第24話 22th lesson 彼女がこれほどまでに頼もしいと思えたことはあっただろうか?
「ただいま……」
玄関に入って、やっと手を離してくれた春日が視線で促して来た気がして、俺はそう言った。
すると、春日は嬉しそうに頬を緩める。
「うん、おかえりなさい」
なんだか、いつもやっているやりとりなのに、どうにも恥ずかしさを感じてしまう。
ここに来る直前に彼女と妙なやり取りをしてしまっていたのも、この気恥ずかしさの原因の一つだろう。
「夕飯出来てるし、お風呂も沸いてるよ。センセどっちを先にする?」
俺の方を春日はニヤつきながら見つめている。
恐らく、自分が口にした台詞が俺にそういう風に聞こえることが分かっているのだ。
いや、だってこれではまるで、アニメや漫画でよく見るやつではないか。
「そ、それなら、風呂に入るよ!」
もう春日は俺がそういう想像をしてしまったことに気付いているだろう。
俺は真っ赤になる顔を見られるのが嫌で、春日に背を向け自室に向かいながらそう言って廊下を進んだ。
「分かった! それならご飯温めて待ってるね!」
そんな俺のことをからかうように、春日は心底楽しそうにそう声をかけてくる。
見なくても分かる。
間違いなく春日は、満面の笑みを浮かべている。
『センセはそう言うの苦手だもんね…… ならさ、アタシがセンセを甘やかしてあげるよ。甘やかし方とか、甘え方とか、アタシが教えてあげる。だから、一緒に少しずつ覚えて行かない? 勉強をアタシに教えてくれるお礼に……ね』
先程の春日の言葉を思い出す。
まさか、アイツにそんなことを言われるとは思わなかった。
想定外の言葉過ぎて、上手く対応できなかったことが悔やまれる。
服を脱ぎ切った俺は、そのまま浴室に飛び込んで頭から勢いよくシャワーを浴びた。
まだお湯になっていない冷たいシャワーを浴びながら、俺は必死に頭を冷やす。
「あの言葉に、YesともNoとも答えずに、ただその手を握るとか…… 俺は何やってんだよ……」
顔が熱い。
だってあれではまるで、俺があいつに甘やかして欲しいと言っているようなものだ。
何歳も年の離れた元生徒を相手に、俺は本当に何をやっているのだろうか。
「そんな状態で、あんな思わせぶりなこと言いやがって…… 春日の奴、完全に俺のことをからかってるな」
そんな春日に完全に翻弄されている。
あいつの言葉や態度に、本気で照れてしまっている。
心のどこかで、あいつにときめきそうになっているのを自覚する。
彼女の母親に、偉そうに啖呵を切ったくせに、本当に情けない話だ。
「いや、まだ大丈夫だ。過労で倒れたり、怪我したりで俺の心が弱っているだけだ」
そう言って必死に自分に言い聞かせる。
それを言い聞かせている時点で、もうなんていうか負けな気もするが……
これは俺の心の問題なので、俺が敗北を認めない限りまだ大丈夫なのだ。
「とにかく、ここで一度色々立て直さないとな。春日のペースに持っていかれたらマズイ……」
ゆっくりと温かくなるシャワーを浴びながら、色々混乱していた頭がそのシャワーの温度に比例する様に少しずつ落ち着きを取り戻して来た。
取り戻すにつれて、先程の自分の失態を痛感して死にたくなるが、それについては考えるのをやめる。
「よく考えたら、春日のこと以前に、俺は色々考えなきゃならないことがあったんだった」
シャワーと止めて、俺はボディーソープで全身を洗いながら、校舎でのことを思い出す。
俺に対して大量に寄せられたアンケート。
その状況を快く思っていない黒桐室長。
あの状況は間違いなく、俺が小久保を助けた件に起因するものだ。
そう、先程の春日とのやりとりもそうだが、俺はそれ以前に小久保とその周辺の出来事についてでも、対応を大きく失敗している。
塞ぐべきだった口を塞ぎ忘れた。
この失敗は大きい。
あれだけのトラブルを解決したのだ。
小久保にとって、俺という存在は無視できないものになったことだろう。
俺が小久保の立場だったらそうだ。
普段あまり絡みのなかったパッとしない塾講師が、自分の絶体絶命の状況をいとも簡単に覆した。
思わず周囲に話したくなる気持ちは想像に難くない。
恐らく小久保は、仲の良い友人にだけ語ったのだろう。
自分の窮地を救った、意外なヒーローの活躍を。
だが、話を聞いた友人もまた、その話を誰かに話したくなるのが道理だ。
基本的に、噂というのはそうやって広がっていく。
そうして、口づてに広がった噂には、話し手の勘違いや誇張表現で尾ひれ手ひれがついて行くものだ。
これもまた防ぎようもないことだ。
伝言ゲームですら、たった数十文字の情報が歪んでいくのだからな。
小久保が友人に語ったちょっとした噂話は、数人の語り部を通じて立派な英雄譚に成長していることだろう。
「どんな話になって広がっているかは、もう想像もつかないな……」
そして、その噂が校舎に通っている生徒達を伝って、黒桐室長の耳に入るのも恐らく時間の問題だ。
そう考えると、俺のもう一つの失敗は、アンケートの件で黒桐室長に話を確認されたとき、しらばっくれてしまったことだ。
あそこでもう少し穏便に、ことの顛末を説明していれば良かったのかも知れない。
そうすれば、生徒達の間で大きくなった噂話が黒桐室長の耳に入る前に、もう少し起きてしまった出来事の印象を操作出来ただろう。
あのときは小久保の万引きを隠そうとして、変に誤魔化してしまったが、今考えればあれも失敗だった。
「まぁ、全部後の祭りなんだけどな……」
身体についた泡をシャワーで洗い流して、俺は湯船に身体を沈めた。
身体を包む湯船のお湯の温かさが、疲れた体にゆっくりと染み渡っていく。
「はぁ~…… やっぱ風呂は疲れが取れるな」
湯船に、俺の身体に溜まっていた疲れが溶け出していくような錯覚を覚える。
「ねぇ、センセ! お背中流しましょうか?」
「いらん!」
油断しきった俺に向けて、浴室の扉越しにふざけた提案をして来た春日の言葉に即答で断りを入れる。
「あはは、起きてたか。まぁそれならいいんだけど…… あんまり長湯だと、傷に障るからね。程々にして上がって来てね?」
「わ、わかった。もう少ししたら上がるよ」
「はぁ~い」
どうやら、今のは俺に対する生存確認だったらしい。
春日に言われて、俺は頭の傷が少し痛むのを感じた。
確かに、湯船で体を温めることで血行が良くなれば、血の巡りが良くなって頭の傷に障りそうだ。
先程の春日への対応、それより更に前の小久保への対応、加えてこの風呂での行動……
俺は自分が過労に至った疲れのせいで、どれだけ鈍っているかを痛感する。
脱衣所から春日の気配がしなくなるのを確認してから、湯船から上がる。
「これじゃあダメだな。本当に色々立て直さないと……」
気持ちと身体を引き締める意味でも、シャワーで水浴びをしてから浴室を出て着替えた。
洗面所の鏡に映った自分の顔に、しっかりしろと目配せする。
「よし、とりあえず頭の中は色々整理できたな」
俺は自分の両頬を手のひらで叩いて気合を入れてから、春日の待つ食卓へと向かった。
「お、少しスッキリしたみたいだね、センセ」
俺の顔を見て、そう言って笑う春日の顔は、先程とは別の意味で嬉しそうだった。
「散々からかった甲斐があったみたい。すっかりいつものセンセって感じだね?」
あの坂道での言葉は全てその為の演技だったのか。
そう思いそうになった自分が恥ずかしい。
「そんなに心配しなくても、アタシが責任もって、センセのことを甘やかしてあげるから安心しなよ!」
そう言った春日の顔は、俺のことを完全になめくさったような笑顔だった。
「もう、そんなお前の戯言には翻弄されないからな」
「ふむ、すっかりいつものセンセだね。良かった良かった」
俺の返答を飄々と受け流す春日が、いつもより厄介な気がするのは気のせいだろうか?
「それで? 生徒達に広がっちゃった噂の件は、センセはどうやって解決するつもり?」
「……お前は一体、どこまで見えているんだ?」
俺の胸の内について、こいつは気持ち悪いくらいに見透かしてくる。
そういうものだと受け入れて、もう驚かないつもりでいたのだが、こうしてまた完璧に見透かされると驚かずにはいられない。
「うーん、どうだろうね? 今のセンセの心情なら、だいたいは見透かしてると思うよ」
当たり前のことでも言うかのような春日の言動に薄ら怖さを感じつつ、俺は観念して胸の内を白状する。
「正直、どうしたものかと悩んでいるところだよ。小久保の口をふさがなかった自分の失態が招いた状況だけど、このままだと、色々面倒なことになりそうだ」
もう、色々深く考えるのをやめて、俺は春日は全てを把握しているだろうくらいの気持ちで語る。
「多分だけど、センセの活躍を拡散している人は、助けて貰った中学生以外にもいると思った方がいいよ?」
「小久保以外にも? どういうことだ?」
「だって、アタシの耳にその情報を届けたのは、その中学生経由じゃないでしょ?」
「なるほど、確かにそうだな。そのルートでも広がっていってるわけか……」
春日が言っているのは、篠崎さんや商店街の保護者達のことだろう。
自分を助けてくれた人の話を広める小久保以外に、以前子供が世話になった先生の武勇伝を元卒業生の保護者ネットワークを通じて拡散されているのだ。
そして、もう一つは春日も所属している卒業生ネットワークだろう。
こちらもまた、以前世話になった懐かしい先生の噂話として、面白おかしく拡散されているに違いない。
「ってことは、不良高校生サイドもか」
「そういうこと。もう、この情報の拡散をどうにかすることは不可能だと思うよ」
「だとすると、もう俺に出来ることは限られてるな……」
人の口に戸は立てられぬというやつだ。
こうなってしまうと、もう黒桐室長の耳に入る前提で対策を講じる以外に道はないだろう。
「こうなったら、黒桐室長に話をして――」
「ダメダメ、黒桐はセンセの言葉を素直には受け止めないよ。絶対に悪意のある曲解をしてなんか言ってくるって」
「しかしな、このまま生徒を通じて噂話が黒桐室長の耳に入ったら、それこそ面倒なことに……」
「ならないと思うよ。仮にあの噂が黒桐の耳に入ったとしても、多分あいつは最初、その噂を信じないと思うし」
自信満々にそういう春日の言葉を、俺はそのまま想像してみた。
黒桐室長の耳に届く噂話は、俺が不良から小久保を助けたという話に尾ひれと手ひれが付いた英雄譚だ。
下手をしたら、俺が並み居る不良を蹴散らして、小久保を救い出したなんていう話になっているかも知れない。
そんな話を、果たして黒桐室長が信じるだろうか?
「確かに、信じなさそうだな…… あの人の中での俺は、そんなことが出来るような人間じゃないだろうし」
多分、話を聞いても黒桐室長は『そんなバカな話があるわけない』と切り捨てるだろう。
生徒達が何か勘違いをしている……
そんな風に解釈するだろうことも想像に難くなかった。
「でも、俺が噂の発端になる何かをしただろうとは考えるんじゃないか?」
「そしたら、黒桐はどうすると思う?」
そこから先も想像してみた。
すると、容易に想像がつくのだ。
「俺のところに、事実確認をしにやって来るだろうな……」
「じゃあ、その前に事の真相を知っている誰かが、校舎にやって来て、黒桐の前でセンセに感謝を告げたらどうなる?」
そう言われてハッといた。
俺は別に悪いことをしたわけではないのだ。
自分の口からそれを語ると、どうしても厭味ったらしくなってしまう。
だが、第三者からそれが公然の事実として黒桐室長に伝われば、ことは大きく歪んだりすることなく事実だけを伝えられるかも知れない。
「ってなわけで、アタシは香澄にお願いしておいたんだ。『明日、昼一で今回の件のお礼を校舎にしに行くようにお父さんに頼んで』って。香澄は二つ返事でOKしてくれたよ! 言ったでしょ? アタシがセンセを甘やかしてあげるって」
そう言って胸を張る春日。
そんな彼女がこれほどまでに頼もしいと思えたことはあっただろうか?
「まぁ見ててよ、センセ。今回の件に関しては、アタシが上手く収めてあげるからさ!」
俺は内心ほっとしていた。
春日の言う『甘やかす』というのが、こういう意味であってくれたことに。
春日は俺に夕飯を差し出すと、やはり嬉しそうにこちらに向かってウインクした。
続く――。
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