第38話 35th lesson すっかり分かった気になっていたが、どうやら俺はまだコイツのことを、全然分かっていなかったようだ。



 落ち着いたBGMの流れる少し薄暗い店内。

 バーカウンターの席に並んで座り、俺と新名統括長は黙々とマスターが出してくれたチャージのナッツを摘む。

 因みに、俺と新名統括長以外にお客さんの姿は見えない。

 時間がそうさせるのか、それともこの店が流行っていないのかは分からない。

 でもまぁ、聞かれて困る話では無いだろうけれど、他に誰もいない方がなんとなく落ち着く気がするので良いのだが。


「こちら、シンデレラになります」


 マスターが新名統括長にカクテルを差し出すと、統括長はそのままそれを俺にパスする。


「あ、ありがとうございます」


 一瞬、マスターが驚いたような顔をした。

 俺と新名統括長は男女連れだ。

 オーダーの片方がノンアルコールカクテルだったなら、イメージ的には女性のオーダーだと思うのが一般的だろう。

 それぞれが頼んだのならそんなことはないのだろうが、気の毒なことに今回は両方共統括長が頼んだと言うのもある。

 だから、マスターに落ち度はない。


「これは失礼致しました」


 それでも、こうしてその対応を詫びることの出来るこのマスターを俺は好ましく思った。


「いえ、お気になさらないで下さい」

「あはは、折角バーに連れてきたのに、彼ときたらお酒は飲まないんだそうです。全く……」


 俺の言葉に統括長も冗談っぽく言葉を続けた。

 つられてかマスターも笑みを浮かべる。


「そう言うお客様の為に、ノンアルコールカクテルがあるんです。ですのでどうか当店のカクテルをお二人ともお楽しみ下さい」


 そう言って、マスターは丁寧に頭を下げてから、統括長にカクテルを差し出す。


「サイドカーでございます」

「ありがとう」


 統括長がそれを受け取ると、マスターはにこりと笑ってから俺達のまえを離れて行った。



「うん、良い店だね。マスターの腕も良い」


 マスターの背を見送ったから、お互いしばらくの間だまって出されたカクテルを楽しんだ。


「ですね」


 そんな沈黙を破って統括長が呟いた言葉に、俺は短くそう返した。


「……三浦から話は聞いたんだよね?」

「ええ、冬期講習で新規開校する校舎の室長にならないかって話ですよね?」

「そう、その話その話」


 俺の言葉を受けて、こちらをじっと観察してから統括長はやれやれとため息を吐いた。


「はぁ〜…… その様子じゃ、この話を君は断ろうとしていると見える」

「……分かりますか?」

「まぁね、君はこういうとき顔に出やすいから。というより、基本的に嘘は付けないタイプでしょ?」

「そうですか? 生徒には『顔色が読めない』ってよく言われますけど……」


 確かに、俺の周囲の親しい人達からは『分かりやすい』と評されることが多い。

 でも、その一方で校舎の生徒達からは、『ロボットみたい』なんてよく言われているのだ。

 これでも生徒の前に立ち講師を演じるプロの端くれ。

 ポーカーフェイスにはそこそこ自信がある。


「それはあれだよ、仕事だと思って気を張り詰めているからだ。君は仕事に対して誰よりも真剣だからね」

「はぁ……」


 つまりは、仕事以外のときは顔に出まくりと言うことらしい。


「まぁ、君の場合は気を許した特定の相手以外には、仕事同様にほぼ完璧に対応をしているから…… 君のそういうところを知っている人間は少ないだろうけどね」


 そんな風に言って笑った後、統括長はまた一口サイドカーを飲んだ。


「それで? どうして君はあの話を断ろうと考えているのかな?」


 核心をつく統括長の言葉。

 俺はそれにどう答えるべきか迷う。

 一番の理由は春日のことだが、それをおいそれと話すわけにもいかない。

 しかし、統括長に嘘を吐くのも憚られた。


「こちらに、やり残していることがいくつかあるんです」


 だから、敢えて言葉をぼやかしてそう答える。

 これなら嘘は言っていない。


「やり残したこと、か……」


 そんな俺の言葉を、統括長は噛み締めるように繰り返す。


「それは、今、ここでしか出来ないことなのかな?」

「はい」

「なるほど、そうか……」


 そして、また統括長は黙ってサイドカーに口を付ける。

 俺も思い出したように、残りのシンデレラを飲み干した。


「追加のお飲み物のご注文はございますか?」


 すると、音もなく俺の前にやって来たマスターが、そんなことを俺に聞いてくる。


「それじゃあ、シンデレラをもう一杯お願いします」

「かしこまりました」


 来たときと同様に、音もなく去っていくマスターを見送る。

 小さくため息を吐く俺に、統括長が言った。


「それは、君の昇進よりも大事なことなのかな?」


 問いかけるような、優しい言葉。

 そこに俺に対する心配や、思いやりが含まれていることは俺にも分かる。

 面倒な上司に悩まされて、一度は真剣に仕事を辞めることまで考えたのだ。

 その悩みの種であるダメ上司と離れる理由としては、恐らくこれ以上ないチャンスなのだろう。

 それは分かっているのだ。

 そしてこれは恐らく、統括長にそのことを相談した俺に対する、彼女の用意してくれた答えなのだと思う。


「もしも、君があの校舎の今後を心配して、あの話を断ろうとしているのなら――」

「そうじゃないんです。ああ、いや、それもあるんですけど……」


 俺の顔色をうかがいながら、統括長が言いかけた言葉を、俺は遮るように否定する。

 まぁ、否定した後でさらにそれを否定しているのでグダグダなのだが……


「校舎のこと、生徒達のことは勿論心配です。でも、それはきっと残った先生達がどうにかして下さいます。多分ですけど、その為に統括長が校舎にいらっしゃるようになったんですよね?」


 俺の言葉に、統括長は何も答えない。

 でも、その沈黙は肯定しているように感じられた。


「だから、あの話に首を縦に振れないのは、俺の個人的な事情です」


 ふと、統括長が嬉しそうにかすかに笑った気がした。

 見間違いの可能性もあるが。


「春までここで、一緒に頑張るって約束したやつがいるんです。俺はそいつを放り出して、ここを離れるわけにはいきません」


 こんなこと、きっと春日が聞いたら怒るだろう。

 自分との約束を言い訳にして、大事な仕事を断ったなんて…… アイツは絶対に許さないと思う。

 でも、俺はこの約束を無かったことには出来なかった。

 アイツとの約束は、俺にとってそれくらい大事なものだったから。


「そうか。それなら、まぁ…… 仕方がないな」

「え? 怒らないんですか? 統括長が用意してくれたチャンスを反故にしようとする俺を」


 あっさりと引き下がる統括長に、思わずそんなことを聞いてしまう。

 てっきり、説得されると思っていたのだが。


「そんな顔をして君がそう言うんだ。それならこちらは引き下がる他ないよ。この話は春まで延期するとするさ」

「え? 延期って……」

「君のその約束は、春までなんだろう? なら、それが済んでからにすれば良いだけだよ。もともと無理から進めようとしていた話だからね。正規のルートに戻せば、丁度春頃の開校になるってだけさ」


 あっさりとそんなことを言う統括長の言葉に、俺は驚いて言葉を失っていた。

 要するに統括長は、そんな無茶をして俺を黒桐室長から引き離してくれようとしていたと言うことだ。

 そして、そんな風に用意してくれたチャンスをふいにしようとした俺の為に、今度はさらに無茶をしてその話を引き伸ばそうとしてくれている。

 本当に迷惑かけっぱなしだ。


「すみません、色々していただいてるのに……」


 俺がそう言って頭を下げると、統括長は笑って俺の肩を叩く。


「いつも言ってるでしょう? それが私の仕事なんだよ。君は君のやりたいこととやるべきことを、精一杯やってくれればそれで良いよ」


 そう言うと、統括長は残りのサイドカーを一気に飲み干して、マスターにマティーニを注文していた。

 何というか、本当にカッコいい人だなと、今日統括長と話して改めて思った。

 こういう人の為になら、俺も身を粉にして働ける。

 もし、将来自分が人の上に立つことがあれば、そう言う上司になりたい。

 そう思った。



 それからしばらくの間、俺は統括長とくだらない雑談をしながら、シンデレラを何度かお代わりした。

 統括長は注文こそ変えながら、俺よりも早いペースでカクテルグラスを空けて行った。


「うぅ〜…… もう飲めません」

「……でしょうね」


 確か統括長は、そんなにお酒に強くないはずだ。

 それなのに物凄いペースでカクテルを飲み干していればこうなるのは必然だ……

 あまりに予想通りすぎる結果に、俺は失礼ながらやれやれとため息をこぼした。


「すみましぇん、冬ちゅきしぇんしぇい……」

「お気になさらないで下さい、新名さん」


 俺は酔い潰れる寸前の統括長にそう言ってから、マスターにタクシーを呼んで欲しいとお願いした。

 これは流石にタクシーに放り込んでおしまいと言うわけには行かないだろう。

 俺はスマホを取り出すと、少し迷ったから春日に電話をかけた。


「はい、もしもし? どしたの、センセ」


 数コールのうちに、耳元に春日の声が聞こえてくる。

 たったそれだけのことで、何だか安心してしまう自分に少し呆れる。


「悪いんだけど、帰るのが少し遅くなる。新名統括長とバーで話をしたたんだけど、統括長が飲み過ぎて潰れかけてるんだ。流石に一人では返せないから、家まで送迎して来るよ」

「あらら、了解。それじゃあ、センセが帰ってくるまで先に勉強しておくね」


 アッサリと春日の了解が取れて肩透かしを食らう。

 てっきり文句の一つも言われるのかと思っていたが……

 一体どういう風の吹き回しなのか。


「夕海さんから聞いてるよ。何か新名先生から大事な話があったんでしょ? まぁ、どんな話だったかは、後でちゃんと聞くからね」

「ははは、流石というか何というか…… 相変わらず大した情報網だな」

「……夕海さんも心配したたよ。ちゃんとフォローすること」

「了解した」


 なるほど。

 夏川先生には、きっと三浦課長から何か聞いたのだろう。

 直接俺が異動するかも知れないようなことは言わなかったのだろうが、それを想起させるような何かを、三浦課長が彼女に聞き取ったのかも知れない。

 夏川先生はその辺のアンテナがどうやら敏感なようなので、そこから何かを察したのだろう。

 そして、これは恐らく俺の想像だが、夏川先生は三浦課長を見送った後で、新名統括長にピックアップされたのをどこかで見ていたのだ。

 だから、俺が統括長と会って大事な話をしていたことが春日の耳まで届いたのだと思う。


「あ、そうだセンセ」

「なんだよ?」

「送り狼にはならないでね?」

「なるわけないだろ!」


 最後にそんなくだらないことを言って、春日は電話を切った。

 それから少しして、マスターが手配してくれたタクシーが店の前に着く。

 俺が会計を済ませようとすると、酔っ払って前後不覚になっているはずの統括長がむくりと顔を起こして、財布からカードを取り出しマスターに渡す。


「ここの支払いは私がするかりゃ」

「ありがとうございます。ご馳走様です」

「うん…… 任せて!」


 カードの暗証番号を入力して、カードの利用明細書を受け取ったところで、統括長はがくりと再びカウンターに突っ伏す。

 俺はそんな統括長を、失礼だとは分かっていたが所謂お姫様抱っこで、店の前に待たせていたタクシーに乗り込んだ。

 少し驚いた様子の運転手に、統括長の住所を伝えると、タクシーはゆっくりと走り出す。

 行き交う車のライトや、道の街頭、コンビニや商店の灯りが後ろにゆっくりと流れて行く。

 なんだか今日は本当に色々あった。

 本社に呼び出されて、三浦課長と食事に行って、校舎に戻って仕事をして、その後新名統括長とバーに行って……


「なんか、よく分からないけど忙しかったな……」


 そんな俺の言葉に、答える声はない。

 新名統括長は、俺の硬い膝を枕にしてぐっすりだ。

 少し前はあんなに格好良く見えたのに、今は何というか生徒のように愛らしい姿だった。


「この人は本当に、いろんな意味で凄いよな」

「それほどでもぉ〜」

「…………寝てるよな?」


 ……返事はない、ただの酔っ払いのようだ。

 そんなメッセージが俺の頭の中で勝手に再生される。


 試しに、俺は統括長の可愛い小ぶりな鼻を摘んでみる。

 すると少し苦しそうな顔をして、もぞもぞともがいた後起きることなくそのまま眠り続けた。

 どうやら相当お疲れの様子だ。


「この度は、本当に色々ご尽力いただき、誠にありがとうございました」


 もしかすると、流石にもう聞いていないのかも知れないが、俺なそう言って新名統括長に感謝を告げた。


「…………」

「返事はないってことは、本当に寝てるのかもな」


 この人の場合、普通にタヌキ寝入りもあるから怖いのだが、どうやらガチで寝たらしい。 


 それから俺は、タクシーで統括長を家に送った後、そのタクシーに乗って家まで帰ることにした。

 そこそこのお金はかかったが、まぁそれは必要経費として割り切ることにする。



 ちなみに、今日のことを掻い摘んだ形で説明を受けた春日は、


「まったく、本当にしょうがないなぁセンセは」


 と嬉しそうに笑って呆れていた。

 てっきり、怒るものとばかり思っていたので、俺はまた肩透かしを食らったような気になった。

 すっかり分かった気になっていたが、どうやら俺はまだコイツのことを、全然分かっていなかったようだ。



 続く――

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