第21話 19th lesson まさか、令和の時代にこんな不良漫画みたいな状況に陥るとは思わなかった。
目を覚ますと、いつもより頭がすっきりとしているのを感じた。
時間にして数時間睡眠時間を増やしただけで、目覚めたときの感覚がこんなに違うのかと驚く。
「額の傷はまだ痛むけど、いつも感じてた朝のだるさは感じないな……」
いかに今まで自分が無理をしていたかを痛感する。
いつもは、必ずと言っていい程出ていた欠伸も出なくなっている。
それは恐らく、睡眠が十分な証拠だろう。
「寝るのって大事なんだな」
「あったり前でしょ…… もうほんとセンセはときどき人間じゃないよね」
俺の独り言に春日の声が応える。
自室の入り口に視線を向けると、制服の上にエプロンというマニアックな姿の春日が見えた。
こちらを呆れた顔で見つめている。
「睡眠と食事は、健康な生活の大前提! 食事の方がアタシが責任もって面倒見てあげるから、センセは、良質な睡眠を追及して。とりあえず、アタシに買ってくれたみたいに、新しい寝具を今度のお休みには買いに行こう!」
「あ、ああ…… 分かった。出来るだけ気を付けるよ」
「よろしい。それじゃあ、朝ご飯が出来てるから、顔洗ってダイニングね」
それだけ言うと、春日は駆け足でキッチンへと戻って行った。
俺はその背中を追うように立ち上がり、洗面所を目指した。
「よく噛んでゆっくり食べること。食欲あるならおかわりOKだけど、一応バランスは意識して」
「……なんか、少し口うるさくなったな」
「センセの絶望的な不健康さが証明されたからね。アタシはそんなセンセの健康の維持に努めることに決めたの。センセはアタシの学力向上に心血を注いでくれているけど、アタシはセンセの健康維持に心血注ぐから!」
「いや、受験勉強に心血を注いでくれよ……」
「もちろんそっちも頑張りますとも。でも、この家に置いて貰って、勉強を教えて貰う対価として、アタシは先生の健康を守るって決めたの。だから、アタシの命令には絶対順守でよろしく」
どうやら、とんでもない鬼コーチがついたようだ。
まぁ間違いなく、蔵王先生の入れ知恵だろう。
夏川先生に引き続き、蔵王先生とも繋がった春日は、それぞれとかなり頻繁に連絡を取っているらしい。
そのついでに、それぞれの得意科目のアドバイスも貰っているようなのでありがたいのだが……
蔵王先生に何を吹き込まれたのかは知らないが、こうしてやる気になっている春日に変なことを言って、勉強を頑張るモチベーションまで崩されては困る。
仕方がないので、しばらくの間は春日に逆らわないようにしよう。
「俺も、もう少し自分を労える様に、職場の環境改善を頑張ってみようと思ってるよ」
絶品のなめこ汁をすすりながら俺がそう言うと、春日は驚いて目を丸くした。
「自分を犠牲にすることで職場を円滑に回そうとしてたセンセが、自分を労える様に職場環境か改善する!? ……いつの間にか、センセも立派に成長したんだねぇ」
ハンカチで涙を拭くようなわざとらしいジェスチャーをする春日。もちろん涙は流していない。
「そういう言い方をされると返す言葉もないが、何でお前はそんな上から目線…… というか、俺の保護者みたいな目線なんだよ?」
「センセの健康を保護するって意味では、アタシってセンセの保護者じゃん? それに、自虐を美徳だと思ってるんじゃないかってくらいに、自分を犠牲にするやり方を好んで取ってたセンセが、そのやり方をやめて、環境の方を変えようって言いだしたんだもん。そりゃセンセのことを長く見て来たアタシからしたら、『成長したなぁ』って感想になるのもしょうがなくない?」
「……無茶苦茶なロジックだな」
正しいような正しくないような論理を振りかざす春日だが、俺に関する分析だけはしっかり的を射ている。
本当によく見られているのだな、俺は。
それが嬉しいようなむず痒いような、ある意味では少し怖いような気がして、口元が緩んだ。
ん? いやなんで緩んだんだ、口元。
どうやら、口元以外にも色々緩んでいるらしい。
「でもまぁ、そういう意味では、俺達はお互いがお互いの保護者なのかもな」
釣られて、俺も俺でよく分からない論理を展開していた。でも、それでいいのだろう。
春日の焼いてくれた紅鮭を頬張り、白米を口に運ぶ。
バランスの整った朝食は、俺の五臓六腑に染み渡っている気がした。
「にしても美味いよな、春日が作ってくれた朝食は…… 本当いい嫁さんになると思うよ」
緩みすぎた思考のせいで、口に出すつもりのなかった言葉がこぼれてしまった。
それを聞いて、春日の顔がみるみる赤く染まっていく。
「……へ、変なこと言わないでよ、センセ! そんなこと言っても、夕ご飯が豪華になったりしかしないからね!」
「いや、別に今でも十分豪華だろ?」
「ほ、ほんとそういうとこだよ、センセ!」
俺も自分の言葉に照れていたのだが、俺以上に照れていた春日にはそれに気付くことは出来なかったようだ。
「やばっ! そろそろ家を出ないと、遅刻しちゃう!! 悪いんだけど、センセ朝ご飯の片付けお願いね!」
そう言って自室に飛び込む春日だが、時計を確認する限りまだ遅刻するような時間ではない。
恐らく、照れ隠しが半分なのだろう。
そのままバタバタと玄関を飛び出して行く春日の背中を見送ってから、俺はゆっくりと春日の作った朝食を味わう。
「いや、マジで美味いな…… 春日は何時に起きてこの準備してたんだろうな」
食べ終わった食器を流しに運んで、そのまま洗ってしまうことにする。
おかずの品目から考えて、調理にかかった時間は一時間では済まないだろう。
「下手をすれば二時間とかかかってるよな……」
つまりは俺より二時間も前に起きて準備をしていたってことだ。
春日だって疲れているはずなのに、なんだか随分負担をかけてしまっている気がする。
俺は食器を棚に仕舞いながら、これではどちらが世話になっているか分からないなとため息をつく。
俺が彼女の勉強を見る見返りに、彼女には家事全般をやって貰っているはずなのに、今の俺は十全に彼女の勉強を見れていない。
これでは、彼女に家事全般を一方的に押し付けてしまっているのではないだろうか?
まぁ、恐らくこのことを彼女に聞いても『体調悪いときは仕方ないでしょ。センセ気にし過ぎ。真面目か。ウケる』とか言われそうなものだが……
「せめて、何か贈り物でもして労うくらいは必要な気がするな」
洗い物と食器や調理器具の片付けを終えた俺は、仕事着のスーツに着替えて少し早いが家を出ることにした。
ただ、その足ですぐに職場に行くことはしない。
それでは自分を労うと決めた決意を、早々に違えることになってしまうからだ。
では、何故早く家を出たのかと言えば、先程思い付いた春日へのプレゼントを買う為だった。
「ふむ、改めてプレゼントを買おうと思うと、何を買っていいのか分からないな……」
よく、漫画やドラマでよく見るシーンだ。
主人公が女性へのプレゼントを友人に相談するというものだが、自分自身がその状況になってみて初めてその主人公の気持ちが分かった。
確かにこれは、誰かに相談をしたくなる状況だ。
せっかくのプレゼントなので喜んで欲しい。
だが、生憎と俺も自分のセンスというものに全くもって自信がない。
このまま俺自身の力だけで選んだプレゼントを春日に送れば……
『センセが選んでくれたことがまず嬉しいよ』
と間違いなく微妙な表情で、気遣いの言葉を言わせてしまう自信しかない。
「けど、こういうときに相談できるような友人が、残念ながら俺にはあまり多くないな……」
ポケットからスマホを取り出して、俺はメッセージアプリを起動する。
相談の候補は二人。
一人は唯一の友人である赤木。
そしてもう一人は、職場の同僚で春日のことを知っている夏川先生だ。
赤木に相談する場合、現状の状況を説明するのが面倒くさい。
かと言って夏川先生に相談すれば、高確率でその情報が春日に伝わってしまうだろう。
夏川先生は俺が春日に内緒で相談に乗って欲しいと頼めば、恐らく秘密にしてくれようとはするだろう。
が、相手は春日だ。
間違いなく、夏川先生からその秘密を聞き出してしまうだろう。
まぁ、サプライズでプレゼントを送りたいわけでは特にないので、それが伝わってしまってもさほど問題は無い気がするが……
「なんとなく、それが嫌だと思ってしまうのは不思議な感覚だな」
いっそ春日本人に相談してしまう手もあるだろうが、あいつのことなので遠慮して本当に欲しいものは言わなそうだ。
さて、どうしたものか……
「ん? そうか、この手があったか」
メッセージアプリを眺めていて、もう一人の相談相手の存在を思い出す。
彼女であればあるいは、有益な情報をくれるかも知れない。
俺はスマホを操作して、その人物にメッセージを送った。
すると、すぐに返事が返って来るのだった。
「よし、プレゼントも買えたし、丁度出勤にもいい時間だ。そろそろ校舎に向かうとするか……」
俺は買ったプレゼントを鞄に押し込み、校舎に向かって歩き出す。
すると、視界の端に知った顔の姿を見た気がした。
「ん? あれは確か、二年の小久保か……」
一瞬だったので見間違いかも知れない。
だが、うちの塾に通う生徒で中学二年の小久保洋輔が商店街の路地裏に消えて行ったように見えたのだ。
確かあの先には家も何もない袋小路だったはずだ。
「あいつ、一体あんな場所に何の用だ?」
俺の頭を良くない想像が過ってしまう。
あの手の路地裏には、基本的にろくでもない連中がたむろしていることが多い。
違法薬物のやり取りやカツアゲ……
よからぬ何かの気配を感じて、俺はそっとその背中の後を追うように路地裏へと足を進めた。
「おい、持って来たか?」
「は、はい……」
「やったところは誰にも見られてないだろうな?」
「た、多分……あの店は棚が多くて死角も多いし、防犯カメラも設置されてないから……」
「よぉーし、いいじゃねぇか! お前はなかなか優秀だな…… 結構金になりそうなもんをパクって来たじゃねぇか!」
路地を進むと、そんなやり取りが聞こえて来た。
片方はやはり小久保の声。
もう一人は声色からして、高校生か大学生と言ったところか?
会話の内容から察するに、小久保を脅して万引きをさせたと言うところだろう。
「こ、これでもういいですよね? 俺も、俺の弟も、解放してくれるんですよね?」
物陰から声のする方をそっと覗くと、小久保が柄の悪そうな高校生たちに質問していた。
「はぁ? お前何言っちゃってんの? これパクって来たのお前じゃん? 俺達がこれ持って、お前の襟首掴んで警察に突き出したら、お前どうなると思う? え? 分かんないの?」
「そ、そんな!? そうすれば解放してくれるって言うから俺は……」
「お前使えそうだし、そんな簡単に開放するわけねぇだろ? これからしっかり働いて貰わないとなぁ…… まぁ、恨むんならお前の馬鹿な弟を恨むんだな? 俺の弟に手を出してケガさせたんだからよ……」
「う、うぅ…… そんなぁ……」
どうやら、想像通りの状況らしい。
小久保の弟というと、確か中一だったか?
その弟が、あの不良高校生の弟と喧嘩でもしたのだろう。
喧嘩で負けた不良高校生の弟が、兄に復讐を依頼。
小久保はそんな弟を助けるために、彼らの言いなりになって万引きを働いてしまったようだ。
「俺らがお前に万引きをするように言ったなんて証拠はねぇからな。俺達が善意の高校生としてお前を警察に突き出せば、お前は万引き犯として警察に捕まっちまうわけだ。そうなったら、親や学校にも連絡が行って…… 大変なことになるだろうなぁ?」
「そ、それは!」
俺はそんな彼らのやり取りを、スマホを使って撮影する。
もしもの為の保険として、証拠を残すためだ。
「まぁ、お前がこれからも俺らの命令に従って、今日みたいにこのおんぼろ商店街の店で万引きしてくるなら、俺らはお前を警察に突き出したりはしねぇよ。安心しろって、仲間なんだからよ。なぁ? 小久保」
「そんな、俺は…… 俺は……」
もう泣きながら、小久保は両手をきつく握って俯いていた。
まさかこの令和の時代に、こんな昭和な不良がいるとは思わなかったが、どうにも面倒なことになっている様だ。
「はぁ…… 俺、腕っぷしには自信ないし、そろそろ出勤しないとなんだけどなぁ……」
天を仰いでそんなことを呟いてから、俺は勇気を出して声のする方へと足を進めた。
「悪いがその小久保は俺の生徒なんだ。これ以上そういう良くないことをさせるのはやめてくれないか?」
「な、なんだよおっさん! 何しに来たんだよ! あぁ!?」
俺の登場に動揺する不良高校生たち。
こちらを睨みつけて凄んでくるが、予想外に大人が登場したことで動揺していることが伝わってくる。
まぁ、中学生をあんな風に脅してやらせている犯罪が万引き程度なのだ。
この不良高校生たちも、俺が若かったころに出会ったバリバリの不良たちとはだいぶ程度が違うのだろう。
「そこの小久保がこの路地に入るのが見えて、不思議に思ってついて来たんだよ」
「はぁ? お前はコイツの父ちゃんか何かか?」
「いや、小久保の通う塾の先生だが?」
「はぁ~? 塾講がこんなとこにしゃしゃって来てんじゃねぇよ! これは俺達と小久保の問題だ。部外者の先生はとっととどっかに失せてくれねぇか?」
俺がただの塾講師だと分かって、仲間たちと馬鹿にしてかかる不良高校生たち。
何故だかこの手の手合いは、俺のような塾講師をバカにしてかかる節があるんだよな。
まぁ、彼らは学校の教員たちもバカにしていることが多いので、それと同じ流れなのかも知れない。
「部外者ではないからここに来たんだ。なんだが、この小久保の弟と君の弟が揉めたようだが、それを理由に小久保に万引きを強要するのは了見が違うんじゃないか?」
「は、はぁ? 万引きを強要って何のことだよ? 先生は何か勘違いしてんじゃねぇか?」
「ああ、それは大丈夫。さっき君達が小久保に色々言っていた会話も、今君が話している会話も、このスマホでずっと録画しているから。もう既に、証拠の方はこっちにあるんだ」
「んなっ!?」
俺が指差した胸ポケットをじっと見て、そこにスマホのカメラがあることに気付いた不良高校生は狼狽えた。
「俺はこれから小久保を連れてその商品を盗んだ店に謝りに行く。悪いんだけど、君達は小久保から手を引いて、今後一切小久保に接触しないでくれないか? さもなければ、俺がこの映像を警察に持って行って、ここでの一部始終を警察で話すことになるけど……」
これで引いてくれれば恩の字なのだが……
「ふ、ふざけんなよ、おっさん! そんなもん、おっさんを叩きのめして、スマホをぶっ壊せばいいだけだ! おい、こいつをやっちまうぞ!!」
なんとなくこうなる気がしていたので、俺は特に驚きはしなかったが、俺の代わりに小久保の方が驚いて俺を振り返った。
「冬月先生! こいつら県立工業のヤバい奴らなんだ! 先生じゃ敵わないから、逃げてよ!!」
この期に及んで俺の心配をしてくれる小久保はいい奴だと思った。
「あはは、それは無理だろ。あちらさんはもう、俺達を囲んで逃がす気はなさそうだしな」
まさか、令和の時代にこんな不良漫画みたいな状況に陥るとは思わなかった。
俺は、気合の入った金髪の不良高校生たちに囲まれて、やれやれと溜息をつく。
願わくば、職場に遅刻しませんように。
そう祈ってから、大きく肩を回すのだった。
続く――。
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