第43話 40th lesson 俺は諸々のことを諦めて、せめて春日の進路には迷惑をかけない様にしようと覚悟を決めた。



「ふぅ…… 昨日の夜も今朝もあんなに食べたのに、まだ大量に残ってるなんて。流石に作りすぎだろ」


 昨晩、春日が大量に作ってくれたご馳走は、結局翌日の昼を超えてもまだ残っていた。

 もちろん、俺も春日も朝、昼と腹一杯まで食べたのにだ。

 これは今晩も頑張らないとなくならないだろう。


「『夜はアレンジするから、新しい気持ちで食べれるようにするね!』なんて言ってたが、それに期待するしかないな……」


 それが大好物でも、ずっと同じものを食べていると飽きが来てしまうことを俺は初めて知った。

 大食いYouTuberとかが味変する理由がよく分かってしまった。


「さて、今日もお仕事頑張りますかね」


 うーん、と一度大きく伸びをしてから、俺はエレベーターホールに足を踏み入れる。

 そして、いつものように校舎宛の郵便物を郵便受けから取り出した。


「ん? これはなんだ?」


 教材購入の勧誘や、私立高校の営業の封書、その他ダイレクトメール。

 そんないつも通りの郵便物の中に、表にも裏にも何も書かれていない真っ白な封筒。

 明らかに怪しいその封筒を開けるかどうか、正直迷う。

 これが受信フォルダに届いた怪しいメールなら、間違いなく開封しないでそのまま削除だ。

 ただ、これは封書。

 生徒が何らかの理由で投函した、何か重要な書類だったりしたら困る。

 というか、その可能性は大いにあり得るのだ。

 提出物を出し忘れた生徒が、帰りがけにこの郵便受けに入れて帰るなんてことは日常茶飯事なのだからな。


「仕方ない、開けてみるか」


 一応光に透かして、中に刃物などが入っていないか確認する。

 すると、どうやら紙以外のものは入っていなそうだ。

 俺は出来るだけ丁寧に封筒を開けて、その中身を出してみた。


「これは……!?」


 出て来たものを見て、俺は言葉を失った。


「こんなもの、いったい誰が?」


 それは数枚の写真と一枚の手紙だ。

 写真に写っていたのは俺の自宅。

 そこから制服姿の出かける春日と、それを見送る俺の姿が数枚に渡って写真に収められている。

 そして、手紙の文言はこうだ。


『淫行塾講師、冬月の正体。卒業生の女子高生と同棲? 冬月は女子生徒を性的な目で見ている変態だった! 即刻講師を辞めさせるべきだ!!』


 パソコンか何かで作られたその手紙は、俺と春日の関係を曲解して、俺を攻撃する様な内容だった。

 春日との同居ついては事実だが、それ以外はデタラメ。

 だが、この写真と共にこの手紙を見た人間は、俺のことを『そういう人間』だと思ってしまうかも知れない。

 そして恐らくだが、文面からしてこの手紙は、ここだけではなくこの校舎の生徒や卒業生の家にも配られているのだろう。


「これはヤバいな……」


 間違いなく、考えられる中でも最悪の形で俺と春日の同居な事実が明らかになってしまった。

 元はと言えば、こんなことを隠していた俺が悪いのだが……


「写真には春日の顔もしっかり写ってる…… このままじゃ、春日の方にも色々迷惑がかかっちまうかも」


 俺は手紙と写真を封筒に戻してポケットに押し込むと、急いでエレベーターを使って校舎に向かった。

 塾講師の出勤は遅い。

 きっともう、生徒や卒業生の保護者にはこの手紙が行き届いているだろう。

 だとすれば、すでに校舎や本社にはこの件の問い合わせが殺到しているかも知れない。

 そう考えて俺が校舎の電話の転送を解除すると、すぐさまその電話に着信が入る。


「はい。お電話ありがとうございます――」

「そちらの講師の冬月先生が、卒業生の女の子と同棲してるって言うのは本当なんですか?」

「その件に関しましては、現在事実関係を確認中でして……」


 それは俺の予想通りの問い合わせ。

 電話の声から察するに、電話の主は中3の巻島さんのお母さんだろう。

 本当はキチンと説明したかったが、会社に対応を確認していないので俺はそんな杓子定規な言葉で質問をかわして電話を切る。

 会社のパソコンを立ち上げると、保護者達から大量の問い合わせメール。

 そして、本社からの質問のメールも届いていた。


「こいつはもう、どうしようもないかも知れないな……」


 こうなってしまっては、もう取り返しが付かないだろう。

 俺は諸々のことを諦めて、せめて春日の進路には迷惑をかけない様にしようと覚悟を決めた。

 口から溢れるため息を、そのまま気持ちを落ち着ける為の深呼吸に変えた。

 最悪、俺は職を追われても構わない。

 ただ、何としても春日の、大事な生徒の未来だけは守らないと……


 俺は目の前の電話の受話器を手に取り、本社の短縮番号を押す。


「その覚悟は立派だけど、ちょっと早計だから待とうか」


 そう言って、受話器を元に戻させたのは、いつの間に校舎にやって来ていた統括長だった。


「統括長? でも、この状況では……」

「その手紙の内容は事実なのかい?」

「いえ、写真の元生徒との同居以外は事実無根です。でも、同居の事実がある以上、弁明しても……」

「君がそう考えるのは分かるが、これで君が講師を辞めれば、この手紙の内容が『真実だ』と言うことになってしまう。それでは春日さんも納得出来ないだろう?」

「でも……」


 春日の納得なんて、今は重要ではないはずだ。

 彼女にこの手紙の混乱が影響を及ぼす前に何か手を打たなければ、間違いなく彼女にも迷惑がかかってしまう。

 そして、それは彼女の未来にも影響するかも知れないのだ。

 彼女は受験生だ。

 この時期のおかしな評判は、彼女の進路にだって少なからず影響を及ぼすはずだ。

 それは何としても阻止したかった。


「彼女が大事なのは分かる。だからこそ君は今、冷静にならなければならないはずだよ?」


 優しく淡々と諭すように、統括長は俺に語りかけてくれた。


「その手紙の内容が間違っているなら、まずはそれを正さなければダメだ。このデマを放置すれば、噂が噂を呼んだ尾鰭手鰭が付くだろう。そうなったら、今度は春日君の方にも面白おかしく間違った評判が立ってしまう。彼女を守りたいなら、君はこのデマと真っ向から戦わなければダメだ」

「でも、このデマを…… この誤解を解くなんて不可能ですよ」


 ざっと考えても、それが極めて困難なことは誰にだって分かる。

 きっとSNSを通じて、この情報は広く拡散させてしまっているだろう。

 既にもう、収拾の付かない状況にあるのは火を見るよりも明らかなのだ。

 この大炎上を鎮火することは難しい。

 と言うか、奇跡でも起きない限り不可能だ。


「だとしても、君が諦めてしまったらおしまいだ。起きるはずだった奇跡だって、起きなくなってしまうからね」

「奇跡なんて起きませんよ。


 そう言って俯く俺の額に、統括長は弾いた指をぶつけた。

 所謂デコピンというやつだ。


「痛ぁっ!?」

「違うよ、冬月先生。


 痛みで思わず顔を上げた俺に、統括長は笑顔でそう言った。


「ちなみに、冬月先生は奇跡の起こし方を知っているかな?」

「そんなの知りませんよ」

「諦めない。ただそれだけだよ。例え可能性が低くとも、起きるかも知れなかった何かは、それを望む誰かが諦めた瞬間に絶対に起きなくなってしまうんだ」

「あはは、アプリゲームのガチャで『出るまで回すから必ず手に入る』みたいな話ですね」

「でも、真理だ。諦めず努力をする者だけに、奇跡は起きるんだからね」

「なるほど……」


 それは詭弁だ。

 どうしようもない状況なんて、世の中には溢れかえっている。

 今回の件だって、きっとその一つだ。

 だと言うのに、統括長が笑顔でそんなことを言うものだから、俺は微かに何とかなるかも知れないと思ってしまった。

 本当に、この人はそうやって人をその気にさせるのが上手い。


「けど、一体どうするんです? この告発文入りの封筒は、恐らくうちの校舎の生徒の家に全部配られてますよ。下手をすれば卒業生のところにだって……」

「そうかも知れない。でも、そうだとするとその封筒をばら撒いた人間を突き止める上で、大きなヒントになるはずだ。違うかな?」

「え? ……あぁ、そうか」


 それを聞いて気が付いた。

 この校舎に通う生徒の家全てに、例の封筒が届いているのだとすれば、そんなことを出来る人間は限られる。

 だって、このご時世だ。

 所属生徒の個人情報は、校舎や会社関係者しか知ることが出来ない。

 もし、外部の人間にそれが知られていたとすれば、それは情報漏洩だ。

 内部の誰かが漏らさない限り、外部の人間に校舎に通う全ての生徒の家庭に、あの封筒を届けることは不可能なのだ。

 更に、うちの会社は個人情報保護の観点から、自校舎以外の生徒情報の引き出しについて厳しいルールがある。

 本社の情報システム課に問い合わせて、その情報の使用要件を提出し、許可を貰わないとアクセス出来ないのだ。


「ちなみに、システムに問い合わせてみたけど、ここ最近この校舎の生徒情報の引き出しを申請した者はいないそうだ」

「ってことは、考えたくないですけど、この封筒をばら撒いた人間はうちの校舎の職員の誰かってことですか?」

「そうなるね。最近この校舎のに常駐している私もその容疑者の一人ってわけだ」

「もし新名さんが犯人なら、さっき俺を止めませんでしたよ。あなたは犯人じゃありません」


 そう言っているうちに、俺はもう犯人に心当たりが付いていた。


「本社からの説明要求のメールに載っている、問い合わせて来たご家庭のリスト。これを見る限り問い合わせは、小学部から中学部、そして卒業生の家庭と満遍なくって感じですからね。普段小学部の授業に入らないバイト講師の先生方は容疑者から外していいでしょう。となると、社員講師の中に犯人がいることになります」


 現在、この校舎に常駐する社員は、俺を含めて3人だ。

 俺と新名統括長が犯人ではないとすれば、必然的に犯人は残りの一人ということになる。


「そう言うことだよ、冬月先生。ここまで大事になった以上、この件については犯人を明らかにしないといけない。事実無根のデタラメで、教室に混乱を招き、業務も著しく妨げられている。これは立派な『威力業務妨害』だ。それに君や春日君に対しての『侮辱罪』や『名誉毀損』にもあたる。既にこの手紙のばらまきは、完全に犯罪行為なんだ。犯人を捕まえて、警察に突き出す必要がある」

「いや、そこまでしなくても……」


 話が大事になっている気がして、俺は思わずそう言った。

 でも、統括長はゆっくりと首を左右に振ってそれを遮った。


「そうやって、誰でも彼でも思い遣ってしまうのは君の良いところでもあり悪いところだ。でも、間違えちゃいけない。その封筒に詰まっているのは、紛れもない彼の悪意だ。彼は君を貶めようとして、関係のない春日さんの未来すら汚そうとしている。これはもう、ちょっとした悪戯とかそういった次元のものじゃない。確実に君を破滅させようとする明確な攻撃だ。『そこまでしなくてもいい』じゃないんだよ。『そこまでしなければいけない』んだ」


 統括長の顔に、笑みは一切浮かんでいなかった。

 その顔に浮かんでいたのは、明確な怒りの色。

 どうやら新名統括長は、俺なんかの為に怒ってくれているようだ。


「その顔は、『俺なんかの為に怒ってくれるなんて、新名さんは人が良いですね』といったところかな? でもね、これはきっと私だけじゃないよ」


 統括長がそう言って、教室の入り口を見つめる。

 すると、階段を駆け上がる音とともに、そこから夏川先生が教室に飛び込んで来た。


「冬月先生! 大丈夫ですか?」

「夏川先生っ!? どうしたんですか、こんな時間から? 学校は?」

「代返を頼んで飛んで来ちゃいました! なんか卒業生のLINEグループづてに変な噂の話が聞こえて来て心配で……」


 話を聞くと、どうやら例の封筒の件がもう卒業生達の間にも拡散されているらしかった。

 あの情報を耳にして、『冬月マジで最低だわ』と嫌悪感を示す者も少なくなかったらしいが、夏川先生のように心配してくれている者も多いと言う。

 どうやら俺は、良い生徒に恵まれているらしかった。


 俺が簡単に状況を説明して、校舎のポストに投函されていた封筒を夏川先生に見せる。

 すると、夏川先生もまた、新名統括長同様に怒りを露わにしてくれた。


「誰なんですか、こんな酷いことをしたのは? これじゃあ瞳ちゃんも可哀想です!」


 そう言って憤る夏川先生の言葉に、俺は困って統括長の方に視線を送る。

 すると、俺の顔を見つめ返して、統括長は再びゆっくりと首を左右に振った。

 覚悟を決めなさい。

 その視線がそう言っている。


 俺は、一度深く深呼吸をしてから考えた。

 どうしてがこんなことをしたのか?

 それはもちろん分からない。

 もしかすると、この前春日が言っていた通りだったのかも知れない。

 俺との関係は、決して良好とは言い難いものだった。

 でも、もう取り返しの付かない状況になってしまったことは間違いない。

 何がにここまでさせてしまったのだろうか?

 そこにはきっと、俺の沢山の落ち度もあったのだと思う。

 そんな考えが頭の中をグルグルと渦巻いた。


 でも、俺には守りたいものがある。

 その為には、やはり覚悟を決める必要があるのだろう。


 きっと、にも、譲れないものがあったのだ。

 だから、俺は俺の譲れないものの為に、にぶつからなくてはいけないのだと思う。


「あはは、それなんだけどね……」


 だから、心の中で俺なりの覚悟を決めて、夏川先生に俺がたどり着いた答えを語るのだった。



 続く――

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