第30話 28th lesson 俺は胸に何とも言えないもやもやした感情を抱えたまま、珍しく早く出ることが出来た校舎に戻るのだった。
「キモッ! え? なにやってんのセンセ。パソコンに一心不乱に「0」と「1」を入力して…… コンピュータ言語ってやつなの?」
朝、昨晩春日に解かせてみた志望校の過去問の丸付け結果をパソコンに入力して分析しようとしていたら、部屋を訪れた春日にそんな言葉を贈られた。
正答率や点数、諸々の分析を考えると、正答に「1」を、誤答に「0」を入力してExcel化してしまうのが色々楽なのだ。
なので、塾の生徒達の模試結果やテスト結果もこの方法で管理している。
慣れているので、かなり高速で入力が出来るようになったのだが、その光景を見られると大抵この『気持ち悪い』という反応を頂くのだ。
まぁ、高速でタイピングしているので何を入力しているのかと画面を見たら、恐ろしい速度で「0」と「1」が淡々と入力されて行く様は確かに気持ち悪いと思うが……
「昨日、お前が解いた問題の分析をしようとしているんだよ。〇が「1」、×が「0」って入力しておくと、平均出すだけでその系統の問題の正答率出せるし、 各問題の得点を掛け算する様に関数噛ませれば得点も自動で出せるし、他にも色々分析しやすいんだ」
「へぇ~…… 地味で面倒臭いことするんだね」
「あはは……」
俺の説明を聞いて、春日はその内容を半分も分かっていないだろう顔をする。
「アタシの過去問の結果を色々見てくれようとしてくれてるのに、地味で面倒臭いって言うのは何か申し訳ないけどさ……」
「いや、春日の言う通りやってることは地味で面倒臭いことだからな。別に申し訳なく思う必要はないさ」
そんな会話をしながらも、俺は急いで春日の答案の正誤をExcelのシートに入力していく。
「よし、入力終了っと…… 分析とかは、また帰って来てからでいいか。うし、待たせて悪かったな。もう行くから食卓で待っててくれ」
俺はデータを保存したことを確認してから、パソコンをスリープモードに切り替えて椅子から立ち上がる。
「俺は顔を洗ってから行くからさ」
「はぁ~い。それじゃあ、スープを温めとくね」
そう言ってキッチンへと駆け出す春日の胸元に、昨晩俺がプレゼントしたネックレスが見えた。
どうやら、早速身に付けてくれているらしい。
気に入ってくれていてありがたい限りだが、それが自分が贈ったものだと考えるとどうにも気恥ずかしかった。
そんな雑念にまみれた頭をリフレッシュする為にも、俺は洗面所に行って冷たい水で顔をじゃぶじゃぶと洗う。
「うっし、今日もお仕事頑張りますか」
俺は濡れた顔をタオルで拭ってから、気合を入れて春日の待つダイニングへと向かった。
「昨日は大丈夫でした?」
教室に出勤してきた夏川先生は、俺の顔を見るなりそんなことを聞いてきた。
「え? ええ、特に何も問題は起きませんでしたよ」
「そうですか。なら良かったです」
「……春日から何か聞いてないんですか?」
「へ? はい。特に何も…… 何かあったんですか?」
てっきり、俺が春日にプレゼントをしたこと辺りは、夏川先生の耳にも入っているものだと思っていたのが……
どうやら、何でもかんでも情報を共有しているというわけでもないようだ。
「いや、特に何かあったわけじゃないです。ただ、夏川先生は春日と仲がいいし、よくやり取りもしているようなので、俺なんかに聞かなくても、春日のことはわかるんじゃないかと思って」
「あはは、確かに私と瞳ちゃんは仲はいいですけど。何から何まで全部教え合ってはいないですよ。昨日の夜は特に連絡はなかったですし…… ただ、冬月先生が新名先生のことを瞳ちゃんに話さないわけないですし…… 瞳ちゃんは何も言ってなかったですけど、実は何かあったのかなって思って」
なるほど。
昨晩のことは、春日は夏川先生には伝えていないらしい。
それがどういった意図なのかは俺には分かりかねるが……
そして、夏川先生に関しては、俺と春日のことを純粋に心配してくれているのだろう。
一瞬、昨晩のことを夏川先生に伝えるべきか否かを逡巡したが、春日が伝えていないことを俺が伝えるのもどうかと思ったので伏せておくことにした。
「冬月先生は新名先生のことを話したんですよね?」
「ん? ええ、話しましたよ。隠すようなことでもないですしね」
「……ってことは、新名先生のことについては、瞳ちゃん的にはとりあえずは様子見的な判断なんですかね?」
「それは俺に聞かれても、返答に困るんですけど……」
夏川先生は口元に手を当てて、何かを考え込む様にしながら講師控室に消えて行く。
どうやら最後の一言は、彼女の独り言だったらしい。
そんな彼女の背中を見送っていると、普段の俺よりも盛大に黒桐室長が溜息をこぼした。
「……どうしたんですか? 黒桐室長らしくないですね。何かあったんですか?」
なんとなく、その溜息から『愚痴を聞いて欲しい』的なニュアンスを感じた俺は、そんな言葉を黒桐室長にかける。
まぁ、もしもそれが俺の勘違いだった場合は、黒桐室長から「いえ、特に何もありません」と返って来るだけだ。
「『何か』って、そんなの新名統括長のことですよ。人を送って貰えるって言うから喜んだのに、補充される人員が彼女だなんて…… そんなの、上司に常に監視されながら仕事をするようなものじゃないですか。もう、想像しただけでも面倒臭いですよ」
「あはは…… 心中お察しします」
帰って来たのは、ある意味予想通りの内容だった。
「あの人は、自分のやり方が正しいって思ってるから、それをこっちに問答無用で押し付けて来るんですよね…… 各教室には、その教室の特徴があって然るべきなのに、その特徴にメスを入れて、『改善しましょう』なんて言ってくるので大変ですよ。これまでのうちの校舎のやり方が新名統括長によって矯正されて行くと思うと…… 胃が痛くなってしまいます」
まとめると、『好き勝手出来た自分の天下が脅かされそうで困っている』というところだろう。
「大変ですね…… 色々新名統括長に寄せた形に変更しなきゃでしょうし。でも、今までのやり方が正しかったかどうかを確認するいい機会だと思って、色々見つめ直した上で改善して行ったらいいんじゃないですか?」
ぐったりする黒桐室長に、そんな気休めのような言葉をかけていると、ちらほらと生徒達が塾にやって来る時間になっていた。
「生徒がき始めましたので、俺は出迎えの為に外に出ますね」
「はい。あ、マスクの着用は忘れないでください」
「了解です。では、外に行ってきます」
俺は、カウンターの引き出しから塾名の印字された腕章を取り出して、腕に付けてから階段を下って生徒の出迎えに出る。
この時間に来るのは塾が大好きな小学生たちなので、俺は小学生用のテンションに気持ちを切り替えて元気いっぱいで生徒の出迎えをする。
「あ、冬月センセじゃん! 久しぶり! 最近はすっかり有名人だね!」
やって来る小学生のノリに合わせてバカなやり取りをしていると、そんな俺に声をかけてくる高校生がいた。
「ん? ああ、篠崎か。その節はお父さんに大変お世話になったよ」
「中学生を助けるために不良を退治して、その不良たちを改心させるとか…… 漫画とかアニメのキャラなの? って感じでウケるって、卒業生のみんなが言ってたよ」
「確かにお前の言うようなことはしたが、別にそんなたいそうなことはしてないよ。悪事を働く高校生を注意して、それをきっかけにその子達が改心してくれただけだ」
階段を上がっていく小学生達を見送りながら、俺は商店街の文房具屋さんの娘で、この塾の卒業生でもある
春日といい、この篠崎といい、俺のことを『ウケる』と言って笑うのは、生徒としてこの塾で教えていた頃のままだ。
「みんなも、久々にセンセに会いたいって言ってたよ? 今度バイト帰りに校舎に寄ろうかって話も出てるし…… あれ? 今って誰が校舎にいるんだっけ?」
「お前が生徒だった頃を知ってるのは、俺と、室長になった黒桐先生くらいだよ。ああ、後はもう少し先だけど、夜の時間だと新名先生もいるようになるかな?」
「えぇっ!? 嘘! 新名センセとかレアキャラじゃん! それは是非みんなで遊びに行かなきゃ!」
新名統括長の名前を聞いてテンションを上げている篠崎の言葉を遮るように教室からチャイムの音が聞こえて来た。
「ぬ、五分前の予鈴だ…… 小学生の授業があるから、俺はそろそろ行くぞ?」
「はぁ~い…… 何人かに声かけて近々校舎に遊びに行くから! 新名センセっていつから校舎にいるの?」
「ん? えーと、来月からだな」
「りょー! それじゃ、またねセンセ。暇があったらうちのお店に顔出してよ。最近は私も家の手伝い兼バイトで店番してること多いから」
「分かった分かった。来るときは、あんまり早く来るなよ? 生徒達がまだいる時だと相手してやれないからさ」
「はぁーい!」
間延びした声でそう言って、篠崎は俺に手を振りながら去って行く。
「うし、それじゃあ授業を頑張りますか!」
そんな篠崎の背中を見送ってから、俺は階段を駆け上がって小学生の待つ教室に飛び込む。
楽しそうな顔をした小学生達が、俺の登場で少しだけがっかりする。
「せんせぇ~、宿題わすれた~」
「はいはい、そしたら残って一緒に宿題やろうな!」
「えぇ~…… うん、わかったぁ~」
塾に来て、先生や友達と会って話すのは楽しいが、勉強は嫌だなという顔をしてそういう生徒達。
小学生なんて、みんなそんなものだ。
親の意向で塾に来ている子達がほとんどなので、勉強なんて積極的にやろうとは思っていない。
宿題だって、やって来れる子の方が少ないのだ。
ただ、俺は他の先生達と違って、宿題を細かくチャックして出来ていないと居残りをさせて一緒に宿題をやるので、生徒達はあんな顔をするのだろう。
「よっし、偉いぞ! 後で面白い話を聞かせてやろう!」
俺は、そんな気持ちを押し殺して居残りを頑張ろうと決めた生徒に、そう言って、その頭を乱暴に撫でまわした。
こういうコミュニケーションを嫌がる生徒も少なくないが、これで喜ぶ生徒もいるので難しい。
そんな感じのやり取りをしながら、俺は徐々に教室の小学生たちの気持ちを温めてから、号令をかけるのだった。
「ふぅ…… 今日も色々ごたついたけど、何とかいつもより早く校舎を出れたな……」
相変わらず、諸々の雑務は押し付けられるものの、それでもその割合は減って来ている。
俺がキチンと断るようになったのもそうだが、新名統括長からのチクチクとしたツッコミの効果でもあるのだろう。
俺の相談を受けて、新名統括長は本当に色々良くしてくれているので助かっている。
「うーん…… 今度は俺が食事をご馳走するなりしないとかな?」
そんなことを提案しても、新名統括長には断られてしまうだろうが……
それに、春日も黙っていなそうだ。
「ん? あれって、春日だよな? お~い、かす――」
ふと、駅前を歩く春日の姿を見つけて、俺は声をかけようとしてやめた。
理由は、春日が同世代の男子と一緒に歩いていたからだ。
俺はそんな楽しそうに笑いながら話をしている二人から、隠れるように身を隠す。
「あれ? 今センセの声が聞こえた気がしたのに…… 気のせいかな?」
「どしたの、瞳?」
「う~ん……? ごめん、
何故隠れたのかと聞かれれば、「何故だろう?」と自分でも首を傾げてしまうが、自分が声をかけることで楽しそうな二人を邪魔したくなかったというのが一番の理由だと思う。
「まぁ、そりゃそうだよな。春日くらい可愛い子なら、男子が放って置くわけないもんな」
俺は踵を返して校舎の方に歩き出す。
あの様子だと、駅前のハンバーガーショップ辺りに行って話でもするのだろう。
家に帰るにはあの店の前を通らないといけないが、俺が通り掛かれば、春日は気を使って席を立ってしまうかも知れない。
「校舎で仕事でもして、二、三十分時間を潰してからいつもの時間に帰るとするか」
明日の授業で使うプリントの印刷や、生徒の成績入力がまだ残っていたので、それをやってしまおう。
俺は胸に何とも言えないもやもやした感情を抱えたまま、珍しく早く出ることが出来た校舎に戻るのだった。
続く――。
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