第45話 42th lesson この件を丸く収める為に、不幸になる人間は出来るだけ少なくした方がいい。



「冬月先生の幸せを、ぶち壊してやろうと思ったんだよ」


 そう言って、黒桐室長は俺を睨む。

 その目に宿っているのは、明確な悪意。憎悪の類の感情だった。


「それはまた、随分自分勝手な言い分だね」

「新名さん、ここは俺が話します」

「でも……」

「大丈夫ですから」


 そんな黒桐室長の口ぶりに、統括長は少し怒った様子で何かを言おうとしてくれた。

 でも、俺はそれを制して黒桐室長の顔を見つめる。

 心配そうにする統括長に俺がそういうと、彼女は渋々ながら前傾姿勢になりかけた身体を元に戻してくれた。

 そんな様子を見つめて、黒桐室長はまた面白くなさそうな顔をした。


「君はそうやって、いつでも誰かが心配してくれる。本当に羨ましいよ」


 吐き捨てるようにそう言って、黒桐室長は俺から目を逸らす。

 思えば俺は、黒桐室長のこんな顔を何度も見て来た気がする。

 きっと彼は、こんな感情を何度も何度も抱いていたのだろう。

 それはもう、想像することしかできないが、きっと最低な気分だ。


「あなたの言うように、俺はいろんな人に助けられて来ました。周りの人を頼って、甘えてここまでやって来れた…… そんな人間です」


 その中身はどうあれ、黒桐室長はその胸の内をさらけ出してくれたのだ。

 なら、俺もそうするのが筋な気がした。


「学生時代からそうでした。俺は器用な方じゃないし、これと言って得意なものがある訳でもない、平凡なやつです。だから、何か目立った成果を残したりは出来ませんでした。成績は中の上。当然、将来の夢も特になかったんです。そんな時出会ったのが、この塾講師の仕事でした」


 そんな俺の昔語りを、黒桐室長と統括長は黙って聞いてくれているようだった。


「きっかけは本当に残念な大学生らしいものです。『時給が高い』そう言う話を友達から聞いて、『小中学生相手なら、自分でも何とかなるだろう』くらいの気持ちで、アルバイト採用試験を受けました。理系を選んだのも、教える科目が少ないからです。とにかく、出来るだけ楽をして、たくさん稼ぎたい、そんな気持ちでこの仕事を始めました」


 今、校舎で働いてくれているバイト講師の先生達は、当時の俺なんかよりよっぽどしっかりしている。

 塾講師を始めた理由も、小学校の先生になる為の経験値稼ぎとか、昔お世話になった先生に憧れてとか、明確な何かを持っている人ばかりだ。


「そんな不純な動機で始めたので、最初は何度も辞めようと思いましたよ。時給は高いけど、研修だったり、授業の準備だったり、教材研究だったり…… 給料にならない仕事は多いし、土日は大抵テスト対策。教える生徒達からは『下手くそ』だの『わかりにくい』だのと文句を言われてばかりでしたからね」


 塾講師を始めたばかりの俺は、それはもう酷いものだった。

 それでも、俺が辞めなかったのは、多分負けず嫌いだったからだ。

 『下手くそ』だと言われて悔しかった。

 小中学生相手ならなんとかなるって思ってたから。

 『わかりにくい』と言われて腹が立った。

 こっちだって必死に準備して授業をしていたのだ。

 だから、そうやって文句を言う生徒達をギャフンと言わせたくて、俺は必死にこの仕事を続けた。

 生徒の為とか、そんな事は一切考えていなかった。

 ただ、負けたくなかった。

 それだけだった。


「でも、数学が苦手だった生徒が、解けなかった問題が解けて嬉しそうに俺にお礼を言ってくれて嬉しかった。テストでいい点が取れた生徒が、嬉しそうに報告してくれる姿が可愛かった。志望校に合格した生徒が、涙を浮かべて『先生のお陰です』なんて言ってくれて、救われた」


 俺はただ、自分の為に頑張っていただけなのに、生徒達からは感謝されて、必要とされていた。


「自分なんかでも、誰かの役に立てるってことを、生徒達が教えてくれたんです。それに気付いて、俺は初めて本当の意味で塾講師になれたんだと思ってます。だから、その何年も前から、自分の身を削って社員として生徒の為に尽くしてきた黒桐室長のことを俺は尊敬しています」


 それは、嘘ではない俺の本当の気持ちだ。

 上司としての彼は、確かに嫌いだった。

 でも、一講師としての彼のことを俺は本当に尊敬していた。

 ただ、きっとそれは彼には伝わっていなかった。


「そんなことを言って、冬月先生はずっと小鳥遊さんにべったりだったじゃないですか」

「そうですね。ずっと親身になって俺に色々教えてくれた小鳥遊先生は、俺の恩人です。あの人がいなかったら、俺はこれまで講師を続けられなかったでしょうから。でも、ストイックに授業力を磨く黒桐室長にも、俺は憧れてたんです。それは嘘じゃありません」


 それを聞いて、黒桐室長は鼻で笑った。


「だからなんだって言うんですか? 今更そんな風に媚を売られても……」

「媚びなんて売ってませんよ。ただ、黒桐室長が俺のことを羨んでいたって言うなら、俺だってそんな黒桐の高い授業力をずっと羨んでいたって言いたいんです」

「……そんなの、本当に今更だ」

「ですね。それに、黒桐室長の言う通り嫌がらせをさせているのには気付いていましたから、俺もあなたのことが好きではありませんでした」

「でしょうね。それこそ僕は、君に早く辞めて欲しかったですから」

「俺は黒桐室長がそう考えていそうだと思ったから、死んでも辞めてやるもんかってなりましたよ。まぁ、友達と酒を飲むたびに愚痴って『もう辞めてやる』なんて言ってましたけどね」


 俺がそう言って黒桐室長顔を見て笑うと、黒桐室長も俺の顔を見て笑っていた。


「なんだ、君も普通にそんなことを考えていたのか…… だったら、君と僕の違いはなんだったんだ? どうして今がこんなにも違ってしまったんだ?」


 悔しそうに言って、自嘲気味に笑う黒桐室長。

 そんな室長に統括長はため息混じりに言った。


「誰かを攻撃することで自分を守っていた君。自分を研鑽することで自分を守ろうとした冬月先生。どちらが周囲からの信頼を得るかなんて、火を見るよりも明らかでしょう?」


 そんな統括長の辛辣なコメントを受けて、黒桐室長は苦笑いを浮かべる。


「何というかさ、君達はまるで逆なんだよね。自分に甘く他人に厳しい君と、自分に厳しく他人に甘い冬月先生。水と油なわけだから、それはまぁ噛み合う訳がなかったのさ」


 そんな黒桐室長に、統括長はたたみかけるように言葉をかけた。

 でも、普段なら腹を立てるだろう黒桐室長は、苦笑いを浮かべるだけだった。


「耳が痛い話ですね。でも、その通りなんだと思います」


 そう言って、深い深いため息をつく黒桐室長。

 まるで魂ごと吐き出しているのではないかという、大きなため息だった。


「それで? 君は僕をどうするつもりなのかな?」


 そう言って俺を見た黒桐室長の顔には、もう憎悪の感情は見られない。

 そこにあるのは全てを諦めたような、疲れた自嘲の笑みだけだった。


「君の手元に届いた映像が動かぬ証拠だ。この混乱の元凶は間違いなく僕だ。やっぱり、ことを収める為にも、僕を警察に突き出すのかな?」


 そうしたいならそうすれば良い。

 そう言いたげな顔で、黒桐室長はやれやれとため息をこぼす。


「そんなの当然――」

「いえ、俺はそのつもりはありません」

「おい、冬月先生。流石にそれは……」


 統括長の言葉を遮って俺が吐き出した言葉に、統括長は呆れたような顔をする。


「あの封筒の差出人が誰か分かったんです。その人が口裏を合わせてくれれば、この件は警察沙汰にしなくても解決できますよ」


 黒桐室長には、もうあんな手紙を出そうという意思はない筈だ。

 なら、あとはあの手紙の件を収められれば、この問題は解決できる。

 別に俺は犯人を捕まえて懲らしめたい訳ではないのだ。

 ただこの混乱を収めて、春日の進路に迷惑をかけたくない。それだけだ。

 

「冬月先生、これは僕がいうことではないけれど…… そんな風に片付けていい話じゃないんじゃないか?」


 統括長だけでなく、黒桐室長も俺の言葉には呆れ返っているようだ。

 まぁ、気持ちは分からないでもない。

 でも、のだ。


「そんな風に片付けなきゃいけないんですよ」


 俺のことを呆れたように見つめる二人に、俺は説明するように言葉を続ける。


「あの手紙を出したのが黒桐室長だなんてことになったら、うちの校舎の評判は地に落ちます。そうなれば、そこに通っていた子供達の評判にも傷が付くんです。『犯罪者を信じて教わっていた』そんな風に思って傷付く生徒もいると思います。そんな人間を室長にしていた会社も、その影響を受けるでしょうね。そうなったら、多分今の混乱の比ではない大混乱が起こるでしょう」



 として、後ろ指を差される生徒もいるかも知れない。

 生徒達は何一つ悪くないのに、だ。

 それに、そうなればここぞとばかりに、ライバル他塾からの執拗な攻撃もあるだろう。

 結局は塾もブランドだ。

 ケチが付いたブラントを叩いて、自身のブランドの価値を高めるなんてみんなやること。

 けど、そうなるとやはり、その被害を受けるのはうちの校舎の子供達だろう。


 要するにだ、真実を明らかにすると、うちの生徒達が不幸になる可能性が高いのだ。

 俺としては、それはどうしても避けたかった。


「だから、真実をでっち上げるんです。と……」

「しかし、それならどうやってあのデタラメな手紙の誤解を解くんだい? でっち上げた犯人を警察に突き出すわけにも行かないだろう?」


 そう言って首を傾げる統括長。

 統括長の言いたいことは分かる。

 この混乱を収めるには、あの手紙が悪意のある人間がでっち上げたデマだったと証明するのが一番手っ取り早い。

 でも、そうすれば当然、先程俺が考えたような負の連鎖に繋がってしまう。

 俺と春日の悪評を払拭するのには、流石に大きすぎる代償だ。


「俺に良いアイデアがあるんです。まぁ、任せて下さいよ。黒桐室長の協力があれば、でこの混乱を収められますから」


 全ては、大事な生徒達を不幸にしない為。

 この件を丸く収める為に、不幸になる人間は出来るだけ少なくした方がいい。


 そう言って俺は、俺とあいつが考えていた策を、統括長と黒桐室長に説明した。



 続く――

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