第46話 43th lesson 真っ直ぐに、会場の保護者方を見つめて、俺は胸を張ってそう言った。



 それはこの怪文書が出回って、混乱が起こる数日前のことだ。

 俺と春日は、こんな話をしていた。



「センセ、もしも、もしもさ。アタシ達がこうして一緒に住んでることがセンセの会社とか、生徒達の保護者さん達にバレちゃったらさ……」


 夜中の家庭教師の時間。

 春日は不意に、そんなことを言った。


「突然どうしたんだ? なんか不安でもあるのか?」


 春日が話すの話は別に初めてではなかったが、話題が話題だったので俺は真面目に聞き返す。


「不安って程じゃないけど、秋良とか新名先生とか、本当は隠して置きたかった人にここ最近立て続けにバレちゃってるし。もしかしたらってあるかもでしょ? 一応備えておいた方が良いかなって」

「なるほどな。その意見には賛成だ」


 やはり、なんとなくの思い付きではなく、彼女なりに考えての話だったか。

 こいつは何というか、適当そうに見えてこういうところは気が回るのだ。


「だよね。バレたときにヤバいのって、どう考えてもセンセだからさ……」


 やっぱりそうだ。

 コイツがこうして色々気を回すのは、決まって誰かの為だった。

 今回は俺のことを心配して、コイツはこんな話を持ち出してきたわけだ。


「キチンと――」

「いや、俺はそんなに心配しなくて良いよ。最悪仕事を辞めなきゃならなくなるだけだ。その場合守るべきは、俺じゃなくてお前の未来だ。この件で変な評判が立てば、お前の評定や調査書の内容に響く。そうなれば、進路を変えなきゃいけなくなるかも知れない」


 だから、俺は自分の考えを明確に春日に伝える。

 優先するべきは、俺ではなく春日だと。


「いや、『仕事を辞めなきゃならなくなるだけ』って大事じゃん!?」


 すると、当然ながら春日は食い下がってきた。


「アタシの進路なんて、アタシのこれからでどうにでもなるんだし。ここはセンセの今を守る方を優先して――」

「俺の今より、お前の未来の方が大事だって言ってるんだよ」

「えぇっ!? ち、ちょっとセンセ、突然何言っちゃってんの??」


 さらに食い下がる春日に、俺が思ったままのことを口にすると、春日は真っ赤な顔をして慌て出す。

 俺は構わず話を続けた。


「こんな話、お前にするべきじゃないのかも知れないけど…… 実は俺さ、お前に再会したあの朝、本当はもう塾講師の仕事を辞めるつもりだったんだ」

「……センセ……」


 そうだ。

 黒桐室長からの執拗な嫌がらせ。

 そもそも無茶苦茶な勤務体制。

 どこの誰が見ても『ブラックだ』と太鼓判を押す職場。

 俺はそんな仕事に、とっくの昔に見切りを付けていた。

 『今、受け持っている生徒が心配だから……』

 ギリギリのところで退職を踏み止まっていたのはそこだけ。

 でも、それだって黒桐室長からのパワハラを我慢してまで守るべきものじゃない。

 俺なんか、結局生徒達のために何も出来ていない。何も出来ない。

 そう思いかけていた。


 そんなとき、コイツに再会した。


「お前は、こんな俺を頼ってくれた。俺に忘れかけてた何かを思い出させてくれた。だから俺は、この仕事をもう少し続けてみようと思ったんだ。お前を応援したい。そう思う俺を、生徒のために身を粉にして働く塾講師として信じようと思った」


 あの朝、コイツが俺をもう一度塾講師にしてくれたんだ。

 だから――


「だから、俺の仕事を守るためにお前の未来を犠牲にすることなんて出来ないんだよ。今の俺があるのは、全部お前のお陰なんだからな。ここでお前の未来を投げ出したら、俺はもう塾講師では居られなくなる。結局、この仕事を辞めちまう。なら、俺の仕事を守る意味なんてないんだ」


 俺は、として、あの朝から今日までやって来たのだ。


「だから、のときは、俺のことなんて気にするな。そもそも、俺はそういうことも含めて全部覚悟の上で、お前とのこの生活を受け入れたんだからな」


 俺がそう言うと、春日は深い溜息をこぼす。


「はぁ〜……、まぁ、センセはそう言う人だよね。知ってたし分かってた」


 やれやれと言った風の春日の態度。

 その顔はいつもの春日の表情だ。


「うん。センセがどう考えていて、何を大事にしてくれてるのかは分かった。多分、アタシが何を言っても、それが変わらないってこともね」


 そう言って、開きっぱなしになっていたノートに、春日は何かを書き出した。


「でも、センセに大事なものがあるのと同じように、アタシにも大事なものがあるの。アタシだってそれは絶対に譲れないよ」


 おもむろに、春日はノートを俺の方に突き出して来た。

 そこには、乱暴な字でこう書いてある。


「アタシはセンセの未来を守る!」


 そこに書かれたままの言葉を、春日は胸を張って読み上げた。


「センセがさ、アタシの未来を全力で守ってくれるんでしょ? なら、アタシはセンセの未来の方を全力で守るよ」


 えへへと笑って、鼻の下を指で擦るようにする春日。

 なんだかその顔には見覚えがあった。

 それは確か、昔コイツがまだ校舎の生徒だった頃だったはずだ。

 周囲からいじめを受けていた生徒を、コイツが助けようとしたときも、ちょうどこんな顔をしていた。


 あのときは、保護者や生徒を巻き込んで、コイツは本当にその生徒を助けてしまったのだった。


 本気のコイツは手段も選ばない。

 本当に絶対何とかしてしまう。

 そう言うやつなのだ。


「……お前の方こそ、何を言っても無駄なんだろうな」

「それはお互い様でしょうが?」


 今度は俺が、やれやれと溜息をつく。

 そんな俺に、春日は楽しそうに笑顔を浮かべた。


「なら、折角だ。お前の言うに備えて、真面目に話し合ってみるとするか」

「ばっちこい!」


 そうして俺と春日は、来るに備えて、ある作戦を立てたのだ。


 俺は春日の未来を最優先に考えて。

 春日は俺の未来を最優先に考えて。


 お互いの意見をぶつけ合って、折り合いをつけて。

 お互いがギリギリ妥協出来るラインを探り合って。


 最善でも、最良でもない、つぎはぎの作戦を……



「本当に君らしいというか、なんというか……」


 俺の説明を聞いた統括長は呆れたような顔をする。

 黒桐室長に至っては、呆れて言葉を失っているようだ。

 まぁ、その気持ちも分からないではない。

 普通ならまず、選ばないような選択だからな。


「しかし、それでは冬月先生が……」

「あぁ、それは気にしないで下さい。こうなった場合、俺は最初から俺自身を救うことは選択肢の中に入れてないんで」


 あっけらかんと俺がそう言うと、絶句する黒桐室長。

 それとは正反対に、統括長はなんだかニヤニヤして俺を見ていた。


「本当に君は、彼女のことを信頼してるんだね」

「何ですか、その顔は? っていうか、全部お見通しなんですね。流石というか何というか……」


 統括長のその言葉で、彼女が俺の考えていることをキチンと理解していることが分かって呆れる。

 本当にこの人は……


「どういうことです?」


 置いてけぼりの黒桐室長が首を傾げていたが当然だ。

 俺はのだから。


「要はね、黒桐君。冬月先生のことは、


 そうだ。

 俺はこの件を綺麗に解決するつもりはないのだ。

 だって、

 この事実はどうしたって、それを知った人間に

 人の口に戸は立てられない。

 そういう噂が広まることは、仮に犯人を警察に突き出したところで止められないだろう。


 なら、俺に出来ることは非常に少ない。

 その広まる噂の標的に、できるだけ春日がならないようにする。

 そんなことくらいしか出来ないのだ。


 では、どうすれば春日を噂の標的にならないようにできるのか?

 それを考える必要があった。

 噂とは人々が勝手に広めるものだ。

 だから、その内容を操作することは困難を極める。

 というか、不可能に近い。

 ただ、人は基本的に生き物だ。

 叩いても良い理由さえあれば、その人間を執拗に批難する。

 その性質を利用して、批難の対象を春日から逸らせばいいのだ。


「しかし、僕が招いた状況ですが、こうして炎上しているところに、敢えて燃料を投下するのは流石に……」


 不安そうにそういう黒桐室長に、俺は笑顔で返す。


「できる限り会社や校舎には、迷惑をかけないようにしますから……」

「いや、僕が心配してるのはそんなことじゃなくてね――」

「とりあえず、これ受け取って下さい」


 食い下がる黒桐室長に、俺は懐から前もって用意していた封筒を渡した。


「……何を言っても、無駄なんだね」


 俺と封筒を何度か交互に見つめて、黒桐室長はその封筒を渋々受け取る。


「ええ、俺は俺の守りたいものを守るためたら、他はどうなっても構わないと思ってますからね」


 そう言って笑うと、黒桐室長は諦めたように溜息をついてやれやれと首を横に振った。


「さぁ、それじゃあまずは一緒に校舎に行って、全家庭に謝罪と説明会の日程のご連絡の為の電話を入れましょう!」



 それから、数時間かけて俺と黒桐室長、それと新名統括長で、黒桐室長が封筒を投函したご家庭に電話を入れた。

 今回の混乱に対する謝罪と、今夜実施することにした『緊急保護者説明会』のご案内をしたのだ。

 怒っているご家庭、混乱しているご家庭、悲しんでいるご家庭など、この件に関する反応はまさに十人十色だった。

 ただ、「あの手紙は何かの間違いですよね?」と言って、俺の無実を信じてくれているご家庭が多かった。

 その事実に、俺の胸が少しだけ痛む。

 この後行う『緊急保護者説明会』で俺が語る内容は、そんな保護者の皆さんが期待する内容ではなかったからだ。


 とにかく、その日は小学部の授業は臨時休講として、ただひたすら生徒のご家庭に電話を入れていった。



 そして、


「この様な急な日程の説明会にお集まり頂きまして、誠にありがとうございます」


 夜、中学部の授業を後ろ倒しして、校舎で開いた『緊急保護者説明会』には、ほとんど全ての生徒の保護者が集まってくれた。

 それだけ、この件に関する保護者の皆様方の関心が高いのだろう。


 集まってくださった保護者の皆さんに、統括長がまず挨拶をした。


「私は、この周辺の校舎を管理しています『地域責任者』の新名と申します。この度は当校舎の専任講師、冬月の件でこの様な混乱を引き起こしてしまい誠に申し訳ありませんでした」


 そう言って深々と頭を下げる統括長に、怒りの声をぶつける保護者はいなかった。

 まぁ、統括長は何も悪いことはしていないので同然だ。

 しかし、あんな混乱に関する説明の場だというのに、集まった保護者の皆さんの雰囲気は思った以上に穏やかだった。


「あの手紙は嘘だったんでしょ?」

「何でも、誰かの家の監視カメラにポストに手紙を入れる犯人が映ってたらしいよ」


 ボソボソと話す声が聞こえて来る。

 どうやら、その辺の話も既に噂として広まっているらしい。

 要は、そうして広がっている様々な噂話の真偽を知りたくて、保護者の皆さんはここに集まってくれているのだろう。

 そんな彼らが期待している答えとは違う内容を、これから俺は話そうとしている。

 きっと、混乱を呼ぶだろう。

 この中の何人かの保護者さんは、そんな俺に落胆するかも知れない。

 それでも、俺に後悔はなかった。


「それではこれより冬月から、この度の混乱に対する説明をされていただきます。では、冬月先生。お願いします……」


 統括長の声を受けて、俺はその場に立ち上がって集まった保護者の皆様に深々とお辞儀をした。

 期待、疑惑、困惑……

 様々な感情の宿った視線が、一斉に俺の方へと集まった。


「この度の混乱を招いてしまった件について、私から説明をさせて頂きたく思います」


 そんな保護者の皆様の視線に応える様に、俺はゆっくりと会場の隅々まで視線を配る。

 俺と目が合って頷く人、俺から目を逸らす人、俺を睨みつける人……

 反応は本当に様々だった。


「まず、最初にお伝えするのは、皆様のご家庭に届いたあの手紙についてです」


 俺の家から制服を着て出かける春日と、それを見送る俺の姿を捉えた写真。

 そして、『淫行塾講師、冬月の正体。卒業生の女子高生と同棲? 冬月は女子生徒を性的な目で見ている変態だった! 即刻講師を辞めさせるべきだ!!』と書かれた手紙。

 これが、この会場に集まった皆さんのところに届いたものだ。


 同棲は事実そのもので、それ以外は…… まぁ、俺はデマカセだと思いたい。


「あの手紙に書かれていた内容については、事実無根だとはっきり申し上げさせて頂きます。私は写真に写っていた女性と、一切のそう言ったいかがわしいことはしておりません。私は彼女のお母様から頼まれて、彼女の勉強を見ていただけです」


 春日の名誉の為にも、ここは譲れない。

 しかし、


「でも、あの写真を見ると、申し訳ないですけどって思ってしまいますよ」


 集まった保護者の中から、そんな声が上がった。

 手元にある件の写真を見つめてみる。

 そこに写る俺の表情は、確かに共に写る春日のことを何か特別な想いで見つめている様に見えた。


「重ねて言います。私と彼女の間には、あの手紙に書かれていた様ないかがわしい関係は一切ありません」

「だから――」


 そうやって、先程と同じ言葉を重ねる俺に、声を上げた保護者の方が再び言葉を発しようとする。


「ですが――」


 それを俺は言葉で制して、その人の目をまっすぐ見つめてこう続けた。


「私は彼女に対して、生徒として進路を応援する以上の感情を抱いていたかも知れません」


 その言葉を聞いて、『緊急保護者説明会』の会場が一気にざわついた。


「私が仕事が終わってからの時間を使った学習指導でしたから、非常に遅い時間に彼女を家にあげていたのも事実です。確かに彼女は頻繁に私の家に出入りしていました。勉強を見てもらう代わりにと、私に食事も作ったりしてくれました。彼女に勉強を教えて、雑談を交わして、一緒に食事をして…… そんな生活を続ける内に、私は彼女に生徒として以上の特別な感情を抱く様になっていた。そう思います」


 真っ直ぐに、会場の保護者方を見つめて、俺は胸を張ってそう言った。


「だからこそ、もう一度はっきりと申します。私は、彼女と皆様が想像する様な、いかがわしいことは何一つしておりません。彼女の未来を思う彼女の家庭教師として。そして、彼女のことを想う一人の男性として。彼女のことを大切に想うからこそ、そんなことはありえないと胸を張って申し上げさせて頂きます」


 そして、そこまで言ってから、俺はもう一度深々と頭を下げる。


「ですが、こうして混乱を招いてしまったのは、そんな感情とともに、私が彼女との関係を隠していたからです。そうすることで、こうなる未来があり得たことは当然想像出来ていたのに…… それは間違いなく私の落ち度で、この混乱を招いたのは他でもない私自身だと考えています」


 頭を下げたまま、俺は言葉を続けた。


「ですから、この混乱の責任を果たす為に、私はこの職を辞することとしました。どうか、それをもって、この件については水に流して頂きたく思います」


 そんな俺の言葉を受けて、会場が一度静まり返った。



 続く――

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