第19話 17th lesson ここまで決定的に部下達との間の溝が広がってしまっていると、もうその関係を修復するのは不可能だ。


 さて、いうまでもない事ではあるが敢えて言おう。

 その日の教室の雰囲気は最悪だった。


「……ねぇ、冬月先生。黒桐先生と喧嘩しちゃったの?」

「あはははは…… 喧嘩というか、なんというか……」

「その包帯も黒桐先生のせいなの? 大丈夫?」

「いや、この怪我は俺が自分で転んだだけで、黒桐室長に何かされたとかじゃないよ。心配してくれてありがとね」


 全ての授業を終えて、下校する生徒達を見送る俺に質問してきた、高田の言葉が全てを物語っていた。


「そんなに俺と黒桐室長ギクシャクしてた?」

「うーん…… 先生達がギクシャクしてることに、他のみんなが気付いたか分からないけど…… 黒桐先生が凄く不機嫌そうだったのには、みんな気付いてると思う」


 だろうな。

 あそこまであからさまに不機嫌そうにしていれば、誰だって分かるか。

 黒桐室長は不機嫌になるといつも以上に厳しくなるので、生徒達もそこには敏感に反応するのだ。


「ただ、私はなんとなく冬月先生と黒桐先生の間で、なんかあったのかなぁ? って思ったんだよね。いつもなら、黒桐先生が暴走すると、冬月先生がって感じでフォローするのに、今日はそういうのが全然なかったからさ」

「あぁ…… なるほど」


 確かに今日は、黒桐室長と距離を置いてしまったところがあった。

 その分、そうういフォローの手が回らなかったのは事実だ。


「まぁその代わり、冬月先生の授業のときに、その辺のフォローはしてくれてたから、みんなも嫌な思いはしないで帰れたと思うけどね」

「それなら良かったけど……気が回ってなくて、悪かったな」

「先生達も人間だし、そういうこともあるよ。むしろ、冬月先生のそう言うところ見れてちょっと安心したし」

「教室がギクシャクしてるの見て安心って……」

「ああ、冬月先生も人間なんだなぁって思ってさ、なんか少し安心したんだよ。いつもは平気な顔で無理してるでしょ? まぁ、そんな怪我で授業してるのも心配なんだけどね」


 中二の女の子にこんな風に心配される塾講師って……

 彼女が好意的に捉えてくれているのはありがたいが、この感じだと他にも俺と黒桐室長の間の確執に気付いた生徒はいるかも知れない。

 俺はそんなことを考えて、申し訳ないとは思いつつ、高田に一つ頼みごとをする。


「なぁ、高田。今日のことで俺と黒桐室長の間のもやもやに感付いて、何か嫌な思いをしてる子がいたら、後で俺に教えてくれないか?」

「ん? 良いけど…… 私、そこまで友達多くないよ?」

「友達に限らず、噂レベルでもいいよ。やっぱり先生同士のことで生徒に心配かけるのは良くないしな」

「ふーん…… 先生も色々大変なんだね。分かった。一応色々聞いて回って見るね」

「助かるよ。……っと、悪い。もうこんな時間だな。親御さんが心配するから、寄り道せずに帰るんだぞ?」

「はぁ~い。それじゃ先生、またね!」


 手を振って去って行く高田の背中を見送って、俺は校舎の入り口に続く階段を見上げる。

 この後待ち受ける諸々を考えると、階段を登る足は思いのほか重かった。

 そして、職員室へと足を踏み入れると、予想通りその空気は最悪だった。


「……見送りにずいぶん時間をかけてましたね? 高田で最後のなのは分かっていたのにダラダラと…… やっぱりその傷が痛みますか、冬月先生?」


 戻って来た俺に、黒桐室長はバイト講師の先生達との雑談を止めてそんな苦言を投げて来る。


「ダラダラしていたつもりはありませんが、遅くなってしまったようで申し訳ありません」


 俺は苦笑いを浮かべながらそんな風に言って肩をすくめる。

 視界の端に夏川先生の心配そうな顔が見えた。


「あなたのモタモタでここに残っている先生達の帰る時間が遅くなるとは、お考えにはならないんですか? 『生徒の為』って綺麗ごとを盾にして、ご自身のルーズさを誤魔化さないで頂きたいですね」

「その時間が無駄だとおっしゃるなら、この『俺を詰める数分』も無駄じゃないです? それこそ明日、他の先生方がいない時間に、俺に言えばいいことですよね。時間を気になさるのなら、さっさと終業のミーティングを始めましょうよ」


 俺の言葉に、黒桐室長が目の端をピクピクさせているのが分かる。

 間違いなく、また余計な一言を彼に浴びせているのだろう。

 こちらを険しい顔で見つめる黒桐室長に対して、俺は苦笑いを浮かべ再び肩をすくめた。

 黒桐室長は、深くため息をついてから俺の言う通りに終業ミーティングを始めた。


「悪いんですが、僕はもう帰ります。今日は教室に残っていると、皆さんにあたってしまいそうなので……」


 そう言って、黒桐室長は誰よりも早く校舎を出て行った。


「お疲れ様でぇ~す!」


 他の先生達がそれを見送る声を背に聞きながら、俺はと言えば、いつも通り教室の清掃作業に追われている。


「はぁ~…… ダメだなぁ俺。もっとうまく立ち回らないと……教室の雰囲気が悪くなっちゃうよな」


 溜息と共にこぼれた独り言。


「いやいや、冬月先生はいつもこれ以上ないくらいうまく立ち回ってますよ」

「ほんとほんと」


 そんな呟きに答えるように笑ったのは、ほうきや掃除用具を持ってやって来たバイト講師の先生達だ。


「今日のやり取りだって、正直に言えばスカッとしましたしね。黒桐室長って、基本的に言い過ぎって言うか……理屈が自分勝手じゃないですか? 独自の理論で正論らしいこと並べて、こっちを言い負かそうとして来るんですもん。冬月先生がああいう風に言い返してくれて、なんていうか、嬉しかったですよ」

「あはは、ちょっと今の俺は余裕がなくて……黒桐室長の神経を逆なでするようなこと言っちゃったから、他の場面で先生達にしわ寄せが行ってないか心配だよ」


 一時はやめてしまいそうだった下田先生も、こんな風に明るく教室で俺と話せるようになって良かった。

 いや、黒桐室長の下で働き続けることが、本当に彼にとって良かったのかと言われると、むしろあのまま辞めさせてあげた方が幸せだったのでは? とも思ってしまうが。


「いや、下田先生の言う通りですよね。私達が言えないようなことを冬月先生が言ってくれて、胸のもやもやが晴れましたよ。いつもいつも私達をだしにして、黒桐室長が冬月先生をイジメて自分のストレス発散をしてるの、見てて正直嫌な気持ちになってましたから」


 ホワイトボードに書かれたままになっていた板書を拭きながら、そんな風に笑ったのはこの教室では古株の作元さくもと先生だった。

 彼女は黒桐室長には気に入られているはずだが……


「さも私達の味方ですみたいな物言いと態度で、冬月先生に色々言ってますけど…… 結局自分の仕事も含めて押し付けてるくせに、それに感謝もしないで文句ばっかり。私達のご機嫌を取ろうっていう下心が見え見えなんですよね…… まぁ、色々ご馳走してくれるのはありがたいんですけど」


 こんな風に教室で話をすることも無かったので、彼らから話を聞けるのは新鮮だった。

 ……が、まさかここまで黒桐室長の評価が、先生方の間でも低いものとは思っていなかった。


「根は悪い人じゃないと思うけど……」


 俺がそんな風に言うと、バイト講師の先生方は声を上げて笑い出した。


「あはは、冬月先生がそれ言います? 一番ひどい目合わされてるのに…… それこそ、ちょっと前まで、俺達BK《ビーケー》達は、いつか冬月先生が辞めちゃうんじゃないかって心配してたんですよ?」


 BKというのは、うちの会社内での略称で、『バイト講師』のことを指す言葉だ。


「いや、私だったらもうとっくに辞めてますもん。あんな理不尽なやり方、耐えられませんよ。明らかにイジメですし…… 本当に、冬月先生もよく耐えてると思いますよ」


 作元先生の言葉に、下田先生も頷く。


「冬月先生、マジであんなヤバい上司の下について気の毒ですよ……」


 俺が作ってしまった流れではあるが、もう黒桐室長への陰口が止まらない。

 少し前の夏川先生の表情に感じたが、いよいよもって危険域に達しているのを肌で感じる。

 ここまで黒桐室長にヘイトが溜まっていたとは思わなかったのだ。

 これはつまり、俺のフォローが全然機能してなかったことを意味していた。


「でもさ、校舎の営業成績の悪さとかで、もっと上の上司から色々言われて大変だろうし…… 黒桐室長も余裕がないんだと思うよ?」


 慌てて俺は、黒桐室長をフォローするような言葉を口にする。

 いや、それこそ焼け石に水なのは分かっているし、この空気や流れを作ってしまったのが俺自身なのは百も承知だ。

 でも、この雰囲気は非常によろしくない。

 教室の長である黒桐室長が、ここまで部下である講師達から信頼を失っていると、この教室は崩壊してしまうのだ。


「あはは、冬月先生は本当にいい人ですよね…… あんな人を庇うんだから。マジで社会人って大変だなって思いますよ、俺」


 俺のフォローが効果を成していないのが一発で分かる下田先生のリアクション。


「あぁ、心配しなくても俺達辞めたりはしませんよ? まぁ、生徒達のことは可愛いですし、俺達がしっかりしないと今度は生徒達が黒桐室長の餌食になっちゃうと思うんで、出来る限り頑張るつもりですけどね……」


 清掃が終わって、掃除用具を俺から預かりながら、下田先生はそんな風に言って笑う。

 彼の発言を聞く限り、彼らバイト講師の先生方の中では、この教室において黒桐室長は大黒柱や責任者と言った中心人物とは思われていないようだ。

 どちらかと言えば、教室のお荷物的な認識になっていた。

 それは、これまでの黒桐室長の数々の行動や言動の結果であり、仕方のないことなのだが……

 無視できない大問題でもあった。

 バイト講師の先生方の中で、黒桐室長が軽く扱われ過ぎてしまっていることが良くない。

 あの人の人間性や諸々は確かに問題だし、そういう風に扱われても仕方のないことをしてきているのは間違いない。

 しかし、それでも彼はこの教室において『室長』という肩書を持つ人間なのである。

 彼は間違いなくこの教室の責任者なのだ。

 表向きは全員が、黒桐室長を『室長』として持ち上げているが、心の中で『仕方がないから室長として担いでやっている』という、ある意味黒桐室長を下に見ている雰囲気になってしまっている。

 精神的な部分で、肩書としての上下関係が完全に崩壊しているのだ。

 これは、組織としてとても危険な状態だった。


「えっとね、下田先生、作元先生。気持ちは凄く分かるんだけど、ちょっと俺の話を聞いてくれないかな?」


 だから、俺は言葉を選びながら、二人の先生に話をすることにした。


「黒桐室長に色々問題があるのはそうだと思うし、俺自身も『もう辞めてやる!』って思ったことはあるよ。それこそ何度も。彼の俺に対する扱いなんかは、多分見ていて気持ちのいいものじゃないだろうし、それだけ見たら、黒桐室長のことを酷い奴だって思っちゃうのも分かる。でも、それだけじゃないってことも忘れないで欲しいんだ」


 俺の言葉に、二人の先生は驚いたような顔をして振り返った。

 職員室で次回の授業の準備をしていた夏川先生と斎藤先生もびっくりしているのが分かる。


「特に教室運営とかは、本当に彼なりに色々考えてやってくれていて、そこについては間違ったことはやってないんだよ。いや、口から出る言動とかには、間違いなく問題はあるんだけど、仕事って部分だけを見れば、あの人は非常に優秀なんだ。だから、で彼に幻滅したんだとしても、そこと切り分けてキチンとであの人のことを、『室長』として評価して欲しいんだ」


 ここまで信頼を失ってしまうと、バイト講師の先生方はその内で行動するようになってしまうだろう。

 彼らなりに考えて、彼らなりに最善だと思う行動を取るようになってしまうのだ。

 それは、良いことのように思えるかも知れないが、教室としてはとても危険なことなのだ。

 何故なら、彼らにはその行動によって生じた責任を取ることが出来ない。

 もちろん、室長である黒桐室長の判断が間違っているのであれば、その状況も悪いことではない。

 だが、少なくとも仕事に関しては、黒桐室長は

 ただ、部下達が彼を信頼しなくなることで、彼の判断をと、黒桐室長の指示が的確であっても、部下達はそれをと判断し別の行動を取ってしまう可能性がある。

 そうなってしまうともう、教室が教室として機能できなくなってしまうのだ。


「俺の目から見て、黒桐室長の指示はと思う。そこをはかり間違えないで欲しいんだ。あの人は人としてどうかと思うけど、あの人の指示には出来る限り…… いや、必ず従って欲しい。そうじゃないと、先生達の判断で何が問題が起こったときに、俺は先生達を守ってあげられなくなっちゃうから…… だから、この通り……」


 そう言って俺が頭を下げると、先生達は驚きながらも首を縦に振ってくれた。


「も、もちろん。室長先生の指示には従いますよ。逆らうと怖いですしね」


 下田先生が苦笑いを浮かべてそう言った。

 多分、彼は俺も彼らの言葉に便乗して、黒桐室長の悪口をいうものだと思っていたのだろう。

 だから、俺がこんな風に頭を下げて戸惑っているのだ。


「はぁ…… 本当に冬月先生は……」


 そんな俺に呆れたような声を上げたのは夏川先生だった。


「一番黒桐室長に振り回されて、倒れて怪我までしたのに。それでも教室や黒桐室長のことを心配してるんですから……」


 夏川先生の言葉に、それ以外の先生達も笑って同意していた。


「冬月先生の為にも、俺達全員で黒桐室長をフォローしないとですね!」


 結局、その場はそんな感じでまとまって、これからも彼らは黒桐室長の指示に従ってくれることを約束してくれた。

 でも、だからと言ってこの教室の危機的状況は全く回避出来ていない。

 ここまで決定的に部下達との間の溝が広がってしまっていると、もうその関係を修復するのは不可能だ。

 遅かれ早かれ、この教室は崩壊する。

 それが今年度一杯もってくれることを俺は祈るばかりだった。


 続く――。





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