第20話 18th lesson そんな考えがまとまったところで、俺はやっと睡魔に抗うのを辞めるのだった。
「おかえり! 大丈夫? 眩暈とかしない? 傷は痛まない?」
玄関に駆け足でやって来た春日が、俺の顔を覗き込んでそんな風にまくし立てた。
「あはは、そんな心配しなくても大丈夫だよ。眩暈はしないし、傷もそんなに痛まないし」
「そんなにってことは痛いんじゃん! 傷見てあげるからダイニングに来てよ!!」
俺から鞄をひったくると、背中を押してダイニングに連れて行く春日。
そのまま俺を椅子に座らせて、救急箱を持って来ると頭に巻いてある包帯を器用にほどいていく。
「うーん、化膿はしてないっぽいね。傷も開いてない。でもやっぱ少し腫れちゃってるな…… お薬塗ってあげるから、終わったらすぐに楽な服に着替えてね。着替えたらこのアイスノンで少し傷まわりを冷やすこと。アタシは夕飯をすぐに準備するから。それから……」
「分かった分かった。そんなに心配しなくても大丈夫だから」
「センセの大丈夫はあてにならないの! 蔵王先生からも頼まれてるんだから、センセは私の指示に絶対服従ね。拒否権はないから、そこのところよろしく」
春日は慌ただしくエプロンを身に付けると、宣言通り夕食の準備を始める。
そんな春日を脇目に、自室で手早く部屋着に着替えてから洗面所の鑑で顔を確認した。
「はぁ~…… マジで痛々しいよな、これ」
器用な春日が巻き直してくれた包帯が、もう何とも痛々しい。
実際結構大きく額が割れていたので、この包帯は決して大げさなものではない。
……ないのだが、この状態の講師がホワイトボードの前に立って授業をすれば、そりゃ生徒達も心配するわけだ。
「傷が残るかもって言ってたけど…… 小学部の子供たちに怖がられなけりゃいいなぁ」
俺はまた鏡の前で盛大に溜息をついてから、大きく伸びをしてダイニングへと向かった。
「センセ、アイスノン!」
「分かってるって! ちゃんと冷やすから安心しろ」
椅子に座る俺に、春日が念を押すように言うので、用意して貰ったアイスノンをフェイスタオルに包んで額に当てた。
ヒンヤリとした冷気が、顔にも降りて来て涼しい。
額の傷の軽い痛みも、冷やすことで少し和らいだ気がする。
「今日の晩御飯は、傷の治りを早めるっていう食材で作ってみました!」
冷奴、牛モモ肉とアスパラの炒め物、玄米入りご飯、キウイ、レバーの焼き鳥、カキフライ……
「タンパク質に、亜鉛の多い食材のメニュー。それに亜鉛の吸収を助けるビタミンの多い食材のメニュー…… 栄養のバランスも考えてあるから、ちゃんと食べてね!」
「いや、晩御飯にこの量は……」
「全部食べてね!!」
なんだか過保護すぎる気もするが、それは要するにそれだけ心配をかけたということだ。
ここはせっかく作ってくれたこの大量の晩御飯をしっかり食べきるのが、そんな春日への恩返し兼報いだろう。
俺は覚悟を決めて箸を手に取った。
「そして、憎たらしいくらい全部美味いんだよな……」
「ふっふっふっ! 全部私の自信作だからね!」
「本当にお前は、いい嫁さんになるよ」
「ふぇっ!? ……もう、本当にそういうとこだよ、センセ!」
胸を張ってドヤ顔をしたと思えば、顔を真っ赤にして俺に文句を言う春日。
俺はといえば彼女の用意してくれた美味しい晩御飯をぺろりと食べきってしまうのだった。
「さて、色々あって滞ってたが、今夜からはお前の勉強も再開するぞ。この前出してた宿題はちゃんと解けてるだろうな?」
俺が倒れたりしてバタバタしていたので、終わっていなくても怒るつもりはなかったが、春日はさも当然という顔で宿題を解いたノートを俺に見せて来た。
「おお、よしよし。ちゃんとしっかりやってるじゃないか」
「センセに負担かけてた分、しっかり期待には応えないとだからね!」
なんとなく、春日の頭に犬の耳が、お尻には千切れんばかりにブンブカ振られている尻尾が見える気がした。
「家事に、俺の世話に、宿題に…… むしろお前の方が大変じゃないのか? あんまり無理してくれるなよ?」
「常時無理しっぱなしのセンセに言われたくないです! それに、家事もセンセのお世話も、全然苦じゃないので大丈夫なのです!」
そんなことを満面の笑みで言われたら、もう何もいうことはない。
宿題もチェックした限り問題はなさそうなので、俺はそのまま彼女への指導を次のステップに進めることにする。
「よし、これまでは基礎の復習と底上げだったけど、この調子ならここからはもう少しレベルを上げていけそうだ。弱点科目はもう言うほど弱点って感じじゃなくなって来たから、まずは平均点より五点上を目標に。比較的得意科目だった方は得点源に出来るように伸ばして行こう。ただ、苦手を補うためにそっちを多くやったりとか、得意を伸ばすためにそっちに比重を傾けたりとかは駄目だ。バランスを意識して、満遍なくを心掛けてくれ」
「はぁ~い」
そう言って、各科目の細かい指導を伝えてから、科目ごとに課題とポイントの確認をする。
そのポイントが体得できるように、演習問題を指定してキッチンタイマーを30分に設定すると、タイマーのスイッチを押す手を制して春日が言った。
「五科目分の演習するから、時間は二時間半に設定して、その間センセは部屋で横になってて」
「いや、そう言うわけには――」
「横になってて」
俺の返答を遮るように、そういう春日は笑顔なのに少し怖かった。
「睡眠不足が一番良くないって蔵王先生も言ってたでしょ? 二時間半したら起こしに行くから、それまではちゃんと寝て。そうじゃないと私、もうこれ以上勉強しないから」
そう言われてはもう、俺は彼女に従うしかない。
結局のところ、学力というのは本人が演習を重ねなければ向上しない。
解法の定着も、公式やルールの暗記も、本人が主体的に手や頭を動かさなければ出来ないのだ。
そこを盾にされては、彼女の家庭教師たる俺は最早抗いようがない。
「……分かったよ。ちゃんと寝るから、お前はちゃんと演習するんだぞ?」
「分かった。だからセンセはゆっくり寝てね」
少し前なら、そう言ってこいつがサボることを想像したが、今のこいつを見てそんな考えは浮かばなかった。
本当にここ最近で、こいつは色々成長したと思う。
俺は椅子から立ち上がって、自室に戻る布団に横になった。
すると、そのまますぐに睡魔が訪れる。
なんだかんだ体は疲れているし、病院で蔵王先生に処方された薬も眠くなる成分が配合されている。
俺はその睡魔に勝つことは叶わず、そのまま深い眠りへといざなわれた。
「おはよう、センセ。
良く寝てたね…… 寝顔可愛かったよ?」
「ん? 春日か? もう二時間経ったのか?」
俺は身体を起こして、部屋の時計に目を向ける。
すると――
「って、もうすぐ夜明けじゃないか!! 完全に寝過ごして――」
「大丈夫。センセに言われた課題分もその類題もちゃんとといたし、アタシもちゃんと仮眠取ったし……」
立ち上がろうとする俺を、春日は布団に押し戻す。
「アタシの勉強を心配してくれるのは嬉しいけど、今はまず、センセの身体を治すことを第一に考えてよ。そうじゃないと、アタシも心配で勉強に身が入らないし」
俺に布団をかけて、そう言って笑う春日の笑顔は、やはり微かに不安そうに見えた。
「なんだかんだセンセに甘えてたけど、センセが倒れて無理させてたんだって気付いたの。家事全般をやるので十分だなんて言ってくれてたけどさ、やっぱりどうしたって心配なんだよ? だから、早く良くなってよ、ね?」
不安そうな笑顔の春日に、俺は言葉がなかった。
無理をしているつもりはなかったし、大丈夫なつもりでいた。
でも、現実には、職場で倒れて春日にこんな不安な顔をさせてしまっている。
これは、自身の体力や体調を俺が見誤っていたから起きた、俺の失態だ。
その失態を挽回する為にも、俺はもう少し自身の健康を気にしなければならないのかも知れないな。
「分かった。ちゃんと休むように心がけるよ。仕事でもしばらくは無理しないようにする」
「その『仕事』の方はあてにならないんだよなぁ…… センセをこき使ってる黒桐の方をどうにかしないとだし」
「その辺もちゃんとするよ。今日も、黒桐室長に色々たてついて、教室の雰囲気最悪にしちゃったしな」
俺がそう言って溜息をつくと、春日はクスリと笑い出した。
「知ってる。怪我のこととか、雑用押し付けられてることとか噛みついたんでしょ? 夕海さんから全部聞いてる。センセにしてはやるじゃん!」
「なんだか、お前達が仲良くなって、俺の情報が互いに筒抜けな気がして怖いんだが?」
「大丈夫大丈夫。家でのセンセのことは、包み隠さずってわけじゃないから。さっきのセンセの可愛い寝顔も共有してないし。あれはまぁ、一緒に住んでるアタシだけの特権ってことで」
そう言って笑う春日の顔には、先程までの心配そうな不安は見えなかった。
「さてと、センセが寝るまでアタシが見張っててもいいけど?」
「いや、お前はお前でちゃんと寝てくれ。お前に倒れられでもしたら――」
「お母さんに申し訳ない……とか?」
「馬鹿、俺が心配なんだよ」
「――っ、そっか。なら、アタシも早く寝ないとね。それじゃ、おやすみセンセ。ゆっくり寝てね」
「ああ、お休み春日。今日も色々ありがとな」
俺に手を振って部屋から出て行った春日の足音に耳を澄ませる。
すると、どうやらキチンと自室に戻ったようなので安心した。
「あいつもあいつで、結構無理するからな…… 俺に言われたくはないだろうけど、俺の方も気にしてやらないとな」
布団に入ったまま、大きく伸びをする。
するとすぐに眠気が襲ってくるが、俺はその眠気を押さえつけて少しだけ考え事をした。
考えたのは、春日のことと教室のことだ。
春日のことは、当然勉強面のことだ。
ここ最近の学力の向上は目覚ましいものがある。
そろそろ模試を受けさせるつもりだが、肌感では彼女の偏差値は恐らく20近く上がっているだろう。
それでも、彼女の目標である父親の鼻を明かすレベルの大学への進学はまだ難しいと思う。
だとしても、これは正直驚異的な伸びだ。
それもこれも、彼女のもともと持つスペックのお陰だろう。
言い方は悪いが、彼女は宝の持ち腐れなのだ。
非常に高い能力を持っているのに、諸々の理由でそれを持て余している。
彼女のここ最近の目覚ましい成長は、そんな彼女が持て余していた能力が活用されるようになっただけに過ぎない。
俺の教え方云々というよりは、俺はきっかけに過ぎないのだろう。
この調子で頑張れば、彼女の目標は達成できるかも知れない。
だから、本当はこんな風に俺の体調不良で足を引っ張っている場合ではないのだ。
ないのだが……
「勉強にはメンタルが大きく作用するからな。あいつが俺を心配して、勉強が手につかなくなるって言うのも困るんだよな」
つまり、彼女の足を引っ張らないようにするためにも、俺は一日も早く本調子を取り戻す必要があるのだ。
その為には、俺の生活サイクルの抜本的な改革が必要になる。
そうなると考えなければならなくなるのは、教室のことだった。
これまで俺は、俺を含めた教室全体が黒桐室長のやり方の写し鏡として、最悪の場合崩壊してしまえばいいと考えていた。
結局、そういう目に見えた崩壊を目の当たりにしない限り、黒桐室長はそのやり方を改めないと思っていたから。
でも、そうも言ってられなくなった。
俺自身が倒れている場合ではなくなったのだ。
そうなると、教室も崩れて貰っては困る。
教室の不調は、それがそのまま負担として俺に帰って来てしまう。
だとすると、俺はどうにかして黒桐先生の諸々の問題を解消して、教室を好転させなくてはならないということになる。
健全な教室運営をさせて、俺に降りかかる数々の負担を、然るべきところに分配しなければいけない。
「はぁ~…… それ自体がものすごい負担なんだが……」
溜息と共にそんな言葉が口から勝手にこぼれる。
しかし、そうなのだ。
あの黒桐室長を変えなければ、俺の生活サイクルを改善することは難しい。
「変えられるのかねぇ…… あの人を」
しかし、春日の未来の為にはそうする他ない。
いや、それ以外にもやりようはあるのだが、まずはそれを試みてみるべきだろう。
「でも、今日みたいなやり方じゃダメだ。結局ぶつかって何も変えられない」
結局は、生徒の問題点を改善するのと同じなんだ。
まずは、俺の話を聞いて貰えるようにしないとダメだ。
「仲良くやれる自信…… ないけどなぁ」
俺は自分がやるべきことをある程度まとめて、目を瞑った。
出来るかどうかは分からないが、やってみるほかないだろう。
そんな考えがまとまったところで、俺はやっと睡魔に抗うのを辞めるのだった。
続く――。
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