仕事に疲れた塾講の俺がJKの家庭教師をすることになった件。
第17話 15th lesson 心配そうに俺の顔を覗き込む彼女の申し訳なさそうな表情は、いつもの元気な彼女の面影がまるでなくて少しだけ幼く見せていた。
第17話 15th lesson 心配そうに俺の顔を覗き込む彼女の申し訳なさそうな表情は、いつもの元気な彼女の面影がまるでなくて少しだけ幼く見せていた。
「お疲れ様です。冬月先生、昨日頼んでおいた印刷作業はもう終わってますか?」
「あ、すみません。すっかり忘れてました。今から急いでやります」
「……はぁ~、しっかりして下さいよ。業務時間を圧迫しないように前もって頼んでおいたのに、今から始めるんじゃ、意味がないじゃないですか」
「大丈夫ですよ。印刷機が紙を吐き出している間に業務の方もこなせますから」
「当たり前じゃないですか。冬月先生のうっかりでこうなってるんだから……」
校舎にやって来るなり、そんな調子で俺に当たり散らす黒桐室長。
恐らく、室長会議で絞られたのだろう。
季節講習に向けて会社から定められた新規体験生獲得目標に対して、今のこの校舎の体験生獲得数は周辺地域の校舎と比べ大きく出遅れている。
以前は、この校舎も周辺地域の校舎を牽引する程の体験生獲得数を誇っていたが、ここ数年でそれはひっくり返ってしまっていた。
理由はいくつかある。
一つは教室長の交代だ。
この校舎を以前任されていた小鳥遊先生は、地域でも評判の講師だった。
生徒はおろか、保護者からの信頼も厚く、あろうことか担当地域の中学校の教師達からの評判も良かった。
『塾に行くなら、あの塾以外にない』
そんな風に言われていたほどだ。
その小鳥遊先生の異動が決まり、それが保護者に伝わったときの混乱は本当に凄かった。
異動前の小鳥遊先生の事前準備がしっかりしていたので、塾を辞める生徒は出なかったが、生徒や保護者達の不安はどうしても拭えなかった。
室長交代の知らせはあっという間に地域に広がり、少しづつ『小鳥遊先生を頼って教室に訪ねてくる保護者』の数は減っていった。
面倒見が売りだった校舎の評判は、徐々に『特定の生徒を贔屓する』というような口コミに取って代わり、生徒との信頼関係の上で成立していた厳しい授業管理は、『怖い講師が多い塾』という評判に変化していった。
前室長が凄過ぎた反動。
黒桐室長はそう言っている。
『小鳥遊先生の後に室長をやるなんて、本当にシンドイばかりだ。ここ数年の数値から算出される高い体験生獲得目標。 “小鳥遊先生の頃は……”と以前と今を比較して文句を言ってくる保護者。僕が引き継いだのは、そういう負の遺産ばかりだからね……』
黒桐室長はそんな風に以前ぼやいていた。
偉大過ぎる先代を持つ大変さは確かにあるので、それがこの不調の原因の一つであることは間違いないと俺も思う。
ただ、もっと他にこの不調の原因はあると思うのだが……
まぁ、その辺はもう今更どうこう言っても仕方がない。
とにかく、会社的な営業成績が芳しくない我が校舎の不甲斐なさを、黒桐室長は室長会議の場で厳しく叱咤されたのだろう。
うちの会社は、前時代的というか、昭和気質というか……
基本的に上の人達もダメ出しが管理だと思っている人が多いので、はっぱをかけるつもりで黒桐室長に厳しい言葉をかける地域責任者の先生の様子が容易に想像出来た。
そこでため込んだイライラを、黒桐室長は俺にぶつけているのだ。
彼の精神衛生を保つ為にも必要なことのようなので、俺はもう仕方がないと受け入れて彼の八つ当たりを受け流すほかない。
実際、本当は先程注意された印刷物のことは、黒桐室長が戻って来る一時間前には思い出していた。
でも、俺は敢えてその作業をしないで置いたのだ。
理由は簡単。
分かりやすいミスを犯しておけば、黒桐室長にミスの粗探しをされずに済むからだ。
印刷作業は、先程も黒桐室長に言ったように、印刷機さえ回してしまえば手が空く。
その間に他の作業が出来るので、挽回もそう難しくない。
まぁ裏を返すと、その程度の作業なので黒桐室長本人が片手間で出来る作業なのだが……
彼は、振るわない教室の成績を少しでも上げる為の策を考えるのに忙しいので、そんな雑務をしている時間は無いのだそうだ。
「冬月先生! ちょっといいですか?」
「あ、はい! なんですか?」
再び俺にイラついた声で呼びかける黒桐室長。
多分、教室の業務管理の為に職員のスマホに入れさせたアプリの俺の報告を見たのだろう。
「何で、今日申し込みのアポイントメントがあった家庭の面談が、明日にリスケされてるんですか? 室長会議では今日の数字として報告しているんですよ?」
「先方のお子さんが体調不良ということで、お母様の方からご連絡を頂いたと報告には書いたと思いますが……」
「それならそれで、申し込みだけでも先にさせるとか…… やりようはいくらでもあったでしょう?」
「“申し込みはしっかり面談をして、その場で保護者に行わせる”というのが黒桐室長の敷いた申し込みのフローでしたよね? そういうイレギュラーな申し込みの取り方は後々キャンセルになりやすいですし、あのご家庭は――」
「君はケースバイケースという言葉を知らないんですか? 今は教室の数字が厳しい状況だ。正攻法ではこの遅れは取り戻せない…… 多少強引にでも申し込みを取って行かないといけないんですよ」
そうやって、前回の講習のときに大量のキャンセルを出し、その反省を踏まえて先程のルールを自身で敷いた筈なのだが……
こんな風にブレブレなのが伝わるから、保護者や生徒達がこの人のことを信頼しないのだということがまだ分かっていないらしい。
基本的にこの人は、自分の過去の発言に責任を持たない。
その場の思い付きで言葉を口にする人だからな。
「すみません。では次からは出来る限り先に申し込みを取れるようにします」
「次からでは遅いんですよ。本日の申し込み数は既に上に報告済み何です。失った分の埋め合わせも先生にはして貰わないと…… 君のせいで僕が嘘の報告をしたことになってしまうじゃないですか? 今から急いで見込みの高い家庭に電話を入れて、今日中に面談を取り付けて下さい」
「……了解です。どうにか頑張ってみます」
「“どうにか頑張ります”じゃなくて、返事は『分かりました、そのように致します』でいいから」
「分かりました。そのように致します」
不機嫌に任せて無茶ぶりをしてくる黒桐室長の言う通りに返事をして、俺は彼に背を向ける。
「まったく…… こんな調子だから教室の数字が振るわないんだ。どうしてみんな僕の指示通りに動いてくれないんだか……」
ぼそりとこぼす黒桐室長のお小言が耳に入る。
基本的に彼は自分が正しいと信じ切っているので、そういうロジックになるのだろうな。
俺は黒桐室長から少し離れてから、小さくため息をつく。
まぁ、この無茶ぶりも想定内なので、俺はそんなに困りはしない。
面談のスキップの話題が出たときに、黒桐室長がこんな風にごねることは想像できた。
だから、前もって何件かの家庭に連絡を入れて、本日の面談のアポイントメントは取ってあるのだ。
後はこのことを、もう少ししてからさも今取って来たかのように黒桐室長に報告すればいいという訳だ。
室長会議の日は、こんな風に教室が荒れるのが分かりきっているので、その対策をしっかりと打っておくことが俺の最重要業務な訳だ。
「……っと、何だ? 地震か?」
不意に足元がぐらりと揺れた気がして、俺はスマホを取り出して確認する。
「あれ? 緊急地震速報とかは来てないか…… 気のせいかな?」
首を傾げてスマホをポケットにねじ込むと、俺は印刷機から吐き出された印刷物を取り出してひっくり返し、そのまま裏面の印刷を始めた。
すぐに定期的なリズムで紙を吐き出し始める印刷機を確認してから、俺は掲示物の更新の為にプリンターに吐き出させた紙を手に各教室を巡った。
それから休みがちな生徒の家庭への電話を入れたり、体験を検討している家庭への様子見の電話を入れたりした後で、面談のアポイントを黒桐室長に報告、そのままその面談に入った。
面談を通じて、保護者の方にご納得を頂いた上で体験の申し込みを取った俺は、そのまま中学部の教室へと飛び込みその日の授業をこなした。
生徒を家へと送り出し、教室の清掃をしようと掃除用具入れから道具を取り出したところで……
「――っ!? 冬月先生! 大丈夫ですか!?」
俺の記憶は途切れた。
「ん……んん……?」
目を開けると、そこには見覚えのない天井。
「ここは?」
「……おお、目を覚ましたか? ここは上町総合病院だ。君は職場で倒れて救急車でここまで運ばれたんだよ。覚えてないかね?」
俺の声に応えてくれたのは、聞き覚えのある女性の声だった。
「職場で倒れて…… 救急車!? そんな大げさな……」
ガバリと身体を起こそうとする俺を、その声の主が片手で押さえつけて呆れた声を出した。
「大げさな訳があるか…… 仕事の最中に倒れて、その際に強かに頭を何かぶつけたんだ。もう治療は済んでいるが、かなりの出血もあった。倒れて頭から血を流し、ぐったりと動かない人間を見れば、救急車を呼ぼうと考えるのは至極当然の思考だ。 ……まったく、また過労だよ。本当に君は懲りないな……」
「あはは、通りでおでこが痛いと思ったら…… すみません、
「病気の怪我人が医者にかかることを“迷惑”とは言わんよ。とりあえずそこで横になっていなさい。救急車を呼んでくれた夏川さんと、面会に来ている女の子を呼んでくるから」
そう言って俺から離れていく蔵王先生。
その背中を見送って俺はまた溜息をついた。
先生が『また』と言った通り、俺はここに以前もお世話になっているのだ。
前は受験も間近の佳境の時期だった。
職場からの帰り道で倒れた俺は、通りがかりの蔵王先生に助けられた。
倒れた俺を見た蔵王先生はすぐにタクシーを拾って、俺を彼女の職場である上町総合病院に連れて行ってくれたのだ。
「はぁ~…… 夏川先生にも迷惑かけちゃったな……」
枕元に置かれたスマホを手に取ると、着信履歴やメッセージアプリの通知がものすごい数表示されていた。
夏川先生と面会に来ている女の子。
それは恐らく春日のことだろう。
「ん? 黒桐室長からもメッセージが来てるのか?」
多分、夏川先生が知らせてくれたのだろう。
メッセージアプリを立ち上げてそのメッセージを確認する。
「ははは、本当にこの人はブレないというかなんというか……」
そこに書かれていた文章を見て、俺は思わず笑ってしまう。
『校舎で倒れたという連絡を貰いました。病院の診断結果などを後で共有してください。また、明日はどうするのかも後で教えて下さい』
だそうだ。
もうなんというか、あまりにらしすぎて呆れたを通り越して笑えて来た。
「まぁ、返事は後でいいか……」
俺はそのままスマホを枕元に戻して、再び天井を見上げる。
既読スルーを後で何か言われそうな気もするが、今は面倒な上司のことは考えるのも億劫だった。
バァンッ――
大きな物音を立てて、その部屋のドアが開今たのはその直後だ。
「センセ、大丈夫っ!?」
鼻声でそう言いながら部屋に飛び込んで来たのは、もう随分と見慣れてしまった春日だった。
まぁ、泣いていたのか目を真っ赤にしていたので、見慣れたというのは少し違ったか。
「仮にも病院なんだから、もう少しボリュームをしぼりたまえ」
「あ、すみません……」
慌てた様子の春日は、蔵王先生に窘められて申し訳なさそうに頭を下げる。
「蔵王先生から容体は説明されましたが、私も瞳ちゃんも心配で…… 大丈夫ですか? 傷は痛みませんか?」
その後ろから俺の方を覗き込むようにして声をかけてくる夏川先生に、俺は笑顔を向ける。
「あはは、額が割れて血が出たんだから、流石にまだ痛みは引かないよ。でも、痛いのは生きてる証拠だし、こうしてピンシャンしてるから安心して」
「冬月先生がいきなり倒れたので、もう心配で…… 頭から凄い血が出ているし、呼びかけても全然反応がなかったし……」
そう言いながら涙ぐむ夏川先生。
どうやら心配をかけてしまったようだ。
「額の傷は出血が多いんだ。でも、傷は浅いみたいだから心配ないよ」
俺がそう説明しても、夏川先生の不安そうな表情はなかなか晴れそうにない。
「ごめんなさい。アタシが色々負担をかけてたから……」
その瞳に涙を浮かべながら、俺に頭を下げる春日。
俺はその涙を指で拭って、春日の頭に手を置いた。
「俺がこうやって倒れたのは初めてじゃないんだ。前にも同じ理由で倒れてる。お前のことが負担になってなかったとは言わないけど、お前だけの責任じゃないからそんな顔をするなよ」
「でも…… アタシが転がり込んで、仕事が終わったあとの時間まで勉強を見させてるから――」
「家に帰って来てからお前に勉強を教えている時間と、それまでの生活で帰って来てから諸々の家の作業をこなす時間はそれほど変わらない。その家事全般を今はお前が肩代わりしてくれてるんだから、負担は何も増えてない。だからそんな顔しなくていいんだ」
俺が倒れた理由を聞いて責任を感じて落ち込む春日に、俺はそう言って笑う。
心配そうに俺の顔を覗き込む彼女の申し訳なさそうな表情は、いつもの元気な彼女の面影がまるでなくて少しだけ幼く見せていた。
続く――。
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