第25話 23th lesson なんだか、最近俺の胸の内を見抜く人間が増えているような気がして、少しだけ不安になる。


 そして、翌日。

 春日の言った通りに、校舎には篠崎さんがやって来た。

 久々に来塾した篠崎さんに驚く黒桐室長だったが、すぐに面談室へと案内して話し始めた。

 黒桐室長は、何らかのクレームだと思っていたのだろう。

 瞬時に驚きを押し込めて営業スマイルに切り替えたのは、とにかく穏便に火消しをしようと思ったからに違いない。

 ただ面談室から聞こえる声が、すぐに明るく楽し気なものに変わったので、黒桐先生もそれが杞憂だと気付いたようだ。

 俺はそんな黒桐室長と篠崎さんの話が終わるのをソワソワしながら待っていた。


「なんだが、突然押しかけてしまってすみませんでした」

「いえいえ、そんな気にしないで下さい。久しぶりにお会いできて嬉しかったです。香澄さんにもよろしくお伝えください」


 面談室を出て来た二人に、俺は深々と頭を下げる。

 二人が話していた内容が春日の用意した通りなら、そんなかしこまることも無いのかも知れないが……


「ああ、冬月先生。先日は大変お世話になりました。あれから、例の高校生たちも『お詫びだ』と言って、大勢のお友達を連れて買い物に来て来るようになって…… 本当に助かってるんですよ」

「あはは、それなら良かったです。あんなことになって、ご迷惑じゃなかったか心配だったので……」


 篠崎さんと俺のやり取りを眺める黒桐室長の笑顔が少し不気味だが……


「あの子も大丈夫でしたか? あの高校生たちと、もう揉めたりは?」

「ええ、してないみたいです。昨日も元気に塾に来て、元気に帰って行きましたから」

「それは良かったです。しかし、本当に素晴らしい塾ですね、この塾は。勉強だけにとどまらず、生徒に対して道徳まで教えてくれるなんて…… うちの子を通わせて本当に良かったって、改めて周囲の保護者の方と話したんですよ」

「そんな…… その場に居合わせた大人として、当たり前のことをしただけですから。そんな大げさにしないで下さい」

「最近は小鳥遊先生がいなくなって、面倒見が悪くなったなんて噂も聞いていましたけど、『そんなことない』って声を大にして言ってますよ。この塾の面倒見は、あの頃と変わってないってね」

「ありがとうございます。篠崎さんにそんな風に言って貰えるなんて恐縮です」


 それから、篠崎さんは「そろそろ店に戻らないと」と言って校舎を後にした。

 俺と一緒にそんな篠崎さんを見送ってから、黒桐室長はゆっくりこちらを振り返って俺に話しかけて来た。


「水臭いですね、冬月先生。どうして話してくれなかったんですか?」


 その声にはいつもの嫌味や含みは感じられなかった。


「篠崎さんはなんと?」

「先日、うちの中二の小久保が、不良高校生に脅されて、篠崎さんのお店で万引きを働いた際に、冬月先生が身体を張ってその件を解決してくれたと…… 昨日のアンケートに冬月先生の名前が多かったのは、どう考えてもその活躍を小久保が周囲に話したからじゃないですか? それなのに、冬月先生は話してくれないなんて…… 水臭いじゃないですか?」

「いやぁ…… その話をしようと思うと、不問にして貰ったとはいえ、小久保の万引きの件や、不良高校生と関係があったことを話さなければいけなくなるので…… 話して良いものかどうか迷ってしまって」


 俺の返答を聞いて、黒桐室長はやれやれと溜息をついた。


「確かに、あの場にはバイト講師の先生方もいましたし、小久保の万引きの件がどこかに漏れて、変なことになったりすることを考えた冬月先生の気持ちも分かりますけど。冬月先生が何か悪いことをした訳じゃないんですから…… あんな風にしらばっくれられたら、変に疑うじゃないですか?」

「いや、本当にすみません」

「別に怒ってないですから、謝る必要はないですよ」


 黒桐先生のこの好意的態度の裏に、篠崎さんが広めてくれている校舎の評判があるのは間違いないだろう。


「むしろ、感謝しているくらいです。最近なかなかうまく行っていなかった卒業生の兄弟から、今度の講習の無料体験希望が篠崎さんのところに殺到しているらしいですからね」

「そうなんですか?」

「ええ、既に4件。篠崎さんの話では、あと3件は固いらしいです。それだけの数の申し込みが取れれば、ここ最近の数字の遅れも大きく挽回できますからね」


 予想通り、嬉しそうな顔で黒桐室長は続けた。


「それに、恐らくここから中二の申し込みも増えるでしょうね。生徒同士の口コミはそのまま保護者達にも伝播しますから。『そんないい先生がいるなら』と考えて体験を考える家庭も増える筈です。こうなると、次の講習では中二に冬月先生が入って頂かないとかも知れませんよ」


 どうやら、黒桐室長の中で色々計画が立てられているらしい。

 このチャンスを逃すまいと考えているのだろうが、昨日とあまりに変わってしまったその態度に俺は戸惑うばかりだ。


「これから忙しくなりますよ、冬月先生。お怪我もあるでしょうが、出来れば一緒に頑張ってください」

「それはもちろん。校舎の為に頑張らせて貰いますよ」

「よろしくお願いしますね」


 そう言って、校舎の電話の子機を手に黒桐室長は自席に戻ると、卒業生名簿を引っ張り出して講習への体験のおすすめ電話をかけ始めるのだった。


「……あの、冬月先生。黒桐先生どうしたんですか? なんかすごく機嫌がいいんですけど……」


 夕方になって校舎にやって来た夏川先生が不思議そうな顔をして俺にそう質問して来た。

 気持ちは分かる。

 昨日はあんなに不機嫌そうだった黒桐室長が、打って変わってご機嫌なのだ。

 夏川先生でなくても、驚いたことだろう。


「あはは…… 実はね……」


 流石に説明しないと納得いかないだろうと考えた俺は、小久保の一件から篠崎さんが校舎にやって来たことまで一通り説明した。


「……なるほど。そんなことがあったんですか」


 俺の説明を聞いて夏川先生は深くため息をついた。


「なんて言うか、現金ですよね黒桐先生って……」

「あはは、まぁそう思うよね……」


 実際、黒桐室長は現金だと思うので否定せずに苦笑いを浮かべる。


「それにしても、冬月先生だったんですね……」

「ん? なにが?」


 俺が聞き返すと夏川先生はやれやれと言った感じで説明してくれた。


「駅前の商店街で話題になってるんです。地元の不良高校生を更生させた先生がいるって……話を聞いたときには、ドラマみたいな高校の先生がいるんだなぁって、感心してたんですけど、まさか冬月先生だったとは」

「あぁ、篠崎さんが色々噂を広めてくれたみたいだからね……」


 どうやら、商店街の噂もかなり広まっているようだ。

 まさか、小久保を助けた件がこんな風に校舎に影響を与えるとは思わなかったが、これこそまさに結果オーライという奴だ。

 今日の一日で、飛び込みの体験希望が3件、卒業生の兄弟からの体験希望が10件、退塾生からの再入塾希望が4件もあったのだ。

 その全てが、例の不良高校生の更生と、小久保を助けたという講師に教わりたいと希望してのことだという。

 たった一日で17件の申し込みを取ったうちの校舎は、周辺地域の校舎を追い抜いて営業成績で現在一位となっているらしい。

 黒桐室長もご機嫌になる訳だ。


「でも、一番体験希望の多い中二に冬月先生は入ってませんよね?」

「多分、体験生が来るようになったら俺が中二の担当に入るらしいよ」

「え? それじゃあ中一の担当はどうなるんですか?」

「社員講師が入らないわけにはいかないら、黒桐室長が入るんじゃないかな? その辺はまだどうなるか聞いてないんだよね……」


 多分、黒桐室長もまだそこまでは考えていないのだろう。

 人が潤沢な訳ではないうちの校舎で、人を入れ替えるのは大変だ。

 それを考えるとこの後ひと悶着あることは間違いなさそうだ。


「冬月先生と一緒の学年を担当できなくなるんですね…… ちょっと不安です」

「あはは、俺の穴を埋めるのは多分黒桐室長だし、授業力や生徒管理力は凄い人だから大丈夫だよ」

「でも、ああいう人なので…… 美味くやって行けるか……」

「言いたいことは分かるけど、そこは俺がフォローするから……」

「これ以上冬月先生に負担をかけるわけには!」


 本来、校舎で一番頼りにされるべき室長先生がこの評価……

 いかに今の校舎の状況が歪んでいるかがそこにありありと現れていた。


「これからは出来ないことは出来ないって言うようにするし、しんどければ黒桐室長を飛び越えて、新見統括長とかにも相談するから心配しないで」


 新見統括長というのは、この地域を統括している地域管理者だ。

 以前この校舎で小鳥遊先生が室長だった頃に一緒に働いていたことがあるので、それなりに仲がいい。

 それもあってたまに相談をさせて貰っている。

 まぁ、黒桐室長になってからは、俺が新見統括長と直接やり取りをすると嫌がるのであまり連絡は取ってこなかった。

 だが、校舎の状況を改善して俺自身の負担を減らそうと思うなら新見統括長とのやり取りも必要だろう。

 季節講習の人手不足として人員の補充を新見統括長にお願いすれば、無茶な采配をしないでもよくなる筈だし、今回は早めに連絡を取っておく方がいいかも知れない。


「……新見統括長に? そんなことして、黒桐先生は怒りませんかね?」

「多分、今なら大丈夫じゃないかな? 校舎の状況は頗るいいし、こんな言い方するのはあれだけど、それが俺のお陰だっていうのも黒桐室長も分かってるだろうしね」


 鉄は熱い内に打てというやつだ。

 黒桐室長の中で俺への評価が高い内に、面倒事は片付けておいた方がいいだろう。


「冬月先生、夏川先生、ミーティングをするので控室に来てください」


 そんな風に夏川先生とやり取りをしていると、黒桐室長の声が飛んでくる。

 俺と夏川先生は顔を見合わせてから、短くため息をついてその声のする方へと歩いて行った。


「これはまた、すごい数のアンケートですね」

「あはは……」


 その日の生徒アンケートも、俺に対して寄せられたコメントがほとんどだった。

 ちなみに今日は中二が校舎にやって来る日ではない。

 受験生である中三の通塾日なのだ。

 それなのに、この状況……

 どうやら、俺の噂は最早中二に留まらず、どんどん拡散しているらしい。


「冬月先生って武術の達人だったんですか?」

「ううん、全然」

「ですよね…… なんか噂に尾ひれ手ひれが付いて凄いことになってそうですね」

「本当にね……」


 いつの間にか、俺はその噂の中で『武術の達人』となっているらしい。

 あのとき披露した『見えないパンチ』も、人間の認識の性質を利用した目くらましのような小手先の技術なのだが……

 いつの間にか『あまりの速さで見えないパンチ』ということになっている様だ。

 実際には触れてすらいない大崎君を叩きのめしたことになってる。

 その大崎君も2mを超える巨漢の男ということで噂は広がっている様だ。

 これは、噂を面白おかしく拡散している誰かがいるのだろうな。


「何か、中三の友人達も『その先生を見て見たい』とか、『その先生に勉強を教わりたい』とか言ってるみたいですね……」


 アンケートを確認していた斎藤先生が、困ったように笑ってそう言った。


「実際の俺を見て、その友達たちがガッカリしないといいんだけどなぁ……」


 友達が欲しいって言ってたからと、友人紹介の為の書類の入ったグッズを持って帰った生徒も十人は下らなかった。

 この『冬月フィーバー』はこれからしばらく続きそうだ。


「まぁ、お陰で黒桐室長の機嫌がよくて助かりますけどね。中三達も久々にピリピリせずに楽しそうに授業を受けれてましたし」

「そうですね。最近は教室の状況が良くなかったですから、黒桐室長が不機嫌だったので生徒達もビクビクしてましたしね」


 斎藤先生の言葉に、夏川先生も溜息交じりにそう答えていた。


「えっと…… 黒桐室長は本社に呼び出しでしたっけ?」

「ああ、うん。今日の突然の申し込み増加で不正を疑われて……」

「あはは、いつもの本社呼び出しと違って、『本社の連中に不正なんて何もありませんって言ってやりますよ』なんて言って、意気揚々と校舎を出て行きましたけどね」


 そんなわけで、校舎は俺が任せられているわけだ。

 黒桐室長がいないと、中一、中二の学年と同じで、残った先生達の口からは黒桐室長への不満に似た言葉が出て来てしまう。

 普段それだけ色々我慢しているということなのだろうが、やはり良くない状況だった。


 ふと、机の上のスマホを見ると、そこには春日からのメッセージが届いていた。


『どう? 諸々上手く行ったでしょ? アタシとお母さんに感謝してね』


 とのことだ。

 どうやら、円華さんも例の噂の拡散に尽力してくれたらしい。

 春日同様、人付き合いが上手い人なので、人脈はかなり広いらしいからな……


 俺は思わず口元を緩めて、そんな春日のメッセージにこんな返事を返した。


『ああ、お前のお陰で俺を取り巻く世界が激変したよ。感謝してる。円華さんにもありがとうございましたって伝えてくれ』


 すると、俺の顔を見て、夏川先生が「何かいいことでもありましたか?」と聞いてきた。

 どうやら、俺は相当緩み切った顔をしていたようだ。

 そんな夏川先生に、俺は噂を聞きつけた身内から変なメッセージが来ただけだと説明する。

 夏川先生は俺のその言葉を聞いて、クスリと笑った。

 どうやら、俺の言う『身内』の正体に気付いたらしい。


「瞳ちゃんも、少しは安心できるかも知れませんね」


 なんだか、最近俺の胸の内を見抜く人間が増えているような気がして、少しだけ不安になる。

 しかし、まぁ、きっとそれも悪いことではないのだろう。

 俺は、そんなことを考えながら、黒桐室長の代わりに業務報告を新見統括長に送る。

 

 ふと、思い出したようにスマホを手に取って、俺は新見統括長に久々にメッセージを送ることにした。


『今度、校舎のことで少しご相談があります。お時間のある日に、一緒にお食事でもいかがですか?』


 メッセージは送ってすぐに、既読になった。


『よろこんで。明日の業後などいかがでしょうか?』


 そして、一分とかからずにそう返事が来る。

 相変わらず、律義な性格をしている新見統括長に、俺は『分かりました』と返事をして、スマホを机に置いた。


 続く――。

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