第47話 44th lesson 俺が務めていた地域での俺の評判が地に落ちた代わりに、春日の方に変な火の粉が降りかかることは防げたのだった。



 真新しいシンク。

 食器についた泡を、勢いよく蛇口から落ちる水で一気に洗い流す。

 油残りがないかを確認する為に指で皿を擦ると、キュッと言う音がした。

 なんだか食器洗い用洗剤のCMでもしている気分だ……

 しかし、今日も完璧な洗い上がりだった。

 『油汚れに一度洗いで差が付く』といううたい文句は偽りではないらしい。


「おっと、『水は小まめに止める』だったな」


 流しっぱなしになっていた水を止めて、俺はタオルで手を拭いた。

 すっかり濡れてしまったタオルを、洗い置きの新しいタオルに替える。

 これで作業はひと段落だ。


 俺はうーんと大きく伸びをして、まだ少し慣れないキッチンを見渡した。

 最新の設備を備えたというキッチンには、もちろん全自動食洗機もある。

 ただ、なんとなくそれを使うのは躊躇われた。

 使えば便利なのだろうが、食器はどうしても自分の手で洗いたかった。

 これはもう、俺のこだわりでしかない。


「また君は食洗機を使わなかったのかい? 本当に頑固というかなんというか…… 折角付けてもらった最新式の食洗機なんだから使ってあげないとかわいそうだよ?」


 そんなことを考えていると、リビングに新名さんがやって来た。


「あはは、どうしても手が回らないときは頼るつもりですから。それよりも、シエスタはもう良いんですか?」

「ああ、あんまり寝ると逆に疲れてしまうからね。これくらいが丁度いいんだよ」


 リビングの時計を確認すると、時刻は13時数分前。

 ちょうど昼休みが終わろうというタイミングだった。


「さて、午後のお仕事も頑張ろうか」

「そうですね。俺は『共栄セミナー』さんと13時半からwebミーティングです」

「お? あそこは独自開発のテキストを売りにしてたんじゃなかったっけ?」

「そのテキストについての、改善案の相談だそうですよ」

「そうか。折角だからガッツリと改善案を提案して、なんなら、ウチの教材を使って貰っちゃおう!」

「向こうにもこだわりとかプライドもあるでしょうから、無理には勧めませんよ。でも、そうしていただけるように頑張ります」

「頼りにしてるよ、冬月君」

「職を失って露頭に迷うところを拾って頂いた恩はキチンと返しますよ、新名社長」


 そう言って、俺はまくっていた服の袖を元に戻すと、パソコンデスクのある書斎兼自室に向かった。



 『緊急保護者説明会』で俺が退職を宣言してから、気が付けば一ヶ月が経とうとしていた。


「ですから、この混乱の責任を果たす為に、私はこの職を辞することとしました。どうか、それをもって、この件については水に流して頂きたく思います」


 俺の言葉を聞いて、会場に集まっていた保護者の皆様は言葉を失っていた。


「……逃げるんですか?」


 静寂を切り裂いて、保護者の誰かがそんなことを言った。

 その言葉を皮切りに、保護者の皆様方から様々な声が聞こえて来た。

 「辞めないで欲しい」とか、「事実無根ならキチンと証明して欲しい」とか……

 「犯人を突き止めるべきだ」という声もあった。

 俺はそんな声を全部受け止めて、こう返した。


「……犯人を探して明らかにしたり、事実無根を証明する為に戦えば、きっとそれは達成できると思います。だって、本当に事実無根なんですから。でも、そんなことに時間を費やしていいとは思えません。私達塾講師は生徒の進路、つまりは未来を応援するのが仕事です。そんな私が、自分を守る為なんかに生徒達の貴重な時間を浪費するわけにはいかないんです」


 当然、その言葉に食い下がろうとする人もいた。

 でも、俺はその言葉を遮って続ける。


「ですが、こうしてケチがついてしまった以上、私のことを100%信頼できない保護者の方もこの中にはいるかと思います。本来であれば、その信頼を取り戻すための努力を私は重ねるべきでしょう。でも、それにはどう考えても時間が必要になる。それは、生徒にも保護者の皆様にも不利益しか与えない時間の浪費です。それなら、私に代わるもっと優秀な講師に皆さんのお子さんを指導させた方がいい。時間は有限ですが、私の代わりなんて、うちの会社にはいくらでもいるんです」


 会場には、再び静寂が訪れていた。


「だから、私は先程のお言葉の通りんです。こんな立場の私が言っていいものか分かりませんが、逃げることは別に悪いことではないと思いますよ。必死に戦って、仮に勝利をおさめても、その過程で多くの犠牲を生んでしまっては意味がない。この件も私という人間が失うものはあっても、それで生徒達の未来と大切な時間が守れるなら…… それは皆さんにとって、ベストではないかも知れませんが、ベターな選択だと信じています」


 余計なことを言ったかも知れないという自覚はあった。

 でも、気が付けば口から勝手にこぼれていた。

 まぁ、本当にこれで最後なので、ちょっとした爪痕を残したとしても罰は当たらないと思う。

 そんな気持ちで、俺はもう一度保護者の皆様に深々と頭を下げた。


 その夜の中学部の授業は、正直授業にならなかった。

 多くの生徒が、俺に「辞めないで」と言って泣き出してしまったのだ。

 でも、俺はそんな生徒達に「ごめんな」と言ってその夜の授業を『最後の授業だ』と宣言した上でやりきった。

 教えられることは、その授業で全て生徒に伝えるつもりで……

 ありがたいことに、一生懸命になって話を聞いてくれる生徒も多かった。

 だが、例の噂の件もあったし、保護者説明会での俺の発言を保護者から聞いて俺のことを冷ややかな目で見つめる生徒も少なからずいた。

 そんな生徒達の目から見れば、俺は多くの生徒達を放り出して仕事を辞める無責任な塾講師だろう。

 その目には失望の色がはっきりと見て取れた。

 彼らの内の誰かは、もしかすると俺の悪い噂をその友人に語るかも知れない。

 それを思えば、そんな生徒にキチンと声をかけて、その誤解を解いておく必要があるのだろう。

 でも、俺は敢えてそれをしなかった。

 泣きながら「辞めないで」と言ってくる生徒達のことを優先的に対応した。

 そして、俺のことを遠巻きに見ている生徒達には、こちらから声をかけることはしない。

 俺に集まる一定以上の負の感情は、敢えてそのまま放置することにしていたのだ。

 そして、その日の業後のミーティングで、俺は自分の持つ全てのノウハウをまとめたプリント集をバイト講師の先生方に託して校舎を後にした。


 そのままの足で大家さんにご挨拶に行き、引っ越しの意志を伝え荷造りをする。

 まだ誰かの目があるかも知れない可能性を考えて、春日にはうちに来ないように伝えた。

 メールで勉強する箇所の指示を出し、メッセージアプリを通じて質問に対応するだけにとどめておいた。

 春日の部屋のものもその晩に全てまとめた。

 まるで夜逃げでもするように、その日の晩のうちに全ての準備を整えて、俺は何でも屋をやっている友人に引っ越しの手伝いを依頼。

 翌日には、トラックの荷台に自分の家財道具一式を積んでから、春日の荷物は彼女の家に運んだ。


「お前、次の住む場所はどうするんだよ?」


 引っ越しの手伝いをしてくれた赤木にそう聞かれて、俺がしばらく実家に戻るつもりだと話そうとしたときだった。

 俺のポケットのスマホが、見計らったように振動して電話の着信を知らせた。


「……新名さん?」


 画面に表示された名前を確認して、俺は驚きつつ電話に出た。


「もしもし?」

「やぁ、冬月先生。引っ越しの荷物は全部トラックに積み終わった頃でいいかな?」


 言われて思わず周囲を見渡した。


「どこかで見てるんですか?」

「いいや、私は私の新居に向かっているところだよ。君を見ているのは私の協力者…… かな?」

「協力者って…… はぁ~…… まぁ、今更あなたのそう言うところに驚いても仕方がないですからね…… っていうか新居って、新名さんも引っ越したんですか?」

「ああ。職を変えるついでに住まいも一新して、いっそ職場と住まいを一緒にしてしまおうと思ってね」

「……職を変えるって、どういうことです?」


 気になる単語が彼女の口から聞こえて来たので聞き返す。


「その言葉通りの意味だよ。今回の件で色々思うところがあってね。前々から考えて準備をしていた計画を実行に移したんだ。これまでの経験をフルで生かして、新しい事業を始めようと思ってね」

「って…… 新名さんも辞めちゃたんですか? もしかして、あの件が原因で?」

「まぁ、包み隠さずに言えばそうだね。受け持っていた校舎であんな失態を演じ、会社には大混乱を招いた。そして、一人の有望な社員をみすみす辞めさせてしまったんだ。私の首でも差し出さないと、あの一件を一晩で片づけることは出来なかったよ」

「それは…… 俺のせいで――」

「君はそういうだろうと思ったよ。でも、あの一件がなくとも私は近い将来あの仕事を辞めていたんだ。あのとき君が言っていた言葉と同じだ。そこに君が責任を感じる必要はないよ」


 どう考えても、俺が引き起こしたトラブルが原因で職を辞することになってしまったであろう新名統括長…… いや、もう統括長ではないか。

 新名さんはそんな風に言って電話越しに笑ってくれた。


「というか、チャンスだと思ってね。このタイミングなら、きっと優秀な人材を確実に一人確保できると思ったんだ」

「それってもしかして?」

「ああ、君を私の新しい仕事仲間として勧誘したいという話だよ。どうかな?」


 それはまぁ、願ってもない話だった。

 正直、辞めた後の仕事の準備なんて一切していなかったからな。

 『明日からハロワに通うか』くらいのつもりでいた。

 渡りに船とはまさにこのことだ。


「ひいては、その新しい職場兼住まいで、ルームシェアをしないかという誘いでもある」

「る、ルームシェアって…… 流石にそれは――」

「ちなみに君以外のもう一人の同居人には、もう話を付けているんだ。それが誰か聞いたら、きっと君はこの話を断らないだろうね」

「……もう一人?」


 電話の向こうで、にやりと笑う新名さんの顔が簡単に想像できた。

 そして、そのの心当たりが、俺にはすぐについてしまっていた。

 だから……


「その子の名前は――」

「分かりました。そのお話お受けします。どうぞよろしくお願いします」

「……なるほど。ちなみにそのもう一人の同居人については、君が今想像している人物で間違いないと思うよ」

「ええ、そうだと思います。っていうか、新名さん。これ、昨日の『緊急保護者説明会』の前には話しつけてましたよね?」

「ほう、どうしてそう思うんだ?」

「いえ、あの後のの反応が淡白だったのは、と納得したというか……」

「なるほど。……まぁ、想像にお任せしよう。それじゃあ――」


 俺は新名さんの誘いに乗って、彼女の新しい部屋に転がり込むことを決めた。

 新名さんはそれを見越していたらしい。


「君のスマホには、の住所を電話をする前に送って置いた。その住所にそのトラックを向かわせてくれ。あっと…… ただ、もう少しだけ荷物を積んでからになると思うけどね」


 そう言われて俺が振り返ると、春日の部屋のベランダからこちらに向かって手を振る春日と御子柴さん、ともう一人初めて見る女の子と目が合った。

 あのもう一人は、『さーちゃん』あたりだろうか?


「今からアタシの荷物もそのトラックに積んじゃうから、センセも一緒に手伝ってね!」


 俺の返事も待たずに、小走りに部屋に飛び込んで行く春日。

 その姿を見送って俺は思わずため息をつく。


「まぁ、そう言う訳だ」


 耳に当てたままのスマホから、そんな新名さんの声が聞こえて来た。

 つまりはだ。

 それから、俺は赤木と御子柴さん、春日の親友の木下さん、そして、引っ越しの為にトラックを用意してくれた何でも屋の鈴木と一緒に、俺が春日の家に運んだばかりの彼女の荷物をトラックに積み込んだ。


「という訳で、今後ともよろしくねセンセ」


 楽しそうに笑う春日の顔から、俺は目を逸らす。

 情けなくにやけてしまう顔を見られたくなかったのだ。


 その後は、特段語るべきような特別なことはなかった。

 まぁ、トラックが行き着いた先にあった建物があまりに高級なタワーマンションで俺と春日が言葉を失ったりはしたが……

 荷物を運び入れて、新名さんと色々今後について話をして。

 春日と新名さんと俺と三人で暮らす上での最低限のルールを決めたりとか、まぁ一悶着あった上で、俺達の新生活はなし崩し的に始まった訳だ。



 それから一カ月、もちろん色々あった。

 まず、俺の思惑通り、『俺への悪評』が広まった。

 まぁただ、そんな評判が広まろうが、もう既に俺はその地域で講師をしていたりしなかったので、特に困ることも無かった。

 そして、そのお陰もあって、春日への悪評はほとんど広まることはなかった。

 俺という分かりやすい悪役を用意したお陰で、彼女が変な噂の標的にならずに済んだのだ。

 当然、そういう方向に噂が広まるように、卒業生達に協力を依頼して仕向けたのだが……


 その辺を春日は面白くなさそうにしていたな……


 とにかく、俺が一番守りたかったものは、ちゃんと守ることが出来た。

 俺は、それでも十分だった。



 続く――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る