第44話 41th lesson 俺は、結局彼のことを何も分かってなかったのだ。
ピンポーン――
マンションの通路に響き渡るインターホンの音。
しかし、それに応える声は聞こえない。
「……やっぱり留守でしょうか?」
俺は隣に立つ新名統括長にそう問いかける。
それは、ここにいないで欲しいと言う、俺の願望でもあった。
覚悟を決めたつもりでいた。
だが、いざ彼と向き合うと思うと、何やら言いようのない不安と緊張に襲われたからだ。
もし、これから彼と対峙したら、それはもう決別に繋がっている。
職場の上司としては確かに最低だったけれど、自分の授業の完成度への情熱や姿勢は尊敬できる人だった。
俺はあの人が苦手ではあったけど、嫌いではなかったのだろう。
「……いや、多分いるよ」
統括長はそう言うと、インターホンに手を伸ばす。
ピンポーン――
再び、通路に響き渡る音。
ピンポーン――
続けざまにもう一度。
しかし、扉の向こうからの反応はない。
「いるんだろう? 出てきてくれないか? できるなら、穏便に話を済ませたいんだ。マンションの管理人さんや警察に迷惑をかけたくない」
ドアの向こうにもきっとよく通るだろう綺麗で大きな声が、インターホンの音の代わりに通路に響き渡った。
すると、インターホンのスピーカーからザザッというノイズが聞こえた。
『……新名統括長、どのような御用件でしょうか? 本日は体調不良で出勤出来ないと先ほど連絡させていただいたと思いますが』
それから、少しだけ沈黙を挟んだ後で、スピーカーからそんなしゃがれた声が聞こえて来た。
風邪で喉が枯れているようにも聞こえる声だ。
もしかすると本当に風邪で寝込んでいただけなのだろうか?
「どのような御用件かはもう察しがついているだろう?」
そこに、統括長は容赦なく言葉をぶつける。
スピーカーからは、静かなホワイトノイズがしばらく聞こえていた。
『……いえ、ちょっと心当たりがありませんね』
返って来たのはそんな言葉。
「君がばら撒いた封筒の件だよ。色々調べてみたが、あれは君の校舎の全生徒の家庭に届いていた。そんなことが出来るのは、私と冬月先生以外には、君しか居ない。そうだろう? まぁもしかすると、君が誰かに指示を出してやらせた可能性もあるが、この件に君が関与しているのはもう間違いないんだ」
畳みかけるようにそう言う統括長に、再びスピーカーは静かなホワイトノイズを吐き出した。
「あの封筒のお陰で、校舎の電話は朝から鳴りっぱなしだ。転送されて対応した本社職員から話が伝わって、本社でも大騒ぎになっている。通常業務が出来ないような混乱だよ。これはもう、立派な『威力業務妨害』だ」
ホワイトノイズは変わらず聞こえている。
顔が見えないので、扉の向こうで彼がどんな表情をしているのかは分からない。
「冬月先生に対する『侮辱罪』や『名誉毀損』にもあたる。君のやったことは、明らかな犯罪行為――」
『何の話をしてらっしゃるのか、全く分かりません』
言葉を遮るようにスピーカーから聞こえて来たそんな言葉に、統括長は首を傾げながら問い返した。
「それはおかしいな。君の元にもこの混乱についての連絡は届いている筈だよ。君からのメールの開封通知も届いている。何の話をしているか分からないと言うのはその事実と矛盾するね」
『そんなメールは見た覚えがありません。もしかすると、スマホのアラームの間違えて開いてしまったのかも知れません』
「そうか、ならそうなんだろうね。でも、事実は変わらない。君の犯した過ちと罪も消えない。知らないでは済まされないよ」
知らぬ存ぜぬを貫く彼と、その彼の罪を確信して追求する統括長。
もうこうなってしまっては、話は平行線だ。
やった、やらないの水掛け論。
『今、統括長がおっしゃっていたメールを確認しました。驚きましたよ、冬月先生が卒業生と同棲してたなんて…… でも、写真も撮られていたんじゃ言い逃れは厳しいんじゃないですか? 統括長が仰っている会社と校舎の混乱に関しては、仮にもし僕が統括長の言うように封筒をばらまいたとしても、そんなタレコミをされるようなことをしていた冬月先生の責任なのでは?』
スピーカーから聞こえて来たのはそんな言葉だった。
それを聞いて、統括長はこう切り返した。
「写真? 君は何であの封筒に写真が入っていたことを知ってるのかな?」
『何でって、そんなのメールに……』
統括長の言葉に返答していた彼が、途中で言葉を詰まらせる。
「メールには『写真』に関することは書かれていないよ。各家庭に冬月先生と校舎の卒業生との同棲の事実を言及する怪文書が届いたとしか書かれてないんだからね」
『…………』
スピーカーからは、息を飲む声の後静かなホワイトノイズが聞こえている。
するとそこに、俺のスマホが何かの通知を知らせる為にポケットの中で振動した。
取り出してみると、それは春日からのメッセージだった。
俺はそのメッセージを見て、驚いて言葉を失った。
そんなとき、スピーカーから再び声が聞こえて来た。
『……そ、それは、僕の所にもその封筒が――』
「もうやめましょう」
そんなスピーカーの声を、俺は言葉で遮った。
『もうやめましょうって、どう言う――』
食い下がる黒桐室長の声に、俺は言葉を続けた。
「今、俺のスマホにとある画像が届きました。例の手紙を投函されたという生徒の家の監視カメラに映る、問題の封筒を犯人がポストに入れている時の画像です」
『――っ!?』
スピーカーの向こうで、息を飲む音が聞こえて来た。
「一件だけじゃありませんよ、何件も、何件もそう言う写真や映像が届いてます」
春日が送ってくれたメッセージは、彼女の元に届いた生徒や卒業生達から寄せられた、数々の証拠写真や映像だった。
ずっと連絡がつかなくて心配していたが、どうやらあいつもまた、俺なんかの……
いや、俺の為に駆け回ってくれていたようだ。
「犯人の顔がしっかり写っているものもありますよ……」
俺は数ある写真の中から、犯人の顔がしっかりと写った写真を選んでスマホに表示すると、インターホンのカメラに向けた。
「あなたです、黒桐室長」
『――くっ……』
インターホンのスピーカーからは、黒桐室長の苦しそうな声が聞こえた。
「玄関の鍵を開けて下さい。別にあなたをすぐにどうこうしようとはしませんから」
「……本当に、君は」
俺の言葉を聞いて、統括長はやれやれと首をする振る。
「まずは話を聞かせて下さい。お願いします……」
ゆっくりとそう言う俺の言葉を受けて、黒桐室長はしばし考え込むように沈黙した。
黒桐室長の返答を黙って待っていると、玄関の扉の向こうに人の気配を感じた。
ガチャリッ――
通路に響き渡る玄関の鍵の音。
ゆっくりと押し開けられた扉からは、憔悴しきった様子の黒桐室長が顔を出す。
「……入って下さい。大したおもてなしは出来ませんが」
「いえ、お構いなく。では失礼します」
そう言って、玄関から部屋に入る俺に続くようにして入って来た統括長はイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「そんな事だろうと思って、ケーキを買って来たから安心してよ」
「……本当に、統括長は人を食ったような人ですね」
「褒め言葉として受け取っておくね」
そして案内されるまま、俺と統括長は黒桐室長の家のリビングに通される。
男性の一人暮らしとは思えない、掃除の行き届いた綺麗な部屋だった。
らしいと言えばそうだけど、何というか、生活感がまるで感じられなかった。
「ここには基本的に、寝に帰ってくるだけですからね。散らかりようがないんですよ」
俺の視線と、考えていたことに気付いたのか、黒桐室長はそう言って自嘲気味に笑う。
「あんな手紙を投函されたのに、それでも君の為にそれだけの子供たちが動く…… 僕も君も、子供達にしていることは大差ない筈なのにね。子供達やその保護者は君を守ろうとして、僕を糾弾しようとした訳だ」
投げやりに語り出したのは、そんな話だった。
「思えば、ずっと君は生徒達の中心にいたね。君はバイトで、僕は社員で、僕の方がずっと生徒達のために時間を費やしていたのに…… いつだって生徒達は君の方を選んだ。僕はそれがずっと、妬ましかったんだ」
俺の元に集まった、黒桐室長を糾弾する証拠の数々。
それをもって黒桐室長はそんなことを言っているが、事実はそうでは無いと思う。
こうして証拠を集めたのは、俺ではなく春日の頑張りだ。
俺があそこまで多くの生徒達からの信頼を集めていたのかと言えば、恐らくそれは違うと思う。
でも、そんなことは黒桐室長には分からないし、きっと関係もないのだ。
彼の目にはそう映っていた。
それが全て。
だって、目に見えることしか、人間には分からないのだから。
彼から見た俺は、そういう生徒から無条件に愛される講師だったのだろう。
「夏川先生も、新名統括長、三浦人事部長もそうだ。みんな冬月先生の方に引き寄せられていた。僕は必死にバイト講師の先生達を食事に連れて行ったりして繋ぎ止めようとしていたのに…… 君はそんなことをしなくても、勝手に周りに人が集まるんだ。やってられないよ。僕が何年もかけてやっと手にした教室も、君はあっという間に手に入れようとしていたしね」
統括長からの信頼や三浦部長からの話も、やはり彼は面白くなかったのか。
考えてみれば当然だと思う。
自分を飛び越えて、上司と仲良くしている部下を面白く思うわけがない。
「仕舞いには、可愛い女子高生の卒業生との同棲だ。もう冬月先生が恵まれ過ぎていて、妬ましさが憎らしさに変わってしまったよ……」
吐き捨てるようにそう言って、黒桐室長はため息をつく。
「少し前まで辛そうに仕事をしていたのにね…… 君は気付いていたのだろうが、僕は君が妬ましくて、必要以上にキツくあたってストレスを発散していたんだ。最低だろう? でも、何故だか君は勝手に持ち直した。それどころか、前よりも多くの人間を惹きつけるようになって行くじゃないか。僕はもううんざりだったよ」
なんとなく予想していたので驚はしなかったが、そんな黒桐室長の言葉を聞いて俺は悲しい気持ちになった。
俺は、結局彼のことを何も分かってなかったのだ。
仲は決して良くなかったが、悪くもない。
そんな風に思っていたのは、俺だけだった。
それが悲しかった。
「どうして冬月先生が元気を取り戻したのか…… それをいろいろ調べている内に、その原因が君が同棲しだしたからだと分かった。だから――」
ずっとこちらを向いていなかった黒桐室長が、ギロリとこちらを向き直って睨む。
「そんな冬月先生の幸せを、ぶち壊してやろうと思ったんだよ」
その目に宿っていたのは、俺に対する明確な憎しみの感情だった。
続く――
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