第23話 21th lesson 彼女が背負う星空もあいまって、春日の姿が何処か神秘的に見えた気がした。
「お疲れ様です、冬月先生。 今日はもう体調は大丈夫ですか?」
出勤するなり、黒桐室長が俺の体調を気遣うなんて珍しいこともあるものだ。
そんな風に一瞬考えて、昨日のやり取りを思い出す。
あんなやり取りをした翌日なので、黒桐室長も一応そういう気遣いをしてみたというところだろう。
「ええ、昨日ほどはしんどくないですよ。 お気遣いありがとうございます」
なので、俺もそんな黒桐室長に合わせて、笑顔を浮かべてそう返す。
例えポーズだったとしても、こうしてこちらを気遣ってくれたのは事実だ。
なら、それに対して素直にお礼を伝えた方が、向こうも気を使った甲斐があるだろう。
そういうやり取りを積み重ねていけば、その内に健全な形で職場の仲間を自然と気遣える環境が作れるかも知れない。
塵も積もればというやつだ。
職場の環境改善をすることを決意したのだから、こういう小さな努力を積み重ねて見てもいいかも知れない。
「それは良かった。 では本日もしっかり働いてください」
「分かりました。 本日も誠心誠意お仕事をさせて頂きますよ!」
「……? そうですか。それではよろしくお願いします」
俺のそんな胸の内など知る由もない黒桐室長は、まるで息をするように俺に嫌味をこぼして控室に去って行く。
最早彼のあれは彼特有のコミュニケーションの一種だと思って、聞き流すのがいいのだろう。
いちいち気にしていたら、こちらの身がもたないというのが本音だが……
「……夏川先生、どうかした?」
「いえ、なんか冬月先生の雰囲気が変わったような気がして……」
「? 俺の雰囲気が変わった?」
ぼんやりそんなことを考えながら、俺が黒桐先生の背中を見送っていると、夏川先生が怪訝な顔をして俺にそんなことを言って来た。
「はい。何だか、黒桐先生のことを優しい表情で見送っていたような……」
「ああ、そういうこと。なんていうか、あれだよ。色々考えてやきもきするのもバカみたいだしさ。それに、色々諦めようとして、くたびれて溜息つくのも疲れるし…… いつか良くなることを信じて、見守ろうと思ってね。生徒の成長を見守る感じに近いかな?」
「なるほど……?」
俺の心境の変化を説明するのは難しかったらしい。
夏川先生は、分かったような分からないような微妙な顔をして苦笑いを浮かべていた。
「なんか中二のアンケート、冬月先生に対するコメント多くないですか?」
終業ミーティングの後で、生徒から集めたその日のアンケートを見ていた下田先生が、そんなことを言って俺のところへやって来た。
手渡された中二の生徒達のアンケートを見てみると、確かに担当講師以外へのコメント欄に、俺宛てのメッセージが大量にあった。
「ホントだ…… 珍しいね。俺担当してないのに……」
もちろん心当たりはある。
小久保だ。
恐らくは彼が、今日の一件について友達に話すか何かしたのだろう。
その証拠に、『必殺技を俺にも教えて下さい!』というコメントが一番多かった。
「この『必殺技』って何すか?」
「あはは、何だろう? 俺に必殺技なんてないんだけどなぁ……」
小久保に口止めを頼むのを忘れたのは失敗だったかも知れない。
いや、別に隠し立てするようなことでもないのだが、変な噂が立って変な連中が集まっても困るからなぁ……
しかし、もうそれは後の祭りと言うやつだ。
これだけの生徒に噂が広まってしまったのであれば、この噂をどうにかすることは不可能だ。
「…………」
しかし、この状況に面白くなさそうな顔をする人物がいた。
「なんなんですかね、これは。冬月先生、なにか心当たりはないんですか?」
学年担当制を敷き、自分がその学年で一番生徒からの人気を集めていると自負している黒桐室長だ。
俺へのコメントを寄せてくれている生徒達の中には、講師の間で『黒桐チルドレン』と呼ばれている、黒桐室長っ子も混ざっていた。
なんだかんだで、生徒からの人気を気にしている黒桐室長にとって、この状況は面白くないのだろう。
「いやぁ…… 心当たりと言われても……」
「冬月先生に心当たりもないのに、こんな風に二年の生徒達が突然盛り上がっているなんて異様です。絶対に何かなければ、こんな状況にはならないはずですよ?」
俺に疑惑の眼差しを向けてそういう黒桐室長が、俺に対して何を疑っているのかは分からない。
ただ、この突然の冬月人気の原因を説明しろということなのだろう。
さて、どうしたものか……
「うーん……」
今日の出勤前の出来事を丸々全部話すのは躊躇われた。
本来なら刑事事件になっていたところを、篠崎さんのご厚意で何事もなかったことにして貰った一件だ。
ここにいる人達に話すことでそれが誰かに伝わって、小久保や大崎君達に何かあっても困る。
ただ、この俺への生徒達の注目は、あの一件の話をしなければ説明は不可能だ。
しかし、何か別の出来事をでっち上げて話しても、生徒達との間の情報の齟齬が生じれば、それはそれで面倒なことになる。
「いや、俺には心当たりがありませんね…… 申し訳ありません……」
結果、俺は『知らぬ存ぜぬ』を貫き通すしかなかった。
仮に生徒達があの件のことに触れて来たとしても、『人違い』で済ませる以外にないだろう。
まぁ、後で小久保にはどんな話を周囲にしたのかは聞かないといけなそうだが……
「本当ですか?」
「ええ。すみません」
俺のことを疑い深く見つめてくる黒桐室長には悪いが、俺はひたすらにしらばっくれる。
「……分かりました。ではそういうことにしておきましょう。ただ、担当学年以外の生徒には、基本的に積極的に関わらないようにして下さい。現担当講師よりも担当していない講師の影響力が出てしまうと、生徒の管理体制のバランスが壊れてしまいますから」
「ええ、分かっています。今後もそれは気を付けさせていただきます」
「……本当に頼みますよ、冬月先生」
深くため息をついてから、黒桐室長は荷物をまとめて席を立つ。
「それではお先に失礼します。中二担当の先生達は、この後ご飯でも食べながら色々話したいので、一緒に来てもらってもいいですか?」
そう言って黒桐室長は、中二担当の講師達を引きつれて校舎を出て行った。
「ふぅ~……」
校舎に残ったのは中一担当の講師達だけだ。
相変わらず黒桐室長は教室の清掃なんかはやってくれないが、最近は中一担当の先生達が手伝ってくれるので以前よりは早く清掃が終わるようになっていた。
教室の清掃をしながら、夏川先生が俺に改めて質問して来た。
「それで、本当は何があったんですか?」
俺は夏川先生に本当のことを話すかどうか一瞬迷ってから、誤魔化すことを選んだ。
「いや、本当はって、なんにもないですよ?」
理由は、どこで誰が聞いているか分からないからだ。
夏川先生達を信頼できないわけではないが、なんとなく黒桐室長に伝わるのを避けたかったのだ。
「……話せない事情があるみたいですね。そういうことなら、もうこれ以上は聞きません。でも、黒桐先生は今度、アンケートを書いた生徒達に色々聞くと思いますよ?」
「あはは、そうだろうね。あの目は完全に俺のことを疑ってたし…… でも、なんにもなかったんだから、生徒に聞いても一緒だよ。まぁ、何かを勘違いしてたりするのかも知れないけどね……」
何があっても話すつもりがないということを、夏川先生は俺の態度から読み取ったのだろう。
本当にその言葉通り、彼女はその件についてそれ以上俺に何も聞いてこなかった。
「それにしても、怪我の調子や体調はもう大丈夫なんですか?」
「ん? うん。もちろん、傷を触ったりしたら痛いし、身体には疲れが残ってるけどね…… しばらくは春日も俺の負担を考えて、色々フォローしてくれてるし、俺も無理をするのはもうやめることにしたからね」
「そうですか。それならいいんですけど……」
心配そうな表情で俺を見つめる夏川先生に、俺は安心させたくて笑顔を向けた。
「ただ、冬月先生の『大丈夫』はあてになりませんからね。しばらくは先生が無理をしないように、様子を見させて貰いますからね」
「う、うん…… お手柔らかに頼むよ……」
すると、夏川先生はそれとこれとは別ですからという態度で、俺に対する監視体制の継続を笑顔で告げる。
俺はそんな夏川先生の笑顔を見て、背中に冷たい汗を感じた。
駅の改札前で夏川先生と別れた俺は、一人で自宅に続く坂道を登っていた。
「お、ヒーロー発見!」
すると、そんな俺に背後から声をかけてくる人物がいた。
「ヒーローって…… 何のことだよ?」
そちらを振り返りながら俺がしらばっくれようとすると、その人物、春日はニヤリと笑って俺の質問に答えた。
「何って、センセがやった人助けのことですよ。不良高校生に脅されたいた中学生を助けて、改心させたんだよね?」
「っ!? 何でお前がそのことを?」
「……はぁ~、センセって賢そうでそう言うところ抜けてるよね。篠崎香澄ちゃんは、アタシと同学年だったんだよ? センセは知らないだろうけど、あの学年のグループメッセージは未だに生きているの。香澄がお父さんから聞いた話として、センセのご活躍をグループに投下したってわけ」
「ああ、そう言えばそうか……」
言われて思い出した。
篠崎さんのところの娘さんは、春日と同学年だった。
父から娘へ、そしてそこから卒業生へと情報が拡散された訳か。
篠崎にしてみれば、懐かしい講師の名前が保護者から出て、思わずその話をグループチャットを通じて話したのだろう。
「本当に、センセは相変わらだね…… 職場の環境を整備するとか言ったけど、そうやって職場の外で厄介事に首を突っ込んでたら、休まる身体も休まらないでしょうに……」
春日からそんな呆れたような声が聞こえてくる。
しかし、返す言葉がなかった。
全部彼女の言う通りだからだ。
「すまん、心配してくれてるのに――」
「まぁ、センセのそう言うところ、アタシは好きだけどね」
俺が慌てて謝罪しようとすると、春日がそう言って笑う。
そんな彼女の笑顔に、悔しいが少しだけ胸がときめいた。
「生徒のこと放って置けないのは、先生のいいとこだと思うよ。ただ、自分が怪我してることとか、そういうことまで忘れて突っ走っちゃうのはやっぱ心配だな」
「ぐっ……」
その通り過ぎて帰す言葉もない。
「それに、今回はしょぼい不良高校生だったからよかったけど、もしもガチのヤバい不良だったら、今頃センセはまた病院にいたか…… 下手をすれば殺されてたかもってことはちゃんと考えて欲しいよ」
「いや、お前の言う通りだな…… 小久保、生徒がヤバいかもって思って、後先考えずに色々やっちまったことはどう考えても軽薄だったと思う。下手をすれば、俺だけじゃなくて生徒も危険にさらしてた訳だしな……」
俺がそう言って春日に頭を下げると、春日は小さな声でぼそりと何かを言っていた。
「はぁ…… 別にアタシはその生徒のことは全然心配とかしてないんだけどなぁ……」
その春日のつぶやきは俺には聞き取れなかったが、多分俺のことを心配してくれていたのだろう。
それはその表情を見てなんとなく分かった。
だから、俺はまず、心配をかけたことを春日に謝ることにする。
「すまん。自分の身体のことを忘れて、危険なことをしたことと、お前に心配をかけたこと。本当に悪かったと思ってる」
俺は春日に向かって深く頭を下げた。
すると、春日はそんな俺のことを見つめて、にっこりと微笑んだ。
「うんうん、分かればよろしい」
そして、俺のところまでゆっくりと歩み寄って来た春日は、下げたままの俺の頭をその手で優しくなでた。
「でも、生徒のことを身体を張って守ったセンセは、とてもカッコ良かったんだと思うよ。きっとそのカッコよさは、助けられた生徒には伝わってると思う。自分のことを大事にしなかったことは駄目だけど、センセのやったことは、人に誇るべきいいことだよ。だから、偉いねセンセ。センセは教師の鑑だね!」
俺は、誰かに褒められたくて、小久保を助けたわけじゃない。
でも、こうして春日に頭を撫でられて、『偉い』と言われたことが、自分が思っていた以上に嬉しくてびっくりした。
「あはは…… その顔。アタシに褒められて思いの外嬉しくて驚いてるんでしょ?」
「……お前は本当に、エスパーか何かなのか?」
「エスパーって…… センセって頭いいのにバカだよね? アタシはただ、センセのことをずっと見て来たから、センセのことに、他の人より少しだけ詳しいだけだよ」
俺に頭を上げるように言ってから、春日はこちらに背を向けて家に向かって歩き出す。
「センセはさ、基本的に自己評価低いし、無茶してばっかだし、今は上司に恵まれてないから…… こんな風に誰かに褒められるなんてことあまりないんだよね。でも、見てる人は見てるんだよ。香澄のお父さんも、センセの事『素晴らしい先生だ』って言ってたらしいよ? センセが助けた中学生も、悪さしてた筈なのにセンセの子分になってたっていう不良高校生も、そんなセンセのことを認めて、好きになったんだと思う。だからさ、ホントはセンセはもう少し、自分のことを甘やかしてもいいんだよ」
星空を見上げながら、その夜空に手を伸ばして春日はそんなことを言った。
『自分を甘やかしてもいい』
そんな風に言われたことはあまりなかったから、戸惑った。
そして、俺にはどうやったら自分を甘やかせるかが分からなかった。
「今、センセ。自分の甘やかし方が分からないって思ってたでしょ?」
こちらを振り向いて、俺の胸の内を言い当てる春日の笑顔。
彼女が背負う星空もあいまって、春日の姿が何処か神秘的に見えた気がした。
「センセはそう言うの苦手だもんね…… ならさ、アタシがセンセを甘やかしてあげるよ。甘やかし方とか、甘え方とか、アタシが教えてあげる。だから、一緒に少しずつ覚えて行かない? 勉強をアタシに教えてくれるお礼に…… ね」
差し出されるその手を、俺は気が付いたら握っていた。
それを嬉しそうに目を細めて見つめた春日は、その手をそのまま引っ張って俺を家まで連れて行くのだった。
続く――。
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