第27話 25th lesson  女心とはまた違う春日の心に、俺はまだ理解が及んでいない様だ。


「ただいま~……」

「よしよし、ちゃんと帰って来たか」


 約束通り帰宅した俺を見て、春日はそう言って頷いた。


「……うへぇ、美味しそうな肉の匂い。さては城軒楼じょうけんろうに言って来たでしょ? あそこの焼肉はさぞ美味しかったことでしょうねぇ」


 服に顔を寄せて匂いを嗅いだだけで、春日は俺がご馳走になった店の名前を言い当てた。

 本当にこいつは何者なのだろうか。


「匂いで分かるってすごいな。ただ、この美味そうな肉の匂いの正体はこれだ」

「えっ!? それって、一個2700円の城軒楼の特選焼肉弁当!?」

「……値段もメニューも大当たりだが、本当にお前は何者なんだ?」

「もしかして、センセが買って来てくれたの?」


 俺が弁当を差し出すと、春日はそれを受け取って俺の方を見上げた。


「いや、新名統括長が『お土産いりますか?』って聞いてくれたから、それじゃあ頂きます。って答えたんだ。そしたら、店で一番高い弁当をお持ち帰りで注文してくれたんだよ」

「何それ、神じゃん! 新名神あらなしんじゃん!!」


 神という割に言葉遣いに敬意を感じないのだが、今どきの若者はこういうものなのだろうか?


「えぇ、どうしよう…… 今から食べる? いや、でもなぁ…… こんなの今食べたら絶対太るしなぁ」


 受け取った弁当を天に掲げるようにしながら、うんうん唸る春日を放置して俺は自室に戻って着替えを済ませ、参考書などを持って、ダイニングに戻る。

 すると春日はお土産の高級弁当を冷蔵庫にしまっていた。

 机の上を見ると、指定して置いた参考書の問題をキチンと解いているようだ。


「よしよし、ちゃんと勉強はやってるな。流石は春日、偉いじゃないか」


 そう言いながら椅子に座ると、春日も椅子に座りながら、少し頬を膨らました。


「そりゃあ、もしもセンセが約束破って朝帰りとかしたときに、アタシが言われた勉強してなかったら、センセのこと責められないでしょ?」

「……なるほどな。まぁ、モチベーションはどうあれ、キチンと勉強してたのは偉いと思うぞ。んで、解いてみて困ったこととか、分からなかったとことかは?」

「ああ、えっとね、えーと…… そう、これこれ。この問題がちょっとよく分からなかった。参考書とかも見たけど、どうしてこの答えになるのか分からなくて……」

「どれどれ……」


 それからしばらくは、春日の質問に応えたり、応用問題の解き方を教えたり……

 躓いた問題の傾向から再確認した方がいい内容を抑えたりと、春日の勉強に二人で時間を割いた。

 なんだかんだいいながら、春日も真面目に勉強をしてくれるので、時間の割にはいつもと同じかそれ以上の内容を彼女に教えることが出来たと思う。


「うへぇ~…… つかれたぁ~!」


 俺が本日の家庭教師の終了を告げると、春日はソファーに倒れ込む。


「てか、センセお酒は飲んで来なかったんだね。てっきり飲んでくるのかと思ってたのに」

「あのなぁ…… 帰って来てお前に勉強を教えるのに、酒なんて飲むかよ」


 俺が当たり前のようにそう言うと、春日は驚いたような顔をする。


「ん? どうした?」

「いや、本当に真面目だなって思って。普通、美味しいご飯食べて、楽しい会話してってなったら、その場の雰囲気に流されて、楽しい方を選ぶもんなのにさ。センセは律義にアタシなんかの為にそれを我慢してくれたんだなって」

「それは当然だろ。俺の為に色々してくれてるお前のことを、こっち都合で嫌な思いはさせたくないし。『帰って勉強を見る』って約束したしな」


 ソファーから起き上がる春日の顔は、何やら嬉しそうに緩んでいた。


「そっかそっか、センセにとっては、新名先生とのご飯より、アタシとの約束が大事だったか…… うん、それは素直に嬉しいな」


 そう言って春日は大きく伸びをしてから、「よっこいしょ」の掛け声と共にソファーから立ち上がる。

 そして、ニコニコしながら俺の横を通り過ぎていく。


「センセ!」


 それを見送ろうとして振り向いた俺の行動を読んでいたのだろう。

 同じタイミングでこちらに振り返った春日は、満面の笑みをこちらに向けて来た。


「ありがと。約束守てくれて!」

「お、おう……」

「それじゃあ、もう遅いしアタシは寝るね。おやすみ、センセ」

「ああ、おやすみ春日」


 俺に向かって手を振ってからパタパタと軽い足取りで自室へと戻る春日の背中を見送る。

 と、同時に俺は深くため息をついた。


「くそ…… なんか知らんがドキドキした」


 春日が座っていたソファーに腰を下ろし、天井を見上げる。

 不意にソファに残った春日の温もりを感じて、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。


「はぁ~…… ダメだな。どうも最近調子が狂う」


 頭を過ったのは先程の春日の言葉だ。


『そっかそっか、センセにとっては、新名先生とのご飯より、アタシとの約束が大事だったか…… うん、それは素直に嬉しいな』


 特に意識していなかったが、言われてそうなのだと気が付いた。

 俺は、新名先生よりも、春日を優先したのだ。

 酒を飲んだとて、きっと春日なら「まぁしょうがないよ。アタシはちゃんと勉強するから、センセは楽しんで来てね」なんて言って許してくれただろう。

 でも、俺はアイツとの約束を優先して、あの店で酒を飲むことをしなかった。


「まだそんな経ってないのに、アイツとの生活が当たり前になってるし…… もうすっかりこの日常が当たり前のものになってるな」


 家族のような存在。

 俺の中では、一応あいつはそういうカテゴリのつもりだ。

 でも、その分類が実際には正しくないということくらい、流石にもう気付いている。


「……まだ認めるわけにはいかないけどな」


 天井に向かって、俺はそう言って息を吐き出した。

 吸ってはいないが、煙草の煙を夢想して、その想像の煙を目で追ってぼんやりと考えた。

 俺にとって、春日という存在はどんなものなのか。


 元教え子。

 現教え子。

 そんな風に考えても、身の回りの世話をしてくれる、可愛い女の子である事実は変わらない。


「はぁ~…… 参ったな」


 料理も美味い。

 家事も完璧。

 気心も知れていて、話していて楽しい。

 そして、そこらのアイドルよりよっぽど可愛い。


 夏川先生も可愛いと思うし、新名統括長も綺麗だと思う。

 身の回りの女性という意味で、蔵王先生も美人さんだ。

 でも、それと並べても遜色ないくらいに、春日は可愛いと思うのだ。

 そう、悔しいことに……


「いや、やめておこう。今は、このことを考えるべき時期じゃない」


 俺は春日と同じように「よっこいしょ」という掛け声とともにソファから立ち上がる。

 そして、大きく首を左右に振った。


「色々洗い流すために、風呂に入るか」


 そう思いたってキッチンの風呂のスイッチまで近づく。


「……たはは、本当に良く出来る子だよな、アイツは」


 すると、そんな俺の行動を見越していたかのように、風呂は既にキチンと沸かされていた。


「よし、風呂だ。風呂に入って色々忘れよう」


 俺はその場で大きく伸びをしてから、脱衣所に向かった。


 翌日、早速新名統括長は動いてくれていた。


「講習に向けての体験生増加を見越して、エリアから新しい講師の先生が回して貰えることになりました」


 室長会議での決定事項の共有の際に、黒桐室長は俺にそう言った。


「教室の調子も好調ですし、それを阻害しない為にもということで、新名統括長が直々にそう言って来たので…… 断るのもなんですし、来週から研修などの為に来てもらうことになります」


 どうやら、黒桐室長も人員の増加を受け入れてくれている様だ。

 流石は新名統括長。

 本当に感謝しかない。

 後は、送られてくる人員が残念な人でないことを祈るばかりだ。


「いや、流石にシンドイかなと思ってたので、人が増えるのは助かりますね。僕らの手が空けば、その分体験生の動員活動にも時間が割けますし……」


 俺がそう言うと、黒桐室長は「分かってないですね」と言って溜息をついた。


「何か問題でもあるんですか?」


 俺が首を傾げると、黒桐室長はやれやれと言った雰囲気で言葉を続けた。


「送られてくる人員が問題なんですよ……」

「もしかして、ド新人とか?」

「その逆です」

「その逆? ベテランならその方がありがたいんじゃ――」

「一人は昔この校舎にいた先生なんです。 ……誰だと思います?」


 俺の言葉を遮って、溜息交じりに言う黒桐室長。

 その顔を見て、俺はその人物が誰なのか察した。


「もしかして、新名統括長ですか?」

「ええ、そうです。授業力も生徒管理能力も申し分ないですが、校舎に統括長が常駐するというのは、色々やりにくいですからね……」


 そう言って、黒桐室長は再び盛大に溜息をつく。

 なるほど。

 彼が憂鬱そうにしていたのはそういう訳か。

 でも、その気持ちは俺にも想像できた。

 黒桐室長が教室にいない時間帯に俺がノビノビ仕事が出来るように、黒桐室長が教室で好き勝手出来るのは彼より偉い人間が普段校舎にいないからだ。

 それが、人員の補充という形で上司、この場合新名統括長が校舎に来るようになってしまうと、黒桐室長の行動を監視する人間が校舎に常駐するということになる。

 それはきっと、黒桐室長にとって非常に煩わしい状況だろう。

 盛大に溜息をつきたくなるはずだ。


「もう一人は、他校舎で活躍していたバイトの方だそうです。曜日を分けての二校舎兼任になるそうなので、そちらの方も色々フォローが必要になるでしょうね」

「分かりました。その辺りは俺がフォローします」

「ええ、よろしくお願いします」


 俺にそう言うと、黒桐室長は再び盛大に溜息をついた後、のろのろと講師控室へと姿を消した。

 恐らくはシエスタの時間だろう。

 新名統括長が教室の常駐する様になったら、そんなことも出来なくなってしまうのだ。

 今までが異常だっただけなのだが、その落ち込みようを見て、俺は黒桐室長が少しだけ気の毒に思えた。

 そんなことを言ったら、恐らく夏川先生や春日には『お人好し』だと言われるだろうが。

 今まで当たり前だったことが出来なくなるというのは、思った以上にシンドイものだからな……

 俺は、控室に消えた黒桐室長の背中に、少しだけ同情の念を抱く。


 しかし、まさかここまでやってくれるとは思わなかった。

 昨日の夜、別に俺は黒桐室長の横暴については一切話をしなかったのだ。

 でも、彼女がこうしてこの教室への常駐を決めてくれたのは、恐らくは俺の頼みを受けてのことだろう。

 恐らくだが、俺の話の端々からこの状況を推測して、改善の一手の為に彼女が動いてくれたのだ。

 職場の環境は改善しようとしていた俺の計画が、思った以上に大きく進展しそうな予感。

 もしかすると、これはもしかするかも知れない。


 色々息苦しくなるだろう黒桐室長には申し訳ないが、俺はそう思って嬉しい気持ちになるのだった。


「え? 新名先生が校舎に常駐するの?」


 その日の晩、家に帰った俺がそのことを話したら、春日は怪訝そうな顔をした。


「マジか…… 夕海さんに続いて、新名先生もか…… まさか、もう一人来る先生も女の子じゃないよね?」

「いや、それは知らんけど……」


 何やら、スマホを取り出して、しきりに操作を始めた。

 横目に少しだけ見えた画面には、夏川先生のアイコンが見えたので、恐らくは彼女と何かのやり取りをしているのだろう。


「これは色々対策を講じないとな……」


 校舎の状況が大きく改善しそうなことを伝えたので、春日も喜んでくれると思ったのだが……

 どうやら春日には、校舎状況の改善以上に新名統括長の校舎常駐の情報の方が大きかったらしい。


 彼女の思惑は俺には想像することも難しかったが、何やら色々思い悩んでいるのは確かだ。

 俺はそんな彼女の悩みが勉強に影響が出ないか心配だったが、その日の春日も問題なく頑張ってくれていたので、どうやらそれは杞憂の様だった。

 まったく、春日の考えることはいまいち俺には想像がつかない。

 女心とはまた違う春日の心に、俺はまだ理解が及んでいない様だ。

 まぁ、もしかすると、一生分からないのかも知れない。

 ようやっと夏川先生とのやり取りを終えた春日は、難しい顔で俺に「おやすみなさい」と告げ、自分の部屋へと入っていった。


 続く――。

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