第26話 24th lesson 走り出すタクシーの窓を開けて、俺に向かって手をふる新名統括長に手を振り返しながら、俺は彼女が無事に家に帰りつくことを空に祈るのだった。


「あ、そうだ。 明日は夕飯を外で食べて来るよ」


 いつもの勉強会を終えてそれぞれの寝室に戻るときに、俺は思い出したことを春日に伝えた。


「ん? 誰とかな? 夕海さんとだとしたら、アタシも行くから伝えておいてね!」


 すると、春日は満面の笑みなのに何故か一目で怒っていると分かる表情をこちらに向ける。


「なんで夏川先生となんだよ…… しかも、なんでお前も来るんだよ? 食事に行くのは新名統括長だよ。ああ、えっと新名先生のこと覚えてるか?」

「新名先生? ……ああ、アタシが塾に入ってすぐに別の校舎に異動になった?」

「そうそう、その新名先生だ」

「ん? 『とうかつちょう』ってなんとなく偉そうな響きだよね? 新名先生ってそんな偉くなってたの? センセはいまだに平の社員なのに?」

「……悪かったな、出世が遅くて。ってか、俺もまだ社会人としては二年目のペーペーだからな? これから出世するかも知れないだろうが」

「あははっ! センセが出世は無いから。まず黒桐の下にいたら当分無理でしょ」

「このやろ……」


 その返答が的確過ぎてグサリと来た。

 しかし、新名統括長のことはやはり春日も覚えていたか。


「ん? ってか、新名先生と食事ってどゆこと? あんな超絶美人がセンセと食事?

 なに? センセ校舎が移ってからも、こっそり繋がって恋を育んでたの?」

「あのなぁ…… 校舎の状況を改善するって言ったろ? お前や円華さんの尽力もあって、校舎の成績は好調だから黒桐室長もご機嫌で助かってはいる。ただ、そのお陰で次の講習では講師が足りなくなりそうなんだよ…… 黒桐室長は本部に借りを作りたがらないから、また無茶なタイムテーブル組みそうだし…… 先手を打って新名統括長に人員の補充とか諸々を相談しようと思ってな」

「あはは、どこまでもセンセはセンセだね。安心したというか、心配になるというか…… でも、帰りがあんまり遅いときは、鬼電するからそのつもりで! ってか、センセにその気がなかったとしても、あの顔にあの胸でしょ。あっちにその気があったら、童貞のセンセが我慢できるかどうか……」

「童貞言うなこら……」


 春日の言う通り、新名統括長は俺が人生で出会った女性の中でもトップクラスの美人さんだ。

 しかも、グラビアアイドル顔負けのスタイルも有しているという反則的な方だ。

 同じ校舎で働いていたとき俺はバイトだったが、当時一緒に働いていた男性バイト達は、新名先生に夢中だったのを覚えている。

 当時の中三男子からも、圧倒的な支持を得ていたっけ。

 確か、今でも特定の男性とお付き合いしているとかは無かったと思う。

 というか、新名統括長は自他ともに認める仕事の鬼なので、そういう浮いた話は一切聞かないんだよな。


「なんにもないから安心しろよ。そもそも俺だぞ?、相手にされてる訳ないだろ?」

「センセだから心配してんじゃん! ああいうのにはセンセみたいなのの方がウケるんだよ。バカなの? マジウケる」


 褒められているのか貶されているのか……

 いや、間違いなくけなされているのだが。

 しかし、春日の言うようにもしも新名統括長のお眼鏡に俺が適うというのなら、光栄だとは思う。


「はぁ~…… とにかくだ。そんなわけで明日は、新名統括長と食事しながら色々相談してくるから、いつもより帰りが遅くなる。俺が帰るまでは今日やった分の演習を進めて貰うことになるから、そのつもりでいてくれ。あ、それと俺の分の夕飯はいらないから」

「はぁ~い…… あんまり遅くならないでよ?」

「分かってるよ。統括長にも終電があるし、明日も仕事だしな。長くても二時間くらいで解散にするから……」

「絶対だよ? それ以上遅くなったら、鬼電だから忘れないでね?」

「分かったって…… それじゃあ、そろそろ寝よう。お休み、春日」

「はぁ~い、おやすみセンセ」


 自室へと入っていく春日を見送って俺は溜息をついた。


「俺と統括長が? ったく、何であの年頃の女子は、何でもかんでもすぐに色恋に結び付けたがるのかね……」


 春日はあんなことを言っていたが、あんな美人で仕事も出来る統括長が、俺なんかを相手にするわけがないだろうに。


「自分で考えていて悲しくなるな……」


 俺は欠伸をかみ殺してから、ゆっくりと自室に戻って布団に横になった。

 すると、あっという間に睡魔にやられて、気が付けばそのまま朝だった。



「さてと…… 約束の場所はここだけど……」


 俺はスマホを取り出して時間を確認する。


「今日も気持ち悪いぐらい何もなく仕事が終わったけど、それを不安に思うって…… これまでがどれだけ異常だったのかって話だよな」


 時間は約束の時間の十分前。

 これで待ち合わせの相手が赤木ならここで待っていれば問題なく合流できるだろうが……


「今日の相手は新名統括長だからな……」


 俺は深い溜息をついてスマホをポケットに押し込むと、駅に戻って待ち合わせ場所とは逆側に歩き出す。


「さて、見つけられるといいんだけど……」


 篠崎さんの文具店がある商店街をふらついて、俺は新名統括長の姿を探す。

 しかし、その姿を見つけることは出来なかった。

 商店街を抜けて、バスターミナルの方へと抜ける。

 ……すると、案の定新名統括長の姿を見つけた。


「新名さん! こっちですよ!」

「……ん? ああ、冬月先生! 良かった、約束の場所に向かっていたはずなのに何故かバス停に出てしまって……」


 声をかけると、新名統括長は納得いかないという顔で首を傾げる。

 そう、この人は極度の方向音痴なのだ。


「あはは、そんなことだろうと思いましたよ。約束のお店はこっちです。案内しますからついて来てください」

「すまない。よろしく頼む」


 俺の服の裾をつまむ様に指先で握って、俺の後ろをついてくる新名統括長。

 この人は仕事は鬼のように出来るのだが、それ以外のことがからきしなのだ。

 方向音痴はあくまでも彼女苦手なものの一つでしかない。


「その膝、またどこかで転んだんですか? 擦りむいてはいないみたいですけど、お店についたら一応治療しますね」

「うぅ…… いつもいつも本当に申し訳ない」


 その大きな胸のせいで足元がよく見えないからなのか、少し歩くだけでよく転ぶし、運動関連もからきしだというし……

 こんな言い方をしては失礼だが、この人仕事以外はもうポンコツなのふだ。


「冬月先生は凄いな…… 他の人ではこうも簡単に合流できないからな」

「あはは、まぁ付き合いも長いですしね。もしかしたらって思って探して見たのが良かったですね」

「いつも待ち合わせに間に合わなくて、相手を待たせてしまうからな……」

「集合時間が遅いですし、あんまり遅くまでというのも良くないですから。お互い明日も仕事ですしね。効率を重視した結果ですよ」


 何やら俺に対いて恐縮している様子の新名統括長に、俺はそんなことを言いながら苦笑いを浮かべる。

 なんというか、普段あんなに仕事が出来ているのが不思議になるよな……


「そんな風に言ってくれるのも、こうしてフォローしてくれるのも君だけだ…… うわっと!?」

「あぶな!」


 言ってる傍から転びそうになる新名統括長の手を取って咄嗟に支える俺。


「っ!? っと、その…… すまない……」


 躓いたのが恥ずかしかったのだろう。

 新名統括長は俺から目を背けて顔を真っ赤にする。

 俺相手に今更恥ずかしがることなどないのに……

 とは思うものの、仮に逆の立場なら俺も恥ずかしいと思うと思うので、口からその言葉を出すことはなかった。


「いえいえ…… あ、あの店ですよ。でもいいんですか? あの店結構高いと思うんですけど……」

「気にしなくて大丈夫だ。私はそれなりに給料を貰っているし、普段はあまりお金を使う機会もない。だからこういう時には、出来る限り奮発することにしているんだ」

「でも――」

「いいから、たまにしかない機会なんだ。こういう時くらい、上司らしいことをさせてくれ」

「それでは、お言葉に甘えて……」


 この辺でも有名な高級焼き肉店。

 俺も新名統括長と一緒で給料の使い道はあまりない方だが、それでもよっぽど何かがない限り入ることのない店だ。

 ちなみに、これまでその『よっぽどのこと』は一度たりともなかった。

 そんな店に、俺は新名統括長を伴って入る。


 店内は静かだった。

 俺たち以外にもかなりのお客さんがいるのは入り口に下駄箱で分かったていた。

 だと言うのにこの静けさ。

 不思議に思って廊下を歩いていて、そのカラクリに気付く。


「すげぇ…… このお店、全席完全個室なんですね……」


 恥ずかしながら店内の豪華さに驚いて、こういう店に慣れているだろう新名統括長の方を振り返る。

 すると……


「本当だ! こんな風になっているのだな! 焼肉屋さんというのはもっとにぎやかなものだと思っていたが……」


 俺以上に驚いている新名統括長がそこにいた。


「いや、俺より驚いてるって…… 新名さんはこういうお店に慣れているのかとばかり……」

「そもそも、そんなに外食しないしな…… この手の店は、こういう機会でもないと来ないよ」


 帰って来た言葉を聞いて、なるほどと納得する。

 よくよく考えれば、新名さんは女性だし、焼肉屋に一人でというのは彼女の性格を考えてもあまり考え難いだろう。


「とりあえず、コースを予約しているのでそれを食べながら話そうか。心配しなくても、私がご馳走するので気にしなくていい」

「こんなに高いお店でご馳走になってすみません。じゃないか、ありがとうございます」

「いえいえ、冬月先生にはいつも校舎で頑張って貰ってるので、たまにはこういう形で労わせて貰うよ」


 そんな会話をしながら、俺は新名統括長と個室の席に向かい合って座る。

 その際の新名統括長の「どっこいしょ」という掛け声に癒された。


「それで、『校舎のことで相談』というのは?」

「はい。実は次の講習に向けてうちの校舎で申し込みが増えていて…… 恐らくは現状のクラス分けでは対応が難しそうなんです。けど、多分うちの室長は大人数クラスを作るか、無理なタイムテーブルを作って回そうとしてしまうと思うので…… もし可能なら、新名さんの方から、人員の補充を黒桐室長にご提案頂けないかと……」

「ああ、そう言えば、一日で十件以上の申し込みがあったらしいね…… なんだか地域での評判が申し込みに繋がったとか? 確かに、あのペースなら、黒桐先生は50人1クラスとか設定しそうだねぇ……」


 運ばれてきたサラダをとりわけながら俺が校舎の状況を説明すると、新名統括長はしにサラダを受け取りながら冷静に相槌をうった。

 黒桐室長のことは、新名統括長もよく分かっている様だ。


「人員の補充の件を黒桐先生に進言するのは全然構わないけど、これまではそういう無茶なタイムテーブルも、冬月先生が奮闘して無理やり成立させてなかった? 何か心境の変化でもあったのかな?」


 サラダをシャクシャクと食べながら、新名統括長は小首を傾げる。


「はい。これまでは自分の犠牲で校舎が上手く行くなら、それでいいと思ってたんですけど…… やはりそんなようなやり方は良くないなと……」

「……なるほど。私は基本的に全て各校舎の裁量に任せるスタイルだから、これまでの黒桐先生の無茶にも口出しはしてこなかった。でもずっと健全ではないと思ってはいたんだよね…… うん。他ならぬ冬月先生の頼みとあれば、喜んで引き受けよう。ただまぁ、私が人員の補充を提案しても、黒桐先生が断る可能性もあるけど……」

「いえ、提案して下さるだけで十分です。そこから先の交渉は、俺の方で何とかしますので…… 我儘を聞いて下さり、本当にありがとうございます」


 俺が頭を下げると、新名統括長はビールを一口飲んでからにっこり笑った。


「いえいえ…… それにしても、社畜の全日本代表みたいだった冬月先生の口から、『自分を犠牲にするやり方は良くない』なんて言葉が出るなんて…… 私は嬉しいよ。冬月先生もやっと人間らしくなって来たんだねぇ」

「人間らしくって…… それじゃあ俺がまるで、人間じゃなかったみたいですが?」

「だって、冬月先生は学生の頃から、滅私奉公の塊みたいな人だったじゃない? 生徒の為、同僚の為、上司の為に自分を犠牲にして奮闘する…… 私はそんな冬月先生の在り方を尊敬しつつ、同時に危うさを感じて心配してたんだよ?」


 新名統括長の言葉は、図星過ぎて言い返せなかった。

 春日にも似たような問題点を指摘されたしな……


 それから、俺は新名統括長と色々な話をした。

 以前一緒に働いていた頃の話から、最近の校舎での話など、主に俺が色々聞かれる形で。


 間に、肉を持って来てくれた店員さんが肉を焼いてくれることに、俺も新名統括長も驚いたりもした。

 焼肉って、基本的に運ばれてきた肉を自分で焼くものだと思っていたのだが、こういう高級焼き肉店では、お店の人が肉を焼いてくれて、食べ方まで教えてくれるのだ。

 もしかすると、それが今日ここに来て、一番の驚きだったかも知れない。

 そんな感じで、美味い肉をたらふく食べた俺と新名統括長は、腹をいっぱいにして店を出た。


「本当にごちそうさまでした。久しぶりに新名さんとお話しできて楽しかったです」


 俺がお礼を言うと、新名統括長は嬉しそうに笑った。


「私も楽しかったです。黒桐先生の下で働くのは色々大変だと思いますが、何かあれば今日みたいにすぐに私に相談してね」

「はい、ありがとうございます」

「それでは、今日はこれでお開きとしましょう。冬月先生もお気をつけて……」


 俺に手を振って去って行こうとする新名統括長。

 俺はそんな彼女の手を取って、呼び止める。


「新名さん。駅はそっちじゃないです。結構お酒を召していたようですし、今日はタクシーで帰った方がいいと思います。俺がタクシー拾うんで、ついて来てください」

「あはは…… すいません。それじゃあお言葉に甘えて……」


 フラフラしながら俺についてくる新名統括長をタクシーに押し込んで、彼女の家の住所を運転手さんに伝える。


「今日は色々ありがとうございました」

「いや、それは俺の台詞ですから……」


 走り出すタクシーの窓を開けて、俺に向かって手をふる新名統括長に手を振り返しながら、俺は彼女が無事に家に帰りつくことを空に祈るのだった。


 続く――。

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