第9話 悲しみを超えて

 まばゆい光に包まれた神主は、あたりにいる人間の顔をひとつひとつ確かめるように視線を落とす。


 そして最後に俺の顔に視線を定め、その薄い唇を開いた。



「お前が息子か」


 氷のような瞳に射抜かれて、ギクリ、とした。明らかに人間ではない存在を前にして、怯えながらもなんとか口を開く。


「……は……はい……。あの、あなたはもしかして……」


「……芳名帳と日記帳を読んだのか」


「はい……拝見いたしました」



 神主は両腕を組み、ため息をつきながら、窓の外に目をやった。


「本当に、あの男ほど不器用な男は居ない。あんなにも家族を思い、大事にしていたのに、その想いはこれっぽっちも当人たちに届いておらなんだ」


 男の顔は涼しげだったが、目に憂いを宿しているように見える。神主はうつむいてため息を吐き、再び俺の目を見据えた。


「お前の父親から伝言だ。『俺がしたことは、俺が好きでやったことだ。おまえたちが気に病むことはない。その代わり俺の命日にはみんなで集まり、酒をのみ、美味しいものを食べて、俺の遺影もその輪に参加させてほしい。それで俺は、十分だ』だそうだ」


 その言葉に俺は目を見開いた。


「親父は、亡くなってから、俺たちのそばでずっと見ていたんですか……?」


「……子細は言えぬ。これ以上はワシも力が残っておらんのでな。お前の親父に力を譲ってから、ワシの体は秀明と一対になってしもうた。だからワシも、そろそろ行かねばならなん。よいか、お前の親父の最後の願い、しかと伝えた――……叶えてやるのだぞ」


 周囲がモヤに包まれ、神主の姿も霧と消えた。漆黒の闇がゆっくりと明るさを取り戻し、日の明かりが戻ってくる。


 すると七海に抱っこされていた洸汰が、急に「にゃんにゃん!」と叫んだ。


 ――洸汰が指差したその先に、白い猫が横たわっていた。


 畳の上に転がるその猫を、母が近づき抱き上げたが、猫の体に力はなく、ぐったりとしており、すでに事切れているようだった。


 この場に居た誰もが、俺と同じ神主の姿を見ていたようで、全員がその場で硬直していた。――その沈黙を破ったのは、叔母だった。



「……その猫って、もしかして、『ミイちゃん』って名前?」


「ええ、そうなの……。何代か代替わりしてるんだけど、この家にいつく、白い猫にいつも『ミイちゃん』ってお父さんが名付けてて」


 母が俺にしたのと同じ説明を叔母に返した。すると叔母は、懐かしさに顔をゆるめ、昔話をし始めた。


「昔ねえ、兄さんが子どもの頃に、ひどい怪我をした猫を拾ってきたことがあって。白い猫でね。近所の子どもに落書きをされて、足を折られていたのを一生懸命看病して。体を洗ってやったり、添え木をしてやったり、本当に甲斐甲斐しく看病していたのよね。結局その子は亡くなっちゃったんだけど、それから白い猫がうちにいつくようになって……私が嫁いでからも、続いていたのねえ」


 その話を聞いて、俺とは母は顔を見合わせた。


 あの神主は、その猫が化けた姿だったのかもしれない。


 化け猫が人を助けるなんていう話は聞いたこともないし、何かが猫に憑依していた、なんていう考え方もできるが……本当のところは誰にもわからない。まるでおとぎ話の中のような話だ。



 今わかったことは――親父が本当に、自分の命を削りながら、自分にとって大切な人間たちに幸せを譲り渡していたという事だった。


 俺は思わず俯き、目の前の畳を思い切り拳で殴った。畳に突き立てた拳の上に、はたはたと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「ふざけんなよ……。なんだよ、勝手に、自分の命を簡単に削りやがって。しかも黙ってやるなんて。知らなかった……俺は自分のために命を削った親父に、なんて酷いことを・・。――どうして言ってくれなかったんだ。もっと、優しくしてやればよかった。もっと、楽しい話を親父とすればよかった……」


 人前であることをわかっていても、涙は止まってくれなかった。


「親父、ごめん……。生きてるうちに、わかってやれなくて」


 言葉になりきらない後悔を、俺は畳にぶつけた。何度も、何度も。弱々しく拳を突き立てていた俺の手の甲に、そっと自分の手を重ねてきたのは七海だった。


「……パパ、さっきの神主さんの言ってた事、覚えている? きっとお義父さん、あなたにそんな顔させたくなくて、わざわざ神主さんに言付けを頼んだのよ。……笑って、送り出してあげましょう。それがあなたが今できる、一番の親孝行なんじゃないかしら」


 七海の言葉に、俺は拳を握りしめる。


 七海の言う通りだ。今は後悔して泣くべき時ではない。せめて――親父を気持ちよく送り出してやらなければ。


 ワイシャツの裾で涙を拭い、顔を上げた俺は、母に訊いた。


「……母さん、俺たちの結婚式のDVDって、ここにあったよな?」


 俺と同じように涙で顔を歪めていた母が、力なく微笑み、俺の意図を察したように立ち上がった。


「いま、準備するから待って。お父さんの、いちばん輝いてた時のビデオだものねえ」


 母は、「ミイちゃん」の亡骸をそっと座布団の上に横たえ、テレビボードの引き出しの中から、一枚のDVDを取り出し、デッキに差し込んだ。早送りをして、映像を余興のプログラムに合わせる。


 俺はその場にいる、叔母、七海、義両親、そして母の顔が見渡せる位置に立ち、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「今日は、父のためにお集まり頂き、ありがとうございました。本当にお調子者で、目立ちたがりで――不器用な父でしたが……誰よりも家族を大事にしていた人でした」


 話している間に、いつのまにか洸太が、足元に来ていた。俺は洸太を抱き上げて、言葉を続けた。


「先程の、父の守護霊なのか、神様なのか、それとも父の大事にしていた猫だったのか――よくわかりませんが――どうやら湿っぽいのは嫌なようなので、皆さんと……父が大好きだった歌をみなさんと歌いながら、天国に向けて父を送り出したいと思います。……母さん、再生、お願い」


 母は涙を拭いながら笑顔で頷き、デッキの再生ボタンをカチリと押した。


 テレビの画面いっぱいに映ったのは、慣れないタキシードを着て、緊張の面持ちでマイクを握る親父の姿だった。

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