙しい合間を縫って会いに来てくれて。


うまく伝えられなかったけどよ、本当に嬉しかったんだよ、俺は。こんな形でこの世を去ることになったけど、まあ・・寂しくない、後悔は全くないって言ったら嘘になるけどよ」


ミイはそう言う秀明の潤んだ瞳を、じっと見つめていた。


「――でも俺は、それなりに幸せだった。俺は幸せをみんなにあげちゃったけど。その分、みんなが俺に、幸せを運んでくれてたんだよ」



 家族の様子を、しばらくの間慈しむような表情で見つめていた秀明は、ちらりとミイに視線を遣った。


「しかしお前、一体何者だったんだ? 猫なのか、神様なのか、よくわかんねえやつだなあ」


 まじまじと観察してみたが、ミイが再び神主の姿に戻る気配はない。どうやらもう、人形ひとがたになる力はないのかもしれない。


「まあ、なんでもいいけどよ。・・さあて、そろそろ行くか。名残惜しいけどよ。あの世にはあの世の、ルールってもんがあるんだろ。天国にも酒とタバコがあるといいんだけどなあ」


 秀明の行く先を案内するように、白い猫は体を起こし、少し進んで後ろを振り返り、ついてくるよう促している。


 秀明は猫の後ろに続きながら、最後に、もう一度だけ家族を振り返り、寂しそうな、しかし満面の笑みでこう言った。


「みんな、ありがとよ。・・じゃあ、またな」


 生垣の上の秀明の姿は、すぅっと、薄くなり、霧のようにかき消えた。


 秀明が消えた後も、彼の幸せを願う家族の歌声は、しばらく止むことはなかった。

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