第39話 36th lesson  見上げた夜空には、眩しいくらいに輝くまんまるい満月が浮かんでいた。



「新規開校の話、断っちゃったって本当ですか?」

「あはは、うん。やっぱり、いまの中3の事を最後までちゃんと見たいしね……」

「いや、流石っすね!」


 俺の返答を聞いて、感心したように言って笑う下田先生。

 あれから数日経って、俺が異動の話を蹴ったことはすっかり周知の事実になっていた。

 本来、そういう情報はあまり漏れたりしない。

 今回こうした情報が漏れてしまったのは、ひとえにそれをいろんな人に話して回っている人がいるからだ。


「……どういうつもりですか、新名さん?」

「ん? どういうつもりって?」

「俺の話を色んな人に話してる件ですよ」

「あぁ、そりゃあ、せっかく骨を折ってお膳立てしたのに君が断るから、その腹いせだけど?」

「……いや、腹いせって」


 もう少しまともな理由かと思っていた俺は、噂を広めた真犯人の物言いに肩を落とした。


「というのは冗談でね。これも一応君の為を想って、なんだよ?」

「……俺を想って?」

「うん。君的には『自分の身勝手な都合で、私の配慮を断って心苦しい』って感じなんだろうけどさ。側から見れば、『いまの校舎に対する愛故の行動』に見えなくもないからね。これを上手く広めれば、この校舎での君の覚えは良くなるってものだろう?」

「そんな風に思ってくれますかね?」

「実際、下田先生はそう思ってくれてるみたいだよ?」

「まぁ、そうみたいですけど……」


 統括長の言うことも分かるが、会社的には俺が私的な理由で上の決定に噛み付いたという事実は変わらないはずだ。

 バイト講師の下田先生はその辺のしがらみを知らないからああだが、果たして社員である黒桐しつちよはどう思うか……

 そこのところが俺はどうしても心配だった。


「……お疲れ様です」

「あ、お疲れ様です」


 そんなことを考えて悶々としているうちに、その悩みの黒桐室長が校舎へとやって来る。


「おや? 今日は早いですね、新名統括長」

「うん。昼一の経営戦略会議が、のお陰でリスケになったからね」

「あぁ、なるほど。そういうことですか」


 誰かさんと言いながら、統括長は横目でしっかり俺のことを見る。

 急遽新規開校するはずだった校舎の開校が、来春まで伸びたことで、予定していた会議が無くなったのだそうだ。

 必然、黒桐室長の視線も自然と俺の方を向いた。

 覚悟していたこととはいえ、なんとも言いようのない緊張感が職員室を包む。


「はぁ〜…… 本当に冬月先生は、何よりも目の前の生徒優先なんですから」


 そう言って深い溜息をこぼす黒桐室長。


「いやぁ…… すみません」


 そんな黒桐室長に、思わず謝罪してしまう。

 すると、黒桐室長はキョトンとして俺のことを見返した。


「なんで僕に謝るんですか? 謝る相手が違うでしょうが……」


 そして、呆れた顔をして立てた親指で統括長を指差す。


「正直、受験間近の冬期に冬月先生に抜けられるのは校舎としては困りますからね。こんなことを言ったら会社的にはダメなんでしょうが、僕としてはあの話をあなたが蹴ってくれて助かりましたから……」


 俺の耳元に顔を寄せて小声でそう呟いた後、黒桐室長は俺の肩をポンと軽く叩いた。

 加えて、他の人には分からないような小さな動作で、顎で統括長の方を示す。

 統括長にキチンと謝れと言うことらしい。


「新名統括長。その件につきましては、誠に申し訳ありませんでした」

「え? あれ? そんなつもりじゃなかったんだけど…… 私はもう気にしていないから、冬月先生も気にしなくていいよ。しっかり校舎の中3生達を全員合格させてね?」


 俺の謝罪の言葉を受けて、白々しい演技をしてくれる統括長に感謝だ。

 どうやら、統括長の狙い通りになっているらしい。

 あの晩、酒を飲み過ぎて酔い潰れた人と同一人物には思えない。

 もう『流石』の一言しか出てこなかった。


「いや、変なプレッシャーかけないで下さいよ新名統括長。まぁ、もちろん、3年生は全員合格させますけど……」


 統括長の言葉に、戯けて返したのは黒桐室長だ。

 もしかしなくても、俺のことをフォローしてくれようとしているらしい。

 本当に、統括長の作戦は効果覿面だった。


「うん。期待してるよ」


 恐らく、自身の策が功を奏したことを喜んで、統括長は嬉しそうに頬を綻ばせていた。



「それじゃあ、今日はお疲れ様です」

「お疲れ様です…… って、黒桐室長は帰らないんですか?」


 業後のミーティングを終えて、いつもならすぐに鞄を持って席を立つ黒桐室長に俺がそう聞くと、黒桐室長は苦笑いを浮かべる。


「僕はこれから、新名統括長と面談なんですよ」

「あ、そうなんですね。それなら面談室を使って下さい。あそこの清掃はもう終わっているので……」

「わかりました、ありがとうございます」


 俺にそう言って、机に鞄を置いたままで席を立つ黒桐室長に続いて、統括長も席を立つ。

 しかし、面談とはな。

 二人がなんの話をするのかはもちろん気になったが、俺には確認しようもない。

 俺は教室の清掃をしながら、かすかに漏れ聞こえる二人の声から話の内容を想像するしかなかった。

 まぁ、漏れ聞こえてくるのは大きな笑い声くらいだったので二人の話していた内容はまったく分からなかった。

 少なくとも、聞こえてきた笑い声は穏やかなものだったので、物騒な話ではないのだろうが。


「いやぁ。ごめんね、帰るところを引き止めちゃって」

「いえいえ、お話しできて良かったです。新名統括長のお考えもよくわかりましたし。こちらとしても大変勉強になりました」


 面談室のドアを開けて二人が出てきたのは、それから数分後のことだった。

 その頃には俺も粗方の教室清掃は終えて、帰りの支度を始めていた。


「ああ、冬月先生。まだいらっしゃったんですね。僕は面談も終わったんで帰りますけど……」

「あ、冬月先生はこれから私とお話ししてもらいますので」

「そうですか、では僕はお先に失礼します」


 黒桐室長はそう言ってデスクに戻ると、手早く荷物をまとめて席を立つ。


「はい、お疲れ様です」

「お疲れ様」


 俺と新名統括長に丁寧に会釈をした後、黒桐室長はそのままエレベーターに乗って校舎を後にして行った。

 駅に向かって歩いて行くその背中を見送って、新名統括長はニッコリと笑う。


「ほらね、上手く行った」

「そうですね。色々お気遣いありがとうございました」


 俺がそう言って頭を下げると、統括長は少しだけ不服そうな顔をする。


「なんかかたいなぁ…… もう少し別の言い方は出来ないのかい?」

「ありがとうございます。助かりました」

「まだかたいなぁ……」


 恥ずかしさを誤魔化す為に、俺が鼻の頭をかきながら目を逸らしてそう言うが、統括長はまだ不服そうな顔だ。


「……って、これ以上砕けた感じは難しいですよ」

「ごめんごめん、君の精一杯の気持ちはちゃんと伝わったよ。からかってごめんね」


 すると、統括長はそう言ってケラケラ笑う。

 本当に、いろんな意味でメリハリがしっかりし過ぎていて、ついて行くのが大変だ。

 まぁ、途中からからかわれているのは分かっていたのだが。

 本当に色々お世話になってしまっているので、文句を言うようなことはしない。

 というか、文句など最初からなかった。


「本当に色々すみませんでした」


 俺が改めて頭を下げると、統括長は深く溜息をつく。


「だからもう気にしなくていいってば。昼間の会議の話を気にしてるなら、あれはどうせ私と三浦で雑談するだけのものだったんだから」

「そうは言っても、色々なところに頭を下げて積み上げてきた話だったってことくらいは俺にだって分かりますよ。それを俺は個人的な理由で台無しにしたんですから……」

「台無しになんてなってない。この話はあくまで延期だ。新しく店を出そうとするときに、色々な理由でそれが延期になることなんてよくある話だよ。こちらの予定と、君の予定が上手く噛み合わなかった。それだけさ」


 統括長はそう言って、俺の謝罪をまるで取り合ってくれなかった。


「……ちなみに、先程からカウンターにお客様のようだが、対応しなくていいのかな? 確か何年か前の卒業生で、春日さんだったか。が、ずっと君の背中を睨んでいるみたいだけど?」

「えっ!? マジですか?」


 統括長の言葉に驚いて振り返る。

 すると、確かにカウンターの向こうに春日が立って、俺のことを睨み付けていた。


「あ、やっと気付いた。新名先生はずっと気付いてたよ、センセ」


 ニッコリと邪悪な笑みを浮かべてこちらに手を振る春日の背には、鬼的な何かが浮かんで見えた気がした。

 もちろんそれは俺の思い込みで、実際には何やら怒っている春日がそこに立っているだけなのだが。


「春日さん、久しぶり。もしかしなくても、冬月先生に用なのかな?」

「あ、はい。いつ気付くかなぁ? って思ってたんですけど、全然気付いてくれなかったので指摘してくれてありがとです」


 統括長の問いかけに対しては、春日はさらりとその表情を変えて朗らかに受け答えをしていた。

 しかし、再び俺の方に視線を向けると、春日の背後には再び鬼のような何かが見える。

 彼女が何故ここにいて、どうしてそんなに怒っているのかは全く分からない。

 ただ、このまま放置するわけにも行かないので、俺は出来る限り自然な笑顔を浮かべて春日に声をかけた。


「どうしたんだ、春日? 俺に何の用だ?」


 すると、春日はチッとこちらに聞こえるように舌打ちの音を立ててから、自分の持つスマホを俺に見えるように振った。


「ん? スマホ?」


 俺は春日の言わんとすることをなんとなく読み取って、自分のスマホをポケットから取り出して見た。


「うおっ!? なんかすごい数の通知が……」


 すると、画面には数十件の通知が表示されている。

 何事かと思いその通知をタップしてみると、その殆どは春日からのメッセージや着信のようだった。

 俺は『おーい』とか『ねぇ』とか、いろんな種類のスタンプが表示されているメッセージアプリをスワイプして、過去のやり取りに戻って行く。


「こんなに連絡してくるなんて、なんかあったのか?」

「……いいから、ちゃんと確認して」

「はい……」


 俺か言葉に、やはり何やら迫力のある笑顔でそう言う春日の言葉に大人しく従う。

 そして、何度か親指で画面を下にスワイプして行くと、そこには俺が春日に送ったと見られる謎の言葉が表示されていた。


「ん? なんだこれ?」

「あのね、それはアタシの台詞なんですけど?」


 そこには、俺側から送られたこんなメッセージが表示されていた。


『ごめ』


 たった2文字のメッセージ。

 ちなみに、俺は送った記憶がない。


「あのさ、センセ。そんな半端なメッセージが来たら、なんかあったのかもって心配するでしょ? それくらいは分かるよね? センセはりょーしきある大人だもんね?」


 俺の送った謎のメッセージの後は、春日からの俺を心配するメッセージが何件も送られて来ていた。

 そして、その内容はだんだんと俺を心配するものから、ずっと無視を決め込んでいる俺への怒りにシフトしていったようだ。


「すまん、多分スマホの誤操作で妙なメッセージを送っちまったみたいだ」

「でしょうね! 元気に新名先生と話してるセンセの姿を見てそうだって分かったよ」


 そう言って、盛大にため息をつく春日。

 その顔には、怒りよりも安心の色が濃く見て取れた。


「ほんっっっとうに心配したんだからね!」

「いや、マジですまん……」


 春日の不満も怒りもごもっともなので、俺はただ平謝りをするしかなかった。


「はぁ〜〜…… まぁ、無事だったから良かったですけどね」


 そう言って、もう一度ため息をついたから、春日はその視線を俺から外して別の方を見た。

 俺がその視線をまだ追って行くと、新名統括長と目が合う。


「あ……」


 春日とのやり取りに夢中になるあまり、そこに統括長がいたことをすっかり忘れていた。


「いや、あれだよ冬月先生。春日さんは卒業生だし、二人の関係を私はとやかく言うつもりはない……」


 統括長は珍しく少し怒ったような顔をして、俺の方を見てこう言った。


「仕事の連絡が入ることもあるんだから、スマホは定期的に確認するべきだと思うぞ」


 新名統括長の言葉はその通り過ぎて、返す言葉もなかった。


「では、後は若い二人に任せて、私はそろそろお暇するとしよう」

「いやいや統括長。別にお見合いとかじゃないですから」


 鞄を持って席を離れた統括長は、ツカツカと俺の横を通り過ぎながら耳元に顔を寄せて言った。


「彼女が君の言っていた『約束した相手』なのだろう? なら、もっと大事にするべきだと思うよ」


 驚く俺に笑顔を向けて、統括長はそのままエレベーターの前を素通りして非常階段を降りて行ってしまった。


「まずかったかな? 新名先生の前であんなやり取りしちゃって……」


 苦笑いを浮かべながら、春日はそんなことを俺に聞いて来た。


「大丈夫だろ。他でもない統括長だし」


 俺達のあのやり取りを見れば、二人の間に何かただならぬ関係があると言うことは分かってしまったと思う。

 相手は統括長だ、下手をすれば俺と春日の関係性が全て伝わってしまった可能性もゼロではない。

 でも、それらを全部ひっくるめて、俺は『統括長相手だから大丈夫』だと言う結論に達した。

 そもそも、春日は卒業生だし、仮に彼女とそういう関係になったとしても塾における禁止条項に抵触することはないのだ。

 後は女子高生と塾講師が個人的な連絡先を交換して、何やらちちくりあっていたことにさえ目を瞑って貰えれば問題にはならないはずだ。

 そこを行くと、新名統括長はそう言うことを騒ぎ立てるような人ではない。

 そんな希望的観測を多分に含んだ俺の意見を聞いて、春日もまた「うーん」と首を捻る。


「うん、アタシも多分大丈夫だと思うかな?」


 そして、春日もまた俺と同じような結論に達したようだ。


「とりあえずさ、ここ片付けて帰ろうよ」

「そ、そうだな」


 怒っていたはずの春日も、怒らせてしまったはずの俺も、歯切れの悪いやり取りをしながら校舎を閉める為の作業を分担して行って、そのまま黙って校舎を後にする。


 見上げた夜空には、眩しいくらいに輝くまんまるい満月が浮かんでいた。



 続く――

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