第9話 でも、なんかほっとしました。魔法でもないと、こんな不可思議なことはあり得ないですから。

「その人達の顔は明らかにかたぎではなくて、ですね。」

「まあ、そりゃそうだろうな。」

「声をかけてはいけない人達だったと気づいたのは、それから数秒後のことでした。」

「そうか。それであいつらに捕まってしまったんだな、君は。」

「はい、そういうことです。」


 エーサクは頷きつつ、湯気の立つ皿へとスプーンを差し込む。皿の中に入っているのは煮込んだ豆。カナリアの作った煮豆だ。

 口の中に煮豆を入れたエーサクは思わず顔をほころばせた。


「あ、おいしいですね。これ。」

「そうだろ。バジルもちょっと残っていたから、それも入れたんだ。豆もバジルも、全部私の畑で作ったものだからな。」

「へー!すごいですね。」

「ふふふ。そうだろう。」

「おーい。お二人さーん?話が逸れていますよー?」


 カナリアの水晶魔法で作られた台座に立てかけられ、テーブルの上から顔を出したドクロンは、変に間延びした声で二人の会話に割り込んでくる。


「お前がグレイストンに追われているのはわかったけど、じゃあ、それはなんでなんだよ。」

「だから、それはわからないんですって。本当に僕は、何もしていないんですから。それより、カナリアさんはあの女性の仲間ということではないんですか?」

「いや、違う。そんな女のことなんて私は知らない。」

「ですよね…。あの人、仲間のことを彼、って言ってましたし。」


 煮汁も余さず呑みながら、エーサクは悩ましげな表情を浮かべる。


「ここがどこかもわからないですし…。どうしてあんな屋敷にいたのかも、あの人達が何者なのかも、なにもかもわからない…。」

 伏し目がちで、暗い影が顔に差すエーサク。心細さを漂わせる姿は、迷子の子供のように頼りない。テキパキとした語り口調から、エーサクには大人びた印象があったものの、こうしてみるとまだまだ子供なのだということを思わせる。


「…こほん。まあ、わからないことだらけなのは仕方ない。今から一緒に整理していこう。」

 カナリアは咳払いとともに微笑みを浮かべる。エーサクの不安を少しでも和らげるために。


 そして手始めに、わかりやすいところから確認していくことにした。

「まず初めに、君がどこから来たのか、だ。この国の生まれではないだろう?」

「はい。僕は、���というところから来ました。」

「…んん?聞いたことがないな。それは、国の名前なのか?」

「ええ。そうですけど。」


 カナリアは首を傾げる。都市や地域の名前ということなら知らない事もあり得るだろうが、周辺にある国の名前は一通り把握している。

 だが、エーサクが言った国の名前はまったく聞き覚えがない。どこかで聞いたような気が、ということすらない。


「どこだよ、それ。まさかお前、自分の村のことを国だと勘違いしている田舎者なんじゃねえだろうな。」

「いや、違いますよ!ちゃんとした立派な国ですよ!」

「参ったな。君がどこから来たのか、さっぱり見当がつかない。」

「っていうか…逆に聞きたいんですけど、今僕がいる国ってなんていう名前なんですか?」

「この国か?シャウエスト共和国という名前だが。」

「…僕もその名前に聞き覚えがないんですけど。」


 うーん。

 三人のうなり声が見事に一致する。話が全く噛み合わないとは、まさしくこのこと。

 事態を整理するつもりだったのに、いきなり出だしから躓いてしまった。


「…まあ、仕方ない。」

 だが、落胆するのもわずかの間。

 カナリアは何かを決心すると、人差し指を伸ばしてテーブルの上に立てた。

「ここが、この国から最も近く、大きな大陸。」

 そのまま、カナリアの指先がテーブルの上をなぞり始める。


 すると、その軌跡に従って、白い光の線が現れた。輝くインクをこぼしたような線は、ぎざぎざした海岸線を描き出していく。

「この大陸の北西部にある島が私達のいる国、シャウエスト共和国だ。」


 海岸線の隣に、角の丸い平行四辺形のような島が描かれる。島の中心から南西に外れた場所に赤い光点が、その反対側には緑色の光点が垂らされる。

「この赤い点が、今私達がいる地域。そして、緑色の点がこの国の首都だ。」


 ちらりとエーサクの方を窺うと、彼は光で描かれた地図を、食い入るように見ていた。


「私は用事があって首都の方まで行っていたんだ。しかし帰ってきたら、家は盗賊達に占領され、私の寝室には麻袋に入れられた君が転がされていた、というわけだ。…おいドクロン、何を笑っているんだ。」

「だ、だってよお、言葉にされたらもう笑うしか、ぐはあ!」

「まったく、本当にしょうがないやつだ。それで?」

「…え?」


 テーブルの上に意識を奪われていたエーサクは、カナリアに話しかけられ、はっとした様子で顔を上げた。


「この地図で言うと、君はどの辺りから来たんだ。」

「えっと…。」

 エーサクの視線が地図の上に戻り、右へ左へと揺らぎ出す。


 そして、地図の上を二往復ほどした後、再びカナリアの方に向き直った。

「この地図には、ないです。僕の国は。」

「地図に載っていないほど、遠くから来たということか?」

「いえ、そうではなくて…。っていうか、僕の知っている世界地図には、こんな形の大陸は存在しないはずなんです。」

「それは…どういうことだ?」


「それはわかりませんけど…。あの、カナリアさん。ずっと疑問に思ったんですけど…カナリアさんが使っているこれって…本当に魔法なんですか?」

「まさか、君は魔法を見たことがないのか?」

「は、はい…。」


「はあ?おいおいおい、そんなことあり得るのかよ。お前、馬鹿を言うのもいい加減にしろよ!」

「…そんなこと言われましても…。」

 食い気味な反応を見せるドクロン。その勢いに押され、エーサクはおずおずと縮こまってしまう。


「お前、マジで言ってんのかよ。記憶喪失でもなけりゃ、相当の田舎者なんじゃ、って、いてえ!」

「子供に対してむきになるな、馬鹿ドクロ。」

 努めて冷静さを心がけつつ、カナリアはドクロンに拳を落としておく。


 とはいえ、カナリアの心中にも信じられないという思いが広がっているのは事実だ。人々の生活の中に、あるいは一つの学問として、魔法はこの国に息づいている。その存在を知らない人間など、普通はあり得ない。


 少年は嘘を言っているのか否か。それを確かめるため、カナリアは記憶の片隅から魔法の基礎知識を引っ張り出した。当たり前すぎて、もう何年も考えることのなかった類いのものを。


「これは確かに魔法だよ、エーサク。人間の生命エネルギーである魔力を別のエネルギーに変換する技術だ。その煮豆を作るときの炎も、この地図も、そのドクロが喋っているのも、全て魔法の産物だ。」

「そうなんですか…。」

「今の内容も、初めて聞くのか?」

「はい…。」

 ため息交じりに、エーサクは答えた。それから数秒時間を置き、力が抜けた笑みを浮かべる。


「でも、なんかほっとしました。魔法でもないと、こんな不可思議なことはあり得ないですから。」

「…ふむ。」

 エーサクは何かに観念したかのようだった。ただ一つ言えるのは、演技をしているようには見えない、ということ。

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