第28話 26th lesson 何だかこの調子で進んでいけば、教室の状況は思った以上に良い方向に転がりそうな予感がしていた。
「ふぅ~…… やっとこの痛々しい包帯とはおさらばできそうだな」
洗面所の鏡で額の傷を確認する。
病院で言われた通りうっすらと傷は残っているが、まぁそれはもう仕方がないだろう。
「生徒に色々弄られそうだなぁ、この傷」
楽しそうに絡んでくる生徒達を想像して、俺は苦笑いを浮かべる。
「でも、その前に黒桐になんか言われそうだよね…… 『生徒達が怖がるので、その傷は隠しておいてください』とか」
「ああ、おはよう春日。まぁ、なんか言われるだろうけどその辺はもう仕方がないよ」
鏡に向かって独り言をこぼした俺に、春日は朝食の準備を終え声をかけて来た。
鏡に映るその顔には、呆れたような表情が浮かんでいる。
「とりあえずさ、これでしばらくその傷隠しておきなよ」
そう言って春日が差し出してくれたのは、俺の額の傷が隠れる程度の大きさの絆創膏だった。
「ありがとう。わざわざ買って来てくれたのか?」
「うん。顔の傷って結構怖がる人も多いから、隠せるようにと思ってね」
「なるほど。それじゃあお言葉に甘えて……」
俺は春日から渡された絆創膏を鏡で確認しながら傷の上に貼ってみる。
確かに、傷がそのままよりは、見た目の印象が少しだけマイルドになった気がする。
「さぁ、朝ご飯食べちゃおうよ。オムレツが冷めちゃったら勿体ないよ」
「分かった分かった。すぐ行くから先にダイニングに戻ってて」
「はぁ~い」
洗面所を出て行く春日の背中を見送って、俺はもう一度鏡で自分の顔を確認する。
「前髪を伸ばして、隠れるようにした方がいいかもな……」
視界が狭くなるので前髪が顔にかかるのは嫌いなのだが、春日が言うようにこの額の傷は少々インパクトが大きい。
元々の顔つきのせいもあるのだろうが、この顔でこの傷だと確かに相手によっては怖がらせてしまうかも知れない。
前髪が伸びるまで少し時間はかかりそうだが、こうして絆創膏をずっとはっているよりはいいだろう。
「まぁ、とりあえずはこのスタイルでしばらく様子見…… かな?」
鏡の中の自分に確認する様にそう言ってから、俺は春日の待つダイニングへと向かった。
「先生、包帯が取れてよかったね!」
「あはは、そうだな」
「でもその大きな絆創膏は何かダサいね!」
「うるさい、ほっとけ!」
予想通り、校舎にやって来る小学生達に俺は散々弄り倒された。
春日の絆創膏のお陰で、怖がられることがなかったのはありがたかった。
「今夜、新名統括長が新しい先生と一緒にいらっしゃるそうです。新しい先生は理系の先生ですので、研修とかフォローをお願いします」
黒桐室長も俺のこの絆創膏が気になるのか、しきりに視線を向けていた。
これは、傷を晒したまま校舎にやって来ていたら、春日の言っていた通り何か言われたのだろう。
春日には感謝しなきゃな。
「既に他校舎で研修を受けて、一通りのことは出来る方だそうなので、冬月先生の教え方や手順を共有してあげて下さい。講習が始まれば、その先生が冬月先生の裏で授業をすることになりますから……」
「分かりました。色々共有させて頂きますね」
必要事項を俺に伝えたら、黒桐室長は控室にいそいそと戻って行った。
恐らくだが、講師控室に色々置いてある彼の私物やら何やらを片付けているのだろう。
中学生を中心に広がった例の噂のお陰で、教室の数字は好調だ。
そのお陰もあって、所謂営業電話などの時間が減って余裕が出来たが、黒桐室長はその時間を『これまでの好き勝手』の隠蔽工作にあてている様だ。
俺としてはもう少し別のことに時間を費やして欲しいのだが……
「印刷機用の紙に偽装した、黒桐先生の私物の箱が給湯室に何個も積まれてますよ…… まるで彼女が来る直前に部屋を必死に片付ける男子学生です」
「あはは…… その例えは面白いね……」
実際には、これからこの校舎に常駐予定の黒桐室長直属の上司がやって来るわけだが、夏川先生の例えが妙にしっくり来て思わず吹き出してしまう。
「教室業務をそっちのけで、あんなことばかりやって…… 私は呆れてものも言えないです」
「いやいや、今十分色々物申していると思うけどね」
「そりゃ愚痴の一つも言いたくなりますよ。これまで散々、『授業外の時間の使い方を考えて下さい』って、口酸っぱく言われて来たんですから……」
色々フォローは試みているものの、夏川先生をはじめとした講師の皆さんの黒桐室長の評価は、ここのところ駄々下がりだった。
原因は一重に黒桐室長の行動なので、俺にはもうどうしようもない。
彼が築き上げて来た外向けの顔という名のメッキが、ボロボロと崩れ落ちていく音が聞こえるようだ。
「一人暮らしの家に、家賃を肩代わりしてくれてる両親が様子を見に来るようなものだし、ああして慌てる黒桐室長の気持ちも分かってあげようよ」
俺がそう言って苦笑い交じりにフォローを試みるも、夏川先生はやれやれと溜息をつく。
「そうやって視察が来ることになってから慌てなくていいように、普段からキチンと掃除したり、ルールを守っていればいいんですよ。結局は今までのいい加減さが自分の首を絞めてるだけじゃないですが……」
呆れる夏川先生の言葉があまりに正論過ぎて、俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「お疲れ様です…… 大丈夫ですか、黒桐先生?」
その日の業後、予告通り新名統括長は一人の女性講師を伴って校舎にやって来た。
そして、ぐるりと教室の様子を見渡してから、若干オドオドしている黒桐室長の顔を覗き込む。
「え、ええ、問題ありません!」
そう言いながら黒桐室長がチラチラ見つめていた方向を見て、俺は「ああ」と合点がいった。
見ればそこに貼られていた掲示物は、先月のものだ。
新名統括長は『掲示物は教室の雰囲気を決める重要な要素』と言っていつも掲示物のデータを送ってくれているので、それが気付かれないかを気にしているらしい。
「ここのところ問い合わせが殺到しているようですし、お忙しいみたいですね……」
新名統括長の視線もその掲示物に向いているので、恐らくもう気付かれているのだろう。
「あ、すみません黒桐室長。俺、頼まれてた掲示物を更新するの忘れてました!」
仕方がないので、俺がそう言って印刷して黒桐室長に渡しておいた更新用の新しい掲示物を黒桐室長のデスクから取り上げて、慌てた素振りでその掲示物を張り替える。
「なるほど、冬月先生はお怪我が治ったばかりですし、色々大変だったとも聞いています。今後はそういうことのないようにお願いしますね」
俺の意図を察してくれたのだろう。
新名統括長は、そう言って俺のことをキチンと窘めるような言葉をかけてくれた。
視界の端で『一番更新しやすいあそこだけが黒桐先生の担当だったのに……』と不満そうな顔をする夏川先生の顔が見えたので、俺は『まぁまぁ』とアイコンタクトを送る。
「ああ、すみません。なんか変な空気にしてしまって…… 今日は別に教室巡回でここに来たわけじゃなくて、今後一緒に働くことになるのでご挨拶がてら差し入れを持って来ただけですから」
そう言ってビニール袋一杯に詰め込まれたスーパーで買って来てくれたであろうアイスの箱を、新名統括長はカウンターに並べる。
そのチョイスが微妙なところが、実に新名統括長らしかった。
こういうときの差し入れであずきバーをラインナップに加えるそのセンスは流石である。
「好きなアイスを選んでくださいね。残りは冷凍庫に入れておくので、好きなときに食べて下さい」
そう言って真っ先にそのあずきバー選んで取り出す新名統括長は、その場の講師達が遠慮しなくて済む様にとそのままそのアイスにかじりつく。
「あがっ!? か、固いれしゅね…… このアイス……」
豪快にかじりついてそのリアクション。
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、そんな新名統括長に言葉をかけた。
「まぁ、あずきバーはサファイヤより硬いなんて言われますからね…… 歯、大丈夫ですか?」
「サファイヤより? ……通りで固いわけですね。歯が折れるかと思いましたが…… 大丈夫みたいれす」
手に持ったあずきバーをじっと見つめながら、涙目を浮かべる新名統括長。
これまで緊張の面持ちで見つめていた周囲の先生達は、打って変わって何か微笑ましいものを見つめるような目でそんな新名統括長を見つめていた。
彼女の思惑とは若干異なっていたが、結果的にその場の雰囲気を和らげることには成功したようだ。
それからしばらくの間、講師達でアイスを食べながら談笑するという謎の空間が展開される。
「それにしても、この校舎の講師の皆さんは授業がお上手なようですね。本部の巡回視察での評価も非常に高いですし…… やはり頻繁に研修を行っているのでしょうか?」
あずきバーとやっと食べ終えた新名統括長がそんな風に質問すると、黒桐室長は嬉々として語り出した。
「ええ、そうですね。やはり講師の質にはこだわって行かないといけませんから、教室での研修は毎週曜日を決めて行っています!」
ここぞとばかりに自身のこだわりをアピールする黒桐室長に、バイト講師の先生達は若干引き気味に笑っている。
そんな様子を一瞥してから、新名統括長は黒桐室長にこんなことを提案した。
「なるほど。それではその研修の様子を見せて頂けませんか? これだけのレベルの講師を育成している校舎の研修のノウハウを、可能であれば他校舎とも共有したいので」
「わかりました! それでは、早速教室研修をお見せしましょう!」
ノリノリの黒桐室長とは裏腹に、バイト講師の先生方は憂鬱そうだったが、もちろんそれに黒桐室長は気付いていない。
いや、気付いていて無視しているという方が正しいかも知れないな。
もしかすると、黒桐室長的には「研修と聞いて嫌な顔をするなんて、講師としての意識が低いな」という感じに認識しているのかも知れない。
とにかく、その場の殆どの人間が望まない『教室研修』が新名統括長の希望の元唯一清掃の住んでいた教室で始まった。
「ちょっとストップ! その発問はこのタイミングで出すのが正解ですか? もっとステップを踏んで発問しないと生徒の思考をそこまで引っ張れないと思うけど…… どういう意図で今の発問を生徒に投げたか教えてくれる?」
「えっと…… すみません。一つ前の問題の応用なので、この程度のステップアップなら、うちのクラスの生徒もついて来れると思って……」
「そういうなんとなくのハードル設定だから、取りこぼされる生徒が出て来るんじゃない? もう少し考えて発問組み立てていかないと、いつまでも先生も成長できないよ?」
いつも以上に熱の入った指導をする黒桐室長に、模擬授業を披露していた下田先生は目に涙を浮かべて悔しそうな顔をしていた。
恐らく、彼なりに先程の発問には意図があったのだろう。
今彼が担当しているクラスの生徒は伸び始めているし、その成長に合わせて敢えて大きなステップを用意した授業を展開したかったのかも知れない。
しかし、そのクラスの生徒状況を把握していない黒桐室長には、そんな彼の意図が伝わらなかったのだろう。
その辺りをフォローするつもりで俺が口を挟もうとすると、それを新名統括長が手で制した。
「ちょっといいですか、黒桐先生。今の発問ですが、確かに平均的な観点からなら一段飛ばしのステップです。ですが、クラスの生徒達の現状と照らし合わせた場合必ずしもそれが間違いとは限りません。下田先生、先程の発問にクラスの生徒はついて来れると言っていましたが、だいたい何パーセントの生徒がついて来れる目算ですか?」
俺に代わってそう言ったのは新名統括長だった。
やんわりとした雰囲気の問いかけだったのもあって、下田先生は少しだけその表情を緩ませる。
当然ながら黒桐室長は少し嫌そうな顔をする。
「ええと…… 自分の感覚値で申し訳ないですけど、およそ4割は確実について来れると思います。加えて3割程度の生徒達がその後にヒントを提示する形で、ピックアップ出来る目算でした」
「なるほど…… 下田先生と同じクラスを担当している先生にお伺いしたいのですが、この目算についてどう思われますが?」
ちらりと俺に目配せをする新名統括長の意図を汲んで、俺はそこに発言を被せた。
「そうですね、概ね正しいかと思います。最近あのクラスの生徒達は二年生の盛り上がりに刺激を受けて、かなり勉強を頑張っているんです。宿題の提出率も非常に高いですし、小テストの合格率も伸びてます。今の乗っているあの子達なら、さっきの発問にもついて来れるかもですね」
「だとすると、クラスの7割の生徒に照準があっているということになりますから、先程の下田先生の発問は、黒桐先生が言うほど的外れではなかったのかも知れませんね」
そう言って笑う新名統括長の言葉を聞いて、下田先生は嬉しそうに頬を綻ばせる。
その顔を確認してから、新名統括長は「ただ……」と言葉を付け足した。
「ただ、研修ではクラス設定を参加者にキチンと共有しないといけません。クラスの状況が見えなければ、黒桐先生の言う様に『一般的な意見』を言わざるを得ない。黒桐先生の指摘は、普通に考えればもっともなご意見なので、的外れなものではないということはご理解くださいね」
そう言って黒桐室長へのフォローも忘れない辺り流石だと思う。
「黒桐先生、研修に口出ししてしまってすみません。ただ、こうやって厳しい研修を毎週やっているからこそ、この校舎の講師の皆さんは高いレベルの授業力を、維持しているのだということがよく分かりました。しかし、このレベルの研修を他校舎にもやらせようとするのは、少しハードルが高いかも知れませんね……」
「まぁそうかも知れないですね。研修する側もされる側もしっかりと準備が必要ですし、それを他校舎でも実施する様に言うのは流石に難しいでしょうね」
一瞬面白くなさそうな顔をしていた黒桐室長も、新名統括長のそんな言葉を聞いてご機嫌を直してくれたようだ。
それから、新名統括長も交えた形で、いつもよりも朗らかな雰囲気で教室研修は進んだ。
どうやらこの一件で、新名統括長はバイト講師の先生方の心をしっかりと掴んだようだ。
果たして狙ったのかそうでないのか…… そこは定かではないが、俺は改めて新名統括長の凄さを目の当たりにした気がする。
何だかこの調子で進んでいけば、教室の状況は思った以上に良い方向に転がりそうな予感がしていた。
続く――。
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