仕事に疲れた塾講の俺がJKの家庭教師をすることになった件。
第18話 16th lesson そう言って笑う夏川先生の笑顔を見て、俺はこの教室の歪んだ現状がそろそろ無視出来ないところまで来ていることを認識するのだった。
第18話 16th lesson そう言って笑う夏川先生の笑顔を見て、俺はこの教室の歪んだ現状がそろそろ無視出来ないところまで来ていることを認識するのだった。
塾講師とはつくづく不健康な生活をしていると実感する。
俺の周りには結構ごろごろしている話だが、過労で倒れるなんて本来はそうそうないことだそうなのだ。
万年人手不足なのもそうなのだが……
基本的に授業の進め方や組み立て方はその講師の裁量に任されている為、簡単に代わりを頼めないというのも塾講師が仕事を休まない理由の一つだと思う。
定期試験や入試までの授業回数は限られていて、教えるべきことは膨大。
そうなると、どうしたって授業の一回も無駄には出来ないししたくないのだ。
そんな限られた授業の一回を、自分以外の誰かに任せるとなると、その代わりに授業をしてくれる講師の負担を減らすために、授業の内容を演習メインの形にせざるを得なくなる。
元々の想定でそのタイミングで演習メインの授業を用意していたという場合でもない限り、その日の授業は間に合わせの捨て授業になってしまうわけだ。
そんな風にするくらいなら、多少の体調不良を押してでも自分で授業を行おうと考えるのが、多くの塾講師の思考回路だと思う。
少し前に体調不良を押して授業を担当したことで、ウイルス感染症を拡大してしまった塾講師のニュースを見たが、もしかするとあの一件の裏にも、そういうどうしようもない葛藤があったのかも知れない。
っと、大きく脱線してしまったな。話を戻そう。
とにかく、塾講師という職業をやっていると、どうしても健康に頓着できなくなるという話なのだ。
「それにしても、以前倒れたときの反省はそれなりに活かされているようだな」
蔵王先生はそう言って検査結果を示す紙を俺に差し出して来た。
「検査の数値は軒並み改善してる。君の場合は休むのが下手なところと、偏った食生活に問題があったが、少なくとも食生活の方は大きく改善されている様だ」
専門家ではないので渡された紙を見てもさっぱりだが、蔵王先生のコメントには心当たりがあった。
「だそうだぞ、春日。お前のお陰で俺の身体は前より健康になったらしい。確かにお前の勉強を見るっていう負担が俺の疲労に繋がったことは間違いないが、お前はそれ以上に俺の身体を食生活の面で改善してくれたんだ。これならプラマイゼロで問題ないだろ?」
「……なにそれ。それでプラマイゼロとか意味わかんない。ウケる……」
俺の横になっているベッドに突っ伏して顔を埋めていた春日は、布団から少しだけ顔を上げで、真っ赤な目でこちらを見上げて笑う。
その顔は、少しだけ明るくなった気がした。
「ほぅ…… 見せつけてくれるな? 乳繰り合うなら家に帰ってからにしてくれ新婚さん」
「し、新婚!?」
蔵王先生の冷やかしを真正面から受け取って、春日は真っ赤な顔でガバリと身体を起こす。
その顔を冷ややかに見つめて、にやりと笑う蔵王先生の表情で自分がからかわれていることに気付いた春日は、真っ赤な顔を隠すように再び布団に顔を埋めてしまう。
「はっはっはっ! 冬月君、随分と可愛らしい彼女じゃないか? 見たところかなり年も離れている様だが…… 通報の必要はないんだよな?」
「通報って…… 俺と春日は先生が考えるような関係じゃありませんよ。言うなれば相互雇用関係というか…… まぁ、家庭教師と生徒ですね」
「そうか。こんないい子、君には勿体ない。大事にしなさい……」
「『そうか』って言葉は、ちゃんと人の話を聞いて言ってくださいよ。先生、全然話聞いてないですよね?」
「聞いているさ。色々事情はあるんだろうが、君達はお互いを大事に思っているんだろう? なら、そういう相手は大切にした方がいい…… 私が言いたいのはそういうことだ」
俺と春日を見つめて、そんな風に言って笑う蔵王先生の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
先程のからかうような雰囲気はもう感じない。
だから、俺はその言葉をありがたく受け取ることにした。
「はい。心して大切にしようと思います」
「た、大切にするって、センセ? ちょっと何言ってるの? 大丈夫?」
俺の横で春日は何やらパニックになっている様だが、面白そうなので放置した。
「はぁ~…… 本当にお二人は仲がいいですよね。ちょっと羨ましいです」
そんな俺達のことを見つめて、夏川先生も溜息をこぼす。
その表情からは、先程の心配そうな空気は見えなくなっていた。
「冬月先生もいつもの調子みたいですし、怪我も身体も言葉通り大丈夫そうで安心しました。冬月先生はすぐ『大丈夫だ』って嘘をつくので……」
「あ、それアタシも同意見。センセの『大丈夫』は政治家の『前向きに検討します』と同じくらい、信頼のおけないセリフだと思ってるもん」
「ふむ…… 君達のその認識で正しいだろうな。過労で倒れるような奴の『大丈夫』程あてにならないものは無いからな」
「……酷い言われようですね」
俺を見つめて、女性陣三人が楽しそうに笑い出す。
「『疲れたらきちんと休め』と君達からも彼に言ってやってくれ。 ……いや、違うな。この手の類の人間は『疲れた』と認識するのが苦手な奴が多い。君達の目から見て彼が疲れているように見えたら、『休め』と言ってやってくれ」
「分かりました。気を付けて見るようにしますね」
「任せて下さい! これからはぶん殴ってでも休ませるようにしますんで!」
「……ふ、これは心強いな。 私の連絡先も教えておくから、言っても聞かないときは言ってくれ。クロロホルムでも用意して駆けつけてあげよう」
なにやら女性陣が怪しげな約束を交わして仲良くなっているようで、俺は少しだけ薄ら怖さと背中に冷たい汗を感じるのだった。
時計を見るとそろそろ夜も明けるという時間になりつつあった。
「とりあえず、顔色も問題なさそうだし大丈夫だとは思うが、彼には今夜はここに入院して貰う。朝10時には退院になるから、君はそのときに迎えに来てくれ」
もういっそこの病院の病室に泊まっていきたいとか言い出し始めていた春日に、やれやれと言った雰囲気で蔵王先生はそう言った。
「はぁ~い…… それじゃあアタシは帰りまぁ~す。センセ、いい子に休んでるんだよ? 仕事とかしちゃダメだよ?」
「そんな心配しなくても大丈夫だ。こんな状態になってまで仕事なんてしないから安心しろ」
「だから、センセの大丈夫はあてにならないって言ってるじゃん」
大人しく帰ろうとする春日が、俺をバカにするように笑うので言い返したら、何故か俺の方が呆れられてしまった。
「はっはっはっ、仕事をしようものならクロロホルムで寝かせてやるから安心しろ」
「いや、そんな薬物をポンポン使おうとしないで下さいよ、蔵王先生」
冗談だとは分かっているのだが、蔵王先生の場合本当にやりそうなので怖かった。
「それじゃあ、夏川先生。悪いんですけど、春日のことお願いします」
「はい。ちゃんとお家まで送り届けます。お任せください! それと、校舎のことも!」
「あはは、頼りにしてます!」
なにやら後ろ髪を引かれている様子の春日を連れて、診察室を出て行く夏川先生。
二人の背中を見送ると、蔵王先生が大きな溜息をついてから俺を見た。
「……な、なんですか?」
「あんなにいい子達が心配してくれているんだ。君はもう少し自分を大事にした方がいい。その額の怪我、もしかすると跡が残るかも知れないが、それを戒めだと思って、色々改めるんだな」
「あはは…… 分かりました。まさか倒れるとは思ってなかったんですけどね。もう少し自分の身体の悲鳴に、キチンと耳を傾けるようにします」
それから、蔵王先生は看護師さんを手配して、俺をストレッチャーに乗せるとそのまま一晩過ごす病室に運ばせた。
いっそ俺は、そのまま診察室でも良かったんだが……
それから、俺は蔵王先生の言った通り朝10時には病院を退院し、迎えに来た春日と共に自宅へと帰った。
一瞬、春日が学校を休んだのかと思って心配したが、どうやら今日は午後登校の日だったらしい。
執拗に疑う俺を納得させる為、春日にはわざわざ友達に通話を繋げて説明させてしまった。
なんだか悪いことをした気がするが、春日なら平気で俺の為に学校を休んでしまいそうなので心配だったのだ。
さて、傷の痛みも引き、もう何も問題なく出勤した俺だったが、校舎に出勤して俺はとある問題にぶち当たった。
「この血痕、どうします?」
「これ見たら、黒桐室長がまた何か言いそうだよね……」
夏川先生と顔を見合わせて、俺は苦笑いを浮かべた。
俺と夏川先生の視線の先には、俺が倒れた教室の床があった。
少し前まではそんなことはなかったのだが、校舎の改装工事の際に全教室の床が絨毯張りになったのだ。
結果……
「この床の絨毯のしみは簡単には落ちないよなぁ……」
床の絨毯には、俺の額から流れた血がしみ込んで、大きな黒いしみを作っていたのだ。
もうさながら殺人事件の現場だ。
というか、俺こんなに血を流してたのか……
そりゃ救急車も呼びたくなるよな。
昨晩の夏川先生の心中を想像して、俺は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「いや、その前に、昨日は本当に色々すいませんでした」
「へっ!? そんな…… 冬月先生は何も悪くないじゃないですか?」
「でも、この血溜まりを作ったのは俺な訳で……」
「それこそ不可抗力ですよね? 何度も言いますけど、先生のせいじゃないですよ!」
深々と頭を下げる俺に、夏川先生は困ったように慌てる。
「それよりも、今はこの床をどうするかですね。 ……何かを敷いて隠すというのが一番簡単ですけど、小学生とかが気にして捲ってこれが出てきたら、それはそれで騒ぎになりそうですし……」
夏川先生は腕を組んで首を捻る。
そんな彼女に、俺は教室にやって来てから感じていた疑問を夏川先生にぶつけて見た。
「てかさ、どうしてこの時間に夏川先生がいるの? 先生は小学部が帰る18時ごろに教室に来ればいいのに……」
「そんなの、先生が心配だからに決まってるじゃないですか! 言いましたよね? 教室のことも任せて下さいって。 先生が来れない様なら、私が先生の代講をしようと思ってたんですよ」
「本当に、ご心配をおかけしました……」
「だから、そんな風にかしこまらないで下さいよ! いつもお世話になってるのは私の方なんですから、こういうときくらい、少しはお役に立たせて下さい」
「いや、いつも十分役に立ってくれてるんだけど……」
そんなやり取りをしていたら、ふと解決策が思い浮かんだ。
「この床、パネル式になってるみたいだから、ひとまず、講師控室の床のパネルと入れ替えたらいいんじゃないかな?」
「あ、本当ですね外せそうです。それじゃあそれで行きましょう!!」
それから、夏川先生と二人で、俺の血が染みた床の絨毯パネルを外して、講師控室のものと交換する作業を進めた。
パネルを外した下にまで俺の血がしみ込んでいたので、それを雑巾で拭いたりしたら、血濡れの雑巾が何枚か出来上がってしまって、一層殺人現場感が増してしまったが仕方がない。
ものの30分で床のパネルの入れ替えと掃除を終えた頃、やっと校舎に黒桐室長が現れた。
「包帯が痛々しいですが、まぁ元気そうで安心しました。今日の授業も問題なく出来るんですよね?」
そのあまりにも淡白な黒桐室長の物言いに、珍しく夏川先生がイラついているのが分かったので、俺は努めて明るい声でその言葉に応えた。
「あはは、もちろん傷は痛いですし、倒れた理由も過労なので、身体には疲れは残っていますけど、授業自体は問題なくこなせると思いますよ」
すると、そんな俺の言葉に眉間に皺を寄せる黒桐室長。
「……それは仕事がきついことへの嫌味ですか? 僕は冬月先生がこなせないほどの作業は振っていませんよ。昨晩の一件は体調管理が不十分だった冬月先生の責任ですよね?」
そう言って俺に念を押すように言ってくる。
普段の俺なら、その言葉を適当に受け流しただろう。
でも、俺の横で今にも何かを言い出しそうな夏川先生のお陰で、俺はその言葉に食い下がることが出来た。
「確かに、俺にこなせない量の仕事はふられていないと思います。でも、俺でなければならない仕事ばかりじゃないのも事実ですよ。プリント印刷とかなんて正直な話、黒桐室長が作業の合間にやればいい作業ですよね? あなたが授業で使うプリントが主ですし……」
「……あれは全部、冬月先生が自分から『やる』と言った業務ですよね?」
当然、黒桐室長は言い返してくる。
俺はそれをテニスのラリーを打ち返すように返答した。
「ええ、そうですね。以前、会議や面談に追われていっぱいいっぱいだった黒桐室長に、『手が空いてるので今日の授業で使うプリント印刷しときましょうか?』と言った記憶はあります。あれ以降、黒桐室長は当たり前のように授業で使うプリントを、俺に印刷するように言ってきましたけど、あのとき俺は、あのとき限りのつもりで提案してたんですよね。まぁ、以降もそれを言わずにやって来たのは俺なので、今後も同じようにやらせて貰いますけど」
「……冬月先生は何が言いたいんですか?」
「別に? しいて言うなら、俺が過労になったのは確かに自己管理の問題ですが、それは俺の自己責任だけではないってことをお伝えしたまでです」
言ってから、『ああ、言い過ぎたな』と後悔はした。
でも、これくらい言わないと、これ以上のことを夏川先生が言い出しそうだったので、俺は敢えていつも胸にしまう本音を口にしたのだ。
結果的に、教室の雰囲気は最悪になっていたけれど……
「さっきは少しスカッとしました」
そう言って笑う夏川先生の笑顔を見て、俺はこの教室の歪んだ現状がそろそろ無視出来ないところまで来ていることを認識するのだった。
続く――。
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