第42話 39th lesson 俺はやれやれとため息をつきながら、そんな春日を許してしまうのだった。
「雨が酷いな…… 朝のうちに止むって予報だから、俺が出かける頃には止んでるだろうけど」
土砂降りの窓の外を見る。
道路に打ち付ける雨が、吹き荒れる風に煽られて道路にさざ波を立てているように見える。
そうそう簡単には止まなそうな雨だ。
「朝のうちに止むなら、アタシが出かける頃には止むから大丈夫だよ!」
しかし、そんな雨など意に介さず、ケロッとした笑顔で笑う春日。
彼女を見ていると、本当にこの雨が止んでしまいそうにも思う。
ただ、普通に考えればまだしばらく降り続きそうな雰囲気だ。
「その自信はいったいどこから来るんだよ…… 見た感じ台風かな? って暴風雨だぞ?」
「大丈夫大丈夫。アタシ晴れ女だから!」
そう言って、自分で作った絶品の玉子焼きを頬張って、「今日も私は良い腕してるね!」とその自分の料理を絶賛している。
本当に強がりとかではなく、この雨が自分が出かけるまでには止むと信じているようだ。
「レインコートとか用意しておこうか?」
「だから大丈夫だってば! 相変わらずセンセは心配性だね」
「心配性なんじゃなく、冷静なだけだ。止むにしても止まないにしても、最悪を想定して準備しておいた方が良いだろう?」
「でも、その準備は無駄になるし…… なんなら賭ける? この雨が止むか止まないかさ。外れた方が今夜一つだけ、当てた方の言うこと聞くの。どう?」
「『どう?』ってお前な……」
「それじゃあ決まりね。さぁ〜て、今夜は何をさて貰おうかなぁ?」
俺がその賭けになるとも言っていないのに、春日はそう言って楽しそうに鼻歌を歌った。
まぁ、春日が出かけるのは今から大体30分後だ。
それまでにこの雨足が衰えて、雨が止むなんてことはまずないだろうから賭けは俺の勝ちになるだろうが……
「それはそうとさ、最近校舎はどうなの? 体験生のわんさかで大変なんでしょ?」
「まぁな、黒桐室長がこれまでの営業不調を挽回しようと、出来る子出来ない子関係なく体験させてるから、しっちゃかめっちゃかではある」
「このチャンスを逃すまいと必死なわけね。すぐに周りが見えなくなっちゃう黒桐らしいじゃん」
「まぁ、統括長が上手いこと手綱を取ってくれてるよ。クラス編成を変えてくれるように働きかけてくれたから、なんとかなるとは思う」
「ふーん…… それはよかったね。ただ、新名先生をあんまり頼り過ぎるのも良くないと思うよ。黒桐は教室乗っ取られたみたいで絶対面白くないと思うし」
そう言ってから、春日は両手を合わせて「ごちそうさま」と立ち上がる。
食べ終わった朝食の食器を持ち上げて、それを流しに運ぶと俺の方を振り返った。
「なんとなくだけどさ、黒桐は新名先生を使ってセンセが色々暗躍してるとか考えてそう。だから、いじわるされないように気をつけてね」
「お、おう……」
そんな春日の不穏な言葉に、俺は嫌な予感を覚える。
そんな予感を振り払うように首を振ってから、春日が焼いてくれたこれまた絶品の焼き鮭の皮を頬張った。
絶妙な塩加減のパリパリのその皮は、ほんの少し焦げた苦味もアクセントになっていて美味しかった。
「ごちそうさまでした。いや、今日の朝ご飯もマジで美味かったよ。ありがとな」
「お弁当も晩御飯も美味しいから楽しみにしててね!」
「ああ、楽しみにしておくよ」
俺は食べ終わった食器を持って流しに向かう。
俺と入れ替わるようにして食卓に戻ろうとした春日が、窓の外に視線をやってニヤリと笑った。
「あと、今夜アタシから何を命令されるかも楽しみにしててね!」
言われて俺も窓の外を見る。
すると、さっきまで土砂降りだったはずの雨がもうほとんど止んでいた。
うるさいほどだったら雨音もすっかり静かになっている。
「げっ!? マジか。本当に止みかけてる……」
空も徐々に明るさを取り戻し始めているし、これはもうまず間違いなく雨は止むだろう。
するとそのタイミングで、市内の広域放送から『大雨警報』の発表が聞こえてきた。
「あはは、もう止むのに大雨警報だって」
「そう笑ってやるなよ。ついさっきまでの雨は間違いなく、警報クラスの雨だったんだから」
そんな話をしているうちに、雨はみるみるその勢いを失って、とうとう止んでしまった。
時計を見ると、そろそろ春日が学校に向かう時間になっていた。
「ということです。残念だったね、センセ。この勝負はアタシの勝ちみたい」
「俺はそもそも、その賭けになるなんて一言も言ってないんだが?」
「えぇ〜! 今更それはズルくない?」
「……なんてな。このはっきり断らなかった時点で、俺はあの賭けに応じたも同様だから従うよ。ただし、命令は常識の範囲内でだ。そうじゃなきゃ、俺はお前の命令には従わないからな」
「やった! 約束だからね、センセ! 夜になって『やっぱなし』は認めないよ?」
まるで小学生のように嬉しそうにその場で飛び跳ねて喜んだ春日は、椅子に置いたままになっていた鞄を肩にかける。
「それじゃあ、勝者は今夜の命令を考えながら、悠々と学校に向かうとしますかね」
「お手柔らかに頼むぞ」
「はぁ〜い!」
楽しそうに笑ってこちらに敬礼してから、玄関に向かってパタパタと歩く春日の背中について行く。
「行ってきます!」
「おう、行ってらっしゃい」
弾かれたように駆け出して行くその背中を見送っていると、春日は途中で立ち止まってこちらを振り返って来た。
「見て見て、センセ! 虹だよ虹!」
嬉々として春日が指さす先には、空に薄っすらと浮かぶ虹が見えた。
「今日はきっといいことあるね! それじゃあ、いってきまぁ〜すっ!」
呆気に取られた俺にそう言って、春日は今度こそ坂を駆け降りるように走って行った。
そのどんどん小さくなって行く背中と、空に浮かぶ虹を見て、俺は思わず口元を緩める。
「なんか、本当にいいことがありそうな気がしてくるからすごいよな」
それから俺は、部屋に戻って食器洗いの続くをしてから、今日の授業の準備をして出勤までの時間を過ごした。
「ふぅ〜…… 春日が不穏なこと言うから、嫌な予感がしてたけど、特に問題は起きなかったな。クラス編成も変わって、大分授業もやり易くなったし、アンケートの結果もまずまずだったし……」
仕事を終えて、駅前で夏川先生と別れた俺は、そんなことを呟く。
家へと続く長い坂道を登りながら、安堵のため息を吐き出した。
「いや、むしろ今日の問題はこれからか……」
あとは晩御飯を食べてから春日の勉強を見て、風呂に入って寝るだけだ。
そう思っていたのに、朝の春日とのやり取りを思い出して、今度はやれやれとため息をついた。
「アイツ、一体何を俺にやらせる気だ?」
朝の賭けで負けた俺は、春日の命令を一つ聞かなければならないのだった。
まぁ、あれでも春日は常識はある方だからな。
どうしようもないような要求はして来ないだろう。
……して来ないと信じたい。
「して来たときは、笑顔で却下すればいいか」
誰に言うわけでもなく呟いた俺の言葉は、そのまま満点の星空に吸い込まれて行く。
朝の豪雨が嘘のような、雲一つない星天だ。
なんだか、その天候の変化はまるで春日の気分のようだと思った。
『乙女心と秋の空』とは全くよく言ったものだ。
そんなことを考えているうちに、気が付けばもう家の前に辿り着いていた。
俺の頭を、なんとも言えない一抹の不安がよぎる。
それを気付かなかったことにして、俺は目の前の階段を上がって玄関の前までやって来た。
自分の家なのに、なんとも言えない不思議な緊張感を覚えつつ、ドアノブに手をかけてと、玄関には嬉しそうな顔をした春日が立っていた。
「ただいま」
「おかえり、センセ! ご飯出来てるよ」
いつも通りの笑顔が、今夜は逆に怖い。
「お、おう」
「チャチャッと着替えて来ちゃってよ。ご飯食べたら勉強見てくれるんでしょ?」
そう言って俺を書斎の方に押しやると、春日はいつもの調子でキッチンへと戻って行く。
一瞬、朝のあのやり取りのことはもう忘れてくれたのかとも思ったが、それは違った。
「勉強を見て貰ったら、お楽しみの罰ゲームが待ってるからね!」
「あぁ、やっぱり覚えてるよな……」
「あったりまえでしょ? まぁ、悪いようにはしないから、楽しみにしててよ」
そう言って不敵に笑う春日。
そのなんとも言えない表情に怯えながら、とりあえず着替えを済ませた。
あの顔は何かよからぬことを企んでいる顔だ。
俺はある種の覚悟を決めてから、春日の待つダイニングに向かった。
「……これは」
ダイニングに足を踏み入れて、俺は言葉を失った。
「えへへ…… 驚いた?」
「あぁ、驚いた。っていうか驚いてる最中だ」
俺が一体何に驚いているのかと言えば、ダイニングの食卓に並ぶ豪華な料理の数々にだ。
それはまるでパーティーでも始まりそうな光景だった。
普段使わないような大皿がいくつも並び、その皿の上には俺の好物がズラリと並んでいる。
「春日、これは一体?」
「はぁ〜…… やっぱり忘れてるか」
俺が問いかけると、春日はやれやれとため息をついてから、しょうがないなぁと言って説明した。
「前に約束したサプライズだよ。覚えてない?」
「サプライズ? あぁ!?」
そう言われて思い出す。
少し前に春日が御子柴さんと一緒になって俺を騙そうとしたときに、春日とそんな約束をしていたのだ。
確か、俺の好物を全力で作ってくれるという約束だ。
「あの約束は『いつ』って決めてなかったからさ、センセが忘れた頃にと思って。満を辞して今日決行してみましたぁ! ドッキリ大成功!」
春日は後ろ手に隠し持っていたクラッカーをパァンッと炸裂させる。
自分で提案しておいてもうすっかり忘れていた。
流石は春日だ。
サプライズとしてはタイミングもバッチリだった。
「まぁ、今夜こんなに食べたらデブになっちゃうからね。食べれる分だけ食べて、残りは明日の朝とか、お弁当とかに回しますのでご安心を」
「あ、あぁ」
なんだろう。
突然かつ予想外のことだったので、頭がうまく働かない。
ただ、驚きと同じくらい嬉しい気持ちで一杯になっていた。
俺の為に、こんなに沢山の料理を作ってくれたこと。
そして、俺を驚かそうと色々準備してくれたこと。
そのどれもが嬉しくて、なかなか思考がまとまらなかったのだ。
「ねぇ、センセ。驚いてくれるのはこちらも本意だから嬉しいんだけどさ。驚きっぱなしなのは流石に困るんですけど? ご飯も冷めちゃうし、早く座って一緒に食べようよ」
「お、おう。悪い。そうだな」
春日の言葉に急かされるようにして、俺は食卓につく。
すると春日は取り皿を持って俺の顔を覗き込んで来た。
「さぁ、センセは誰が食べたい?」
菜箸を構えて、俺に問いかけて来る春日。
その視線を尻目に、俺は食卓の上の料理をグルリと見渡した。
本当に俺の好物をしか並んでいない。
どうやら俺の好みは、もうこいつに完璧に把握されているらしい。
「えっとそうだな…… それじゃあーー」
俺が思い付く順にリクエストを告げると、春日はそれを次々と取り皿に取り分けて行く。
そして、すぐに取り皿は一杯になってしまった。
「それじゃあ、召し上がれ!」
皿を渡され、促されるままにそれを食べる。
「うっま!」
「えへへ…… 『うっま』いただきました。ありがとうございます」
一口食べたら、もう箸が止まらなかった。
あっという間に取り皿の上の料理は無くなってしまう。
口に含んでいた料理を飲み込んでから、それは一息ついて思ったままの言葉を吐き出した。
「いや、ありがとうは俺の方だ。どれもこれもメチャクチャ美味いよ。マジで全部俺の好物で、味付けの好みも完璧だ」
「ちょ、ちょっと! そんなに褒めないでよ、照れるじゃん」
そんな言葉に、真っ赤になって照れる春日。
口ではそう言いながら、その顔に満更でもなさそうな表情を浮かべていた。
「いや、これは言わないわけにはいかないよ。こんなに沢山の美味しい料理を作ってくれて、本当にありがとう」
「……ど、どういたしまして!」
「なんですこしキレてるんだよ?」
「キレてないし! 照れ臭くて勢い付けて言ってるだけだし!」
「そ、そうか……」
一瞬、怒っているのかと心配したが、そうではないようなので安心する。
それからしばらくの間は、春日の作ってくれた豪勢な晩御飯に、俺も春日と一緒になって舌鼓を打ったのだった。
「ごちそうさまでした。本当にどれも美味かったよ」
「お粗末様でした。それなら腕によりをかけて作った甲斐があったよ」
俺は春日と笑い合う。
「んじゃ、今日も勉強よろしくです、センセ」
「ああ、任せとけ」
「……で、それが終わったら、お楽しみの罰ゲームですので!」
「って! それはそれでやるのかよ!?」
「勿論ですとも!」
てっきり、このサプライズで終わりかと思って安心していた俺に、春日は再び不敵な笑みを浮かべる。
俺はやれやれとため息をつきながら、そんな春日を許してしまうのだった。
これはもう完全に、餌付けされてしまっている気がするが、仕方ないと思う。
だってこいつの料理は、そうなっても仕方がないくらいに美味いのだから。
続く――
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