第32話 29th lesson そんな何とも言えない気まずさを誤魔化すように、俺と春日はいつものようにダイニングで勉強会を始めるのだった。



「おはよ、センセ! 今日の朝ご飯は、焼き鮭とシジミのおみそ汁だよ。和風に魚介で攻めてみました!」

「いいな、和風。 ……そういや、朝食で和風と洋風以外ってあんまりイメージないけど、それ以外ってお前のレパートリーにあったりするのか?」

「ん? ないことも無いけど…… ちなみにセンセは何風がお好みなの? 中華風? タイ風? インド風?」

「いや、そのイメージがないんだって……」

「なるほどなるほど。 それならアタシがとっておきを披露してあげましょう! 明日の朝はこうご期待だよ」

「あはは…… 楽しみにしとくよ」


 朝っぱらから妙なハイテンションでやり取りをする俺と春日。

 あの夜から、もう数日。

 こんな感じでギクシャクした雰囲気が続いている。


「お、やっぱり美味いな、春日の作った朝食は」

「ふっふっふっ! そんなの当然だし、ウケる」


 結局、俺はあの晩春日と一緒にいた男性のことを聞けないまま数日が経った。

 なんというか、いくらこうして一緒に暮らしているとはいえ、そういうプライバシーに踏み込むのはやはりマナー違反な気がしたのだ。


 そして、春日もまた、どこか様子がおかしかった。

 

「あのさ、センセ……」

「ん? どした?」

「あ、えーと…… あ、あはは、やっぱなんでもない」

「? そうか」


 彼女の心持ちは全く分からないが、何だかこちらの様子を伺うような視線を感じる気がする。

 もしかして、俺はちゃんと隠れたつもりだったが、春日には見られていたのだろうか。

 彼女はそれを俺に確かめようとして、それを躊躇っている……

 なんてのは、流石に考えすぎだな。

 

「あ、そだ。センセ、今日はちょっとアタシも帰りが遅くなるかも? 友達にご飯誘われてさ…… 夕飯は温めれば食べられるものを用意して置くから――」

「ん? いや、そういうことなら俺は俺で夕飯はなんとかするから心配するな。お前もここのところかなり頑張って勉強してくれてるしな…… たまには羽を伸ばすのも必要だろ。俺の夕飯のことなんて気にせず楽しんで来い」

「そう? ……うん、分かったありがと。まぁ、オールとかそういうのはしないから安心して」

「当然だろ。それはお前の身を預かる保護者として、流石に許可できないからな」


 一瞬、脳裏にあの男性の姿がよぎった。

 春日も年頃の女の子だ。

 もしも彼女の恋人だったなら、その…… 一晩一緒にいたいと思うかも知れない。

 そう考えて、俺はどうするのが正しいのだろうかと首を捻った。

 きっと、俺が春日くらいの頃に恋人がいたのなら、時間の許す限り一緒にいたいと思っただろう。

 春日もそう考えているのかも知れない。

 確かに俺は、円華さんから春日のことを負かされた保護者代理ではあるが、そんな春日の青春を邪魔する権利はない。

 それに、なんとなくだが円華さんなら、春日が彼氏と一晩過ごすというなら、許可しそうな気もした。


「ただ、あれだ…… なにかよっぽどどうしようもない理由があるなら別に朝帰りでも――」

「ないない! そんなよっぽどの理由とかないから安心して!」


 俺の言葉を遮るように、春日は苦笑いを浮かべながらそう言った。


「なんかセンセ誤解してるみたいだから言っておくけど、今日一緒にご飯行くのは女の子だから安心して」


 俺の方を見て、ひらひらと手を振りながら、春日は少し笑ってそう続けた。


「てか、センセ。アタシに彼氏なんているわけないじゃん? 彼氏持ちなのに一応男のセンセの家に居候とか、そんなリスキーなこと、流石にアタシもしませんって」

「そ、そうか……」


 春日のその言葉は、嘘には聞こえなかった。

 短くない彼女との関係のお陰か、俺にも彼女が嘘をついているのかくらいは分かるようになって来ている。


「あぁ~…… センセ今、ほっとしたでしょ? なになに? アタシに彼氏がいなくてホッとするとか、もしかして、やっとアタシの魅力に気付いてくれたの?」

「な、そ、そんな訳あるか!」


 春日に言われた通りだったが、俺は慌てて否定した。

 春日はここぞとばかりにからかおうとしてきたが、幸い彼女の登校時間が迫って来て、慌てるようにして玄関を飛び出して行った。


「……はぁ、何やってんだ俺は」


 玄関を出て行った春日が、勢いよく階段を駆け下りていく音を聞きながら、俺は首を振る。

 「彼氏がいない」と聞いて、俺はほっと胸を撫でおろしていたのだ。

 情けないくらいに、安心していたのだ。


「ははは……」


 そんな自分に呆れて、思わず自嘲の笑みがこぼれる。

 心のもやもやを吐く息と共に吹き飛ばし、目の前に並ぶ朝食に、俺は思い出したように箸を伸ばす。


「うまっ!?」


 タケノコのしょうゆ漬けだっただろうか?

 予想以上に美味くて、俺は思わず例の『炎の柱』のように馬鹿みたいに大きな声でその感想を口にしていた。


『いい加減、認めたらどうだ?』


 冷静な俺が問いかけるようにそう言った気がした。


「…………」


 俺は何も言わずに首をぶんぶんと左右に振って、その頭を過った言葉をかき消す。


「冷めちまう前に、食っちゃわないとな」


 目の前の朝食を勢いよく平らげて、流しの食器達を洗ってしまうことにする。

 カチャカチャという食器を洗う音だけが、俺一人が残った家に響いていた。


「っつ……」


 不意に、包丁の刃先で指を切ってしまい、痛みで俺は我に返った。


「ははは…… 本当に、何やってんだろうな、俺」


 指先から伝う赤い血をなめとって、おもわず天井を見上げるのだった。



 その日、俺は信じられないような間抜けなミスを連発した。


 タイムテーブルを見間違え生徒を混乱させ、担当学年の教室で生徒の名前を間違え、数学の問題を解説する際に小学生でもしないような計算ミスを連発した。

 結果、教室に通う生徒達はおろか、夏川先生を含めた同僚の先生達に心配される始末だ。


「大丈夫ですか、冬月先生? もしかしてまた体調が思わしくないんですか?」


 黒桐室長にここまで心配されるのだから、よっぽどだったのだろう。

 俺自身も、こんな自分に驚いているほどだ。


「ああいえ、体調は…… その、多分大丈夫です」

「……『多分大丈夫』って…… はぁ~、いえ、僕の目から見ても大丈夫には見えません。今日はもういいですから上がって下さい。この前みたいに倒れられても困りますからね」


 呆れたような顔をして、黒桐室長は俺にそう言って手を払うようなジェスチャーをした。


「え? で、でも……」

「いいから帰って寝て下さい。あんなミスを繰り返されても困りますし…… 教室のことは、僕が適当にやっておきますから」


 黒桐室長の珍しい対応に、俺を含めた教室のスタッフ全員が驚いていた。

 でも、すぐにそんな黒桐室長に賛同する様に、夏川先生や下田先生も続けて口を開く。


「私の目から見ても、冬月先生はお疲れのように見えます。ご無理をなさって黒桐先生が仰るように倒れられては心配ですし、今日は私達に任せて早く帰って下さい」

「色々疲れが溜まってるんじゃないですか? 無理してもいいことなんて何もないですし、何より冬月先生に抜けられたら教室は回らなくなりますからね。大人しく帰って、とっとと布団に入って下さい」


 教室のスタッフ全員が、俺の体調を心配してくれているのが伝わって来て、俺は少し申し訳ない気持ちになりながら、その言葉に甘えて、いつもよりかなり早く校舎を後にすることになった。


「それでは、すみませんが本日はお先に失礼します」


 夏川先生達に見送られながら、俺はペコリと頭を下げて教室を出たのだった。



 駅前のロータリーを抜けて、家に続く坂道を登ろうとしたところで、俺は今朝の春日の話を思い出す。


「おっと、そうだった。今日は夕食を自分でどうにかするって言ったんだっけか?」


 俺はそこではたと立ち止まり、商店街の方に目をやった。

 今までであれば、家に帰って適当な食材をそのまま夕飯として食べていただろう。

 でも、ここ最近は春日の作った美味しい夕飯を食べていたので、流石にそれでは満足できそうになかった。

 しかし、なんとなく食事を作る元気もない。


「かと言って、何か買って帰るって気分にもならないんだよな……」


 もうすっかり、春日の料理に胃袋を掌握されていることを自覚して、俺はまた苦笑いを浮かべる。


「もう、アイツの夕飯以外食べたいと思えなくなってるじゃないか…… どうしてくれようか……」


 俺は悩んだ末にオリジナル弁当の手作り弁当で妥協することを決め、店まで戻って、エビとブロッコリーと卵のサラダとのり弁当を買った。


 目の前に広がる星空。

 あの夜、それを背負って俺に手を差し出した春日の姿と、その時春日が口にした言葉をふと思い出す。


『センセはそう言うの苦手だもんね…… ならさ、アタシがセンセを甘やかしてあげるよ。甘やかし方とか、甘え方とか、アタシが教えてあげる。だから、一緒に少しずつ覚えて行かない? 勉強をアタシに教えてくれるお礼に…… ね』


 自然と、自分の口から笑みがこぼれた。


「ははは…… もうすっかり甘やかされてるじゃないか」


 あのとき、俺は気が付いたら彼女の手を取っていた。

 けれど、よくよく考えればそんなことはなかった。

 俺は《《自分の意志で彼女の差し出した手を掴んだ》のだ。

 そのことを思い出して、俺はまた苦笑いを浮かべた。


「本当に参ったな…… もういい加減、認めるしかないじゃないか」


 そして、そのまま星空を見上げて、俺はその場に立ち尽くす。


 この気持ちが、『何なのか』はまだ結論付けることはしない。

 それは今の俺に出来る精一杯の抵抗だった。

 でも、これだけはもう認めるしかない。


「あいつは俺にとって、であることは、どうやら間違いないらしい……」


 深く、深くため息をついて、俺は自分の胸にため込んでいた様々な感情を、その夜空に吐き出してしまおうと思った。

 明日から、またいつも通りに春日と過ごせるように。

 自分の気持ちを一度リセットしてしまうつもりで、俺は目一杯息を吐き出した。


「ああ、くそ…… 色々整理がつかないな…… でも、まぁ、何だか少しスッキリしたな」


 気が付くと、見上げた夜空に浮かぶ星達が、何座なのかがある程度わかるくらいには頭がスッキリして来ていた。


「てか、それが分からないくらいに俺の頭が混乱してたってことか…… そりゃ、あんなミスをするわけだよな、ははは……」


 なんだか、笑けてきた。

 そして、同時に色々と覚悟が決まった気がした。

 ……ここで、ハッキリと『覚悟が決まった』と言えない辺りが、俺の情けなさの象徴なんだが。


「あいつがちゃんと志望校に受かったら、そのときはちゃんとしよう」


 誰に言うでもなく、自分に確認する様に言ったその言葉は、そのまま夜空に吸い込まれて行った。


「よし、帰ってこの弁当食って少し横になるか。春日が帰って来たら勉強をするかも知れないしな……」


 そうと決まれば。

 俺は坂を一気に駆け上がり、自宅に続く階段を登って家へと飛び込むと、勢いよく買って来た弁当を口にかき込んだ。


 そして、そのままの勢いで俺は脱衣所で服を脱ぎ捨て、湯船に飛び込む。


「って、つっめてぇ!! ……当たり前か、風呂沸かしてないもんな。俺はもしかして、バカなのか? ……………バカなんだろうな」


 冷たい水風呂に身体を震わせた俺は、シャワーだけを済ませて風呂から上がると自室の布団に飛び込んでタオルケットを頭からかぶる。

 すると、そのままじんわりと俺の頭に眠気が広がり、ゆっくりと眠りに落ちた。



「……ンセ…… おーい、センセ、大丈夫?」

「ん…… ううん……」


 誰かに肩をゆすられた気がして意識を取り戻す。


「大丈夫? まだ眠いなら、そのまま寝ててもいいけど……」


 寝ぼけまなこに飛び込んで来たのは、春日のドアップの顔だった。


「ん? ああ、春日か…… おかえり」


 枕元のスマホに手を伸ばして、時間を確認すると23時を回ってすぐだった。

 俺が家に戻って来てから、多分一時間程度だろう。


「大丈夫? ぐっすり眠ってたみたいだけど。 もしかして、体調悪くて早く帰って来たとか?」


 心配そうに俺の顔を覗き込む春日に、俺はまだ寝ぼけた頭で返事をする。


「いや、そんなことは無かったんだけど、ちょっと色々考えてて校舎で失敗してな。

 黒桐室長が心配して『すぐ帰って寝ろ』って言うから…… せっかくだからその言葉に甘えて、早々に寝かせて貰ったんだよ」

「そ、そうなの? 体調は大丈夫なの?」

「ああ、体調は問題ないから大丈夫だ」

「そか、良かった…… なんか爆睡だったから、流石に心配したよ」

「あはは、すまん」


 俺の顔を見て、安心したような顔をして笑う春日。

 その顔を見て、俺は思わず思っていたことを口走ってしまった。


「まったく、そんな可愛い顔をあんまり近づけるなよな。思わずキスとかしちまいそうになるだろうが……」

「ふぇっ!?」


 俺の不用意な言葉を聞いて、春日の顔が一気に赤くなっていく。


「せ、センセ、何言ってるのよ!?」

「ん? 俺今何言ったっけ?」


 俺は俺で、自分が口にした言葉を思い出して、顔が赤くなるのを感じた。

 寝ぼけていたとはいえ、俺は何を言っているのだろう。


 しかし、口から出てしまった言葉はもう取り消すことは出来ない。


「すまん…… ちょっと寝ぼけてろくでもないことを言っちまった。悪いが忘れてくれ」

「う、うん…… その、聞かなかったことにしとく」

「悪い……」


 お互い赤い顔をしたまま、何とも言えない沈黙が俺の部屋に広がった。


「勉強するか……」

「う、うん。そうだね」


 そんな何とも言えない気まずさを誤魔化すように、俺と春日はいつものようにダイニングで勉強会を始めるのだった。



 続く――。

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