第37話 34th lesson 俺の周りにはこう言う人の話を聞かない偉い人ばっかりだ



 窓の外を流れるように見える景色をボーッと眺める。

 小刻みに揺れる足元。

 ヘッドホンから聞こえる音楽は、正直少し流行から遅れたポップナンバーだ。

 電車に乗ること自体が久しぶりすぎて、どうにも落ち着かない。

 同じ車両の乗客は、みんな俺と同じようにマスクをしている。

 俺が頻繁に電車に乗っていた頃は、みんなマスクなんてしていなかったのにな……

 まぁ、もう何年も前の話なので、当然なのだが。


「コホンッ」


 誰かが、小さな咳をすると、周囲の乗客の何人かが迷惑そうな顔をしてその人を眺めた。本当に大きく様変わりしてしまったものだ。


『まもなく横浜…… 横浜です』


 車内アナウンスを聞いて、俺はスマホをポケットにしまって降車ドアを確認する。

 横浜に来るのも久しぶりだ。

 前に来たのは、全社会議の時だから恐らく3ヶ月ぶりになる。

 職場が徒歩圏内なので、本社に用でもなければこんな風に電車に乗ることもない。

 電車は緩やかに減速してゆっくりと駅が近づいて来た。

 プラットホームには、大勢の電車を待つ人の姿があった。

 そのまま電車は停車して、車内アナウンスの後に降車ドアが開く。

 俺は他の乗客と共に押し出されるように電車を降りて、再びスマホを取り出し登録してあった予定を確認する。

 画面には『本社 人材育成課から呼び出し』とある。

 用件については、伝えられていない。

 まぁ、うちの会社ではよくあることだった。


「それにしても、何の用だろうな?」


 スマホをポケットに押し込んで俺は首を傾げた。

 何かお叱りを受けるようなことについては…… 心当たりが一杯あった。

 基本的に無茶苦茶をする上司の下についていると、上の覚えが悪いことの一つや二つはやっている。

 果たして今回は、どの件についてお叱りを受けるのだろうか。


「ま、まぁ、良い話かも知らないしな……」


 本社に呼び出されて、良い話をされた記憶は無い。

 だが、用件がハッキリする前からうんざりすることはないだろう。

 どうせお叱りを受ければ嫌でもそうなるんだからな。

 なんだか前向きなんだか後ろ向きなんだか分からないことを考えて、俺は改札を出て本社に向かった。



 目的の建物の前までたどり着いて、高いビルを見上げる。

 その向こうには、綺麗に晴れ渡った青空。

 そこで憎らしいほど燦々と、太陽が輝いている。

 全く、人の気も知らないで呑気なものだ。

 なんの罪もない太陽に、心の中で毒付いてから、俺は本社のエントランスに足を踏み入れた。


「おや? 冬月先生。お疲れ様です」

「ああ、ご無沙汰してます、飯塚さん」


 受付の飯塚さんが、俺の姿を見つけてまるで珍しいものでも見るかのような顔をした。

 長い髪を後ろでまとめた所謂ポニーテールがよく似合う、男性社員から人気を集める美人受付嬢というやつだ。

 飯塚さんはそんな整った顔を崩して少しいやらしい顔をすると、俺に耳打ちするようなジェスチャーをした。


「こんな何もない日に本社に呼び出しなんて、何やらかしたんですか?」

「あはは、俺もそれを考えてゲンナリしてたんですから、言わないで下さいよ……」

「ごめんなさい…… でも久しぶりですね。3ヶ月ぶりくらいですか?」

「そうですね。多分そのくらいかと…… 飯塚さんもお元気そうで何よりです」

「元気ですよ。それくらいしか取り柄ないですから私」

「そんなことはないと思いますけど…… っと、そろそろ行かないと」


 飯塚さんとダラダラ話していたい気持ちで一杯だが、彼女の背後の壁にかけられた時計を見て話を切り上げる。


「人材育成課ですよね。8階で三浦課長がお待ちです」

「……俺を呼び出したの課長なんですか?」

「はい、そう伺ってますけど……」

「参ったな、マジで嫌な予感しかしないんですけど……」

「あははは、まぁ最悪、骨は拾ってあげますよ」

「出来れば骨になる前に助けて欲しいですけどね」


 冗談を交わしながら、俺は飯塚さんに会釈をしてエレベーターに社員証をかざす。

 すると自動で扉が開き、勝手に行き先を8階に設定してくれた。

 本当にビックリするくらいのハイテクっぷりだ。

 オンボロのエレベーターを使っているうちの校舎とは大違いである。

 音もなく静かに扉が閉まり、特有のGを感じさせることもなくあっという間に地上8階に俺を運んでくれるエレベーター。

 目的の階に到着したことを告げる控えめなアナウンスの後、やはり音もなくゆっくりと扉が開くと、そこに三浦課長が立っていた。


「うわっ! びっくりした……」

「やぁ、冬月君。わざわざ悪いね」

「すいません、変な声を出してしまって……」

「はははっ、いや気にするな。俺も君を驚かせようとしてこんなことをしたからね」


 まさか、扉が開いてすぐに呼びだしの相手がいるとは思わず、失礼ながら声を上げてしまった。

 それを謝る俺に、三浦課長は笑いながら俺の背中をバンバン叩く。

 イタズラ好きなのは相変わらずだ。


「俺を驚かせようって……」


 失礼だとは分かっているが、溢れるため息を俺は止められない。


「そんなの受付で俺を呼び出したのが三浦さんだって聞いたときに、十分驚いてますよ」

「そうか? まぁ、そうか。『人材育成課課長』からの呼び出しなんてそうそうないもんな」


 一度首を傾げてからそう言って納得すると、三浦課長はまた俺の背中をバシバシ叩いて笑った。


「まぁ、立ち話もなんだし、応接室にでも行くか」

「応接室ってそんな…… 俺なんて面談室で十分ですよ?」

「良いじゃないか。普段あまり使われないから、たまには使ってやらないと可哀想だろ?」

「可哀想って…… まぁいいですけど」


 何やら訳のわからない理屈で、俺は応接室のフカフカのソファーに案内される。

 普段座ることのない高級感漂うソファーの座り心地が、俺の落ち着きのなさに拍車をかけた。

 本当に俺は、これからどんな話をされるのだろうか?

 言いようのない不安が胸を満たす中、三浦課長は俺の前に座って話を切り出した。



「え? それじゃあ、俺が何か問題を起こしたとかじゃないんですか?」

「ああ。なんだよ? 心当たりでもあるのか?」

「あはは…… ないと言ったら嘘になりますね」

「……はぁ〜、そこは無いって言ってくれよ」


 俺の発言を受けて、三浦課長は苦笑いを浮かべる。


「けどまぁ、そんなお前だから俺は信頼してるんだけどな」

「それは有難いですけど……」


 何故だか、三浦課長は俺が社員になる前、バイトの頃から俺のことをこんな風に信頼してくれていた。

 彼に言わせると、「お前以上に馬鹿正直で真面目な奴はいないからな」と言うことらしい。


「それで? どうだ、この話受けてくれないか?」

「うーん…… そうですねぇ」


 三浦課長が俺を本社に呼びつけた用件。

 それはこれまで出店実績のない県に新しく作る教室の新室長として、異動してくれないかと言う話だった。


「お前は社員としての歴は短いが、バイト講師としてあの小鳥遊を長年支え続け、今も黒桐の力不足も補って教室運営を助けている。そんなお前なら、新規開校も問題なくこなしてくれると思ってるんだが……」


 正直、勿体ない話だった。

 社員としての経験はまだまだ浅い俺に、まさかこんなチャンスが巡ってくるとは思ってもいなかった。

 挑戦したい。そんな気持ちがないわけではない。

 でも、


「開校の時期はいつですか?」

「冬期講習の開校を目指して動きを取ろうと思ってるよ」

「冬期ですか……」


 頭をよぎったのは、春日の顔だった。

 冬期講習からとなると、アイツの勉強を受験まで見てやらなくなるかも知れない。


「有難いお話ですが――」

「あっと、……すぐに答えは出さなくていい。少し考えてみてくれないか?」


 俺が断ろうとすると、三浦課長はそれを遮るように言葉を付け足した。


「別に急ぎの話じゃないんだ。冬期講習まだまだあるしな」


 そんな三浦課長の不自然な態度は気になったが、そうまで言われて無理に断ることも出来ない。


「分かりました。考えてみます」


 俺がそう言うと、三浦課長は苦笑いを浮かべて頭をかいた。


「ああ、できれば前向きに考えてくれると助かる」


 そんな三浦課長の言葉に、俺は「はい」とも「いいえ」とも答えずに、課長と同じく苦笑いを浮かべる。


「もしかしてこの話、何か裏がありますか?」

「ははは、まぁな。でも、それは聞かずに、まずは一度よく考えてみてくれ。頼む」


 なんとなくだが、この話に「NO」と言う選択肢はなさそうだと言う雰囲気は感じ取りつつ、俺は三浦課長「わかりました」と答えた後で、こう付け加えた。


「前向きに検討させていただきます」

「おいおい、それはよく政治家が使う前向きに考えないときの常套句じゃないか?」

「いやいや、俺は政治家じゃないですから。言葉通りの意味かも知れませんよ?」

「……ったく、本当にお前は馬鹿正直で真面目な奴だよ」

「それは、褒め言葉として受け取って置きますね」

「ああ、そうしてくれ。まぁ、話はそれだけだ。本社まで呼びつけて悪かったな」


 そう言って、豪華な座り心地のソファーから立ち上がった三浦課長は、大きく伸びをしてから俺の方を振り向いた。


「さて、横浜くんだりまで来てもらったからな。昼飯くらいは奢らせてくれ」

「あはは、それじゃあお言葉に甘えて……」

「おお! そうこなくっちゃな!」


 俺が昼食のお誘いに素直に応じると、三浦課長は嬉しそうに笑う。


「それじゃあ何が食いたい? 焼肉か? 寿司か?」

「それじゃあ、ぎゅうーー」

「牛丼は却下だ。そうだな、お前が牛肉を食べたいのなら、折角だ。横浜名物の牛鍋にするとするか」


 遠慮して安く済ませようとしたら、三浦課長の急激な舵で、思いの外豪華な昼食になってしまう。

 まぁ、奢ってくれると言う人に遠慮するのは失礼だとはよく聞くが……


「行きつけの店があるからな。そこにしよう」


 そう言って手際よくタクシーを手配した三浦課長に連れられて、俺は馬車道にある高級牛鍋店に連れて行かれた。

 それはもう美味しい牛鍋に舌鼓を打ったのは、言うまでもないことだろう。

 本来なら出勤時刻を余裕で過ぎていたが、校舎まで三浦課長が送ってくれた上に、「幹部巡回だ」と言って教室までやって来て俺の遅刻を不問にしてくれた。

 勿論、黒桐室長は面白くなさそうな顔をしていたが……



 結局、その日は終業まで三浦課長は校舎にいた。

 ただ、教室の講師のレベルの高さを絶賛されて、黒桐室長はすっかり機嫌を直してくれていた。

 なんというか、そう言うぬかりないところが、本当に三浦課長らしいと思った。


「それじゃあ、あの話。よろしく頼むよ」

「はい。前向きに――」

「検討してくれ」


 校舎の前に呼びつけたタクシーに乗り込みながら、三浦課長はそう言って俺に向かって右手を上げて颯爽と去って行った。


「はぁ…… なんか、嵐のような人だったな。いつものことだけどさ」


 誰に言うでもない俺の言葉。


「まぁ、あの人はいつも忙しいからね」


 その言葉に返事をしたのは、新名統括長だった。


「新名さん、いつからそこに?」


 音もなく現れた新名統括長に、俺は内心驚きながら平静を装ってそう問いかける。


「勿論、今しがただよ。駅前でタクシーを停めて、ここに来たからね」

「それってもしかして?」

「ん? そうだよ。三浦課長が呼んだタクシーだ。迎車のついでに私を運んで貰ったんだ」

「あはは、そんなことできるんですね」

「出来るとも。タクシーはお金さえ払えば、如何様にも人を運んでくれる素晴らしいサービスだからね」


 いや、それは違うと思う。

 思うのだが……

 この人がこうしてしたり顔でそう言うと、まるでそれが当然のように聞こえてくるから不思議で仕方がない。


「それで? 今日は校舎に何の御用でしょうか?」

「勿論、校舎じゃなく、君に用があって来たんだよ。分かってるんでしょ?」


 なんとなく、そんな気はしていた。

 だから、そう言われても特に驚くことはなかった。


「いや、全然分かってないんですが……」


 俺がそう言って苦笑いを浮かべると、新名統括長はニコリと笑う。


「まぁ、君がそう言うならそれで良いけどさ」


 そして、新名統括長は俺に何か言うこともなく、トコトコと歩き出す。

 その背中が俺に、ついて来いと言っている。俺に断る選択肢は無いのだろう。


「はぁ…… あまり遅くまでは付き合えませんからね」

「勿論、すぐに済むから安心したまえよ」


 こちらを振り返ることもなく、新名統括長は夜空を見上げながら俺の先を歩いていく。

 この道の先には、駅から少し離れた場所にある、小洒落たバーがあったはずだ。

 珍しく迷わないところを見ると、一度店までの道を確認していたのだろう。


「ったく。俺の周りにはこう言う人の話を聞かない偉い人ばっかりだな」


 俺は、ため息を一つこぼしてから、春日に「少し遅くなる」と連絡して、心なしか楽しそうに見える新名統括長の背中を追いかけた。



 続く――

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