第10話 9th lesson このどうにも恥ずかしい新婚というか、同棲したてのカップルのような雰囲気をどうにかしたい。
「あ、おはよセンセ。塾講師ってやっぱ起きるの遅いんだね」
朝、目を覚ましてダイニングに行くと、エプロン姿の春日が俺を笑顔で迎えてくれた。
食卓には手の込んだ感じの朝食が並んでいる。
「ああ、それがこの仕事の唯一の良いところと言っても過言ではないからな」
俺は欠伸を噛み殺しながら、食卓の椅子に腰掛ける。
するとすぐさま、まだ湯気の立ち昇るわかめの味噌汁が目の前に置かれた。
紅鮭にほうれん草の胡麻和え、白米に納豆に生卵、味付け海苔も忘れていない。
「あれか? ここはどこかの旅館かなにかか?」
「あはは、何言ってんのセンセ? ここはセンセの家に決まってんじゃん」
出て来たメニューの完成度も含めて、そこそこお値段の張る旅館の朝食の様だ。
褒め言葉のつもりでそんな間抜けなことを言ったら、春日に呆れられてしまった。
しかし、耳まで真っ赤になっているその後姿を見る限り、言葉に込めた意味はキチンと伝わっているらしい。
「うわっとっ!? アタシはそうゆっくりしてられない時間だった!! センセ、お弁当ここに置いておくから、食べていくか持っていくかしてね!! 食器は流しに置いておいてくれれば――」
「それくらい自分で洗うよ。ここまでの朝食を作って貰ったからな」
「ヒューッ! 流石センセ! 男前~っ!! それじゃあ、行ってきまーす!!」
嵐のように勢いよく、春日は玄関を出て行った。
「……なんていうか、朝から忙しない奴だよな」
それが、俺が起きて来るのを待っていたせいだと気付いて呆れる。
書置きでもよかったろうに。
「……明日から、もう三十分早く起きるか ってうまっ!?」
すすったみそ汁のあまりの美味しさに、思わず声をあげる俺だった。
春日の手作り弁当など持っていこうものなら、確実に黒桐室長から嫌味を言われる。
折角の美味い弁当にそんなケチがつくのはいやだったので、俺は少し早めの昼食を取った。
空いた時間を無駄にするのもなんだ。
この食生活では一気にお腹が肥えてしまいそうなので、近所を軽くランニングする。
かいた汗と疲労をシャワーで洗い流してから出勤……
なんだか、随分と健康的な生活になったものだ。
「しかし、軽く運動してから出勤した方が、頭は冴えるんだな……」
生徒の成績管理や書類整理をしていて、それに気付いた。
年齢や睡眠不足のせいだとばかり思っていた頭の回転不足だったが、どうやら運動不足も原因の一端を担っていたらしい。
こんな風に考えるのは癪だが、春日のおかげで俺の生活は少しだけ改善されたらしい。
食の充実と、運動、自分ではない誰かとの何気ないやり取り……
たったそれだけで、ここまで好調になるとは。
些細な日常こそが、生活の質を上げる大切な要素であることを痛感させられる。
「確かに、冬月先生今日はいつもより顔色がいいですね……仕事の前に運動なんて、何かあったんですか?」
俺の顔を覗き込んで、夏川先生はそんな風に言って首を傾げる。
その顔には、純粋な疑問と微かな焦りを感じた。
彼女が何を焦っているのかは分からない。
が、そんな彼女の質問には、前もって用意して置いた嘘の言い訳をする。
「いやぁ、お風呂を充実させたら調子よかったから、寝具を変えたり、簡単でも朝食をとるようにしたりってやってたんだけど……今度は朝の運動を取り入れてみたんだ。学生が朝練するのって、実はそういうメンタルを整える意味もあったんじゃないかって思うくらい、気持ちと頭をスッキリするから結構オススメだよ!」
「あはは、そうやって冬月先生が元気になるのはいいことですけど、色々試すのはほどほどにしないとですよ? 一気に色々変えすぎると、なんだかんだ体に負担がかかりますから」
俺の嘘を間に受けてくれる夏川先生に、俺は少しだけ胸が痛くなる。
まぁ、かといって春日のことを正直に話す気にはなれないのだが……
「ぐぬぬ……朝の運動はメンタルにはいい効果を出しそうだけど、体力を前借してるわけだから、午後の仕事がシンプルにシンドイな……」
やはり若くない自分の現実を、朝の行動によって突きつけられてしまった。
全てが上手くは行かないものだな。
「冬月先生、少々ミスが多いのではないですか?」
そんな日に限って、黒桐室長の機嫌は悪いものなのだ。
ミスと言っても、配布物の印刷枚数の取り違えと、電話がけ時間配分ミスだけなのだが……
「授業前の時間に夏川先生と楽しそうに話していた生活改善だかが原因なら、それは改善ではなく改悪だということでしょう。くだらない事にうつつを抜かしていないで、もっとしっかり仕事をして下さい」
黒桐先生を含めてほとんどの講師が、授業だけすればいいのは、雑務を全て俺に押し付けているからなんだが……
もう少し、皆様が気を配って下されば、ミスにもならないようなミスだったと思う。
まぁ、それを声にすることはしないが。
理由は単純明快だ。
「『すみません、以後気を付けます』」
と答えた方が楽だからだ。
もしも、黒桐室長達が授業前に一度プリントの枚数をチェックしていれば、配布時に枚数不足で混乱はしなかっただろう。
もしも、黒桐室長が体験生家庭への電話か内部生徒の家庭への電話のどちらかを手伝ってくれていれば、電話がけが中途半端になることもなかっただろう。
そんな文句を黒桐教室長にぶつけようものなら、理屈の通っていない彼なりの論理で、クドクド言われるのは分かっている。
ただただ面倒くさいだけの選択は、選ぶだけ損だ。
そんなこと分かりきっていた。
「そう言って、あなたはいつも同じミスを繰り返しているじゃないですか……」
「『すみません。今後は注意して行動させて頂きます』」
誓って言うが、俺自身は手を抜いていない。
その上で同じミスが繰り返されているのであれば、それはそのシステム自体に問題があるのだ。
だか、そんな考えには至らないのが、黒桐室長のダメなところなのだろう。
しかし、それを指摘して自覚させ、改善を図るということを、俺はしたいとは思えない。
労力に結果が見合わないのだ。
彼はどこまでも自分が正しいと思っている。
『正しい自分』と、『愚かな自分以外』。
そういう物差しで物事を判断している。
そんな彼には、彼ではない『愚かな人間』が何を言っても伝わらない。
だからもう、彼の改善に期待するのは辞めたのだ。
結局、それでもその黒桐室長の説教は口説くと続いた。
気がつけばいつもの時間。
例によって春日からは、心配半分からかい半分のメッセージが届いていた。
それに慌てて返信をしてから、急いで自分の家に戻る。
いつも通りの光景だった。
「ただいま」
「あ、お帰りセンセ! ご飯も出来てるし、お風呂も沸かしてあるけど……どっちにする?」
玄関を開けて家に帰ると、エプロン姿の春日が出迎えてくれた。
洗いものをする手を止めて、エプロンで手を拭いながら歩いてくる。
その姿と言動に、こう言わずにはいられなかった。
「いや、新婚夫婦か!?」
すると、春日から予想外の返答があった。
「あはは、それな。今私も同じこと思った。これは完全に新婚夫婦のデフォのやり取りだよね? 分かるし、ウケる!!」
朝のように照れると思っていたが、動じることはなくケタケタと笑う春日。
「で? センセはどっちにする? お風呂? ご飯? あ、それともア・タ――」
「それじゃあ、ご飯で。 せっかくお前が作ってくれた温かいご飯を冷ますのは勿体ない」
悪ふざけをエスカレートさせようとする春日の言葉を、料理への賛辞で遮る。
「ぐぬ…… 料理を真っ直ぐ褒めるの禁止! マジでむず痒い……デヘヘ……」
今度は俺の思惑通りに、狼狽える春日の姿が見れてホッとする。
振り回されているばかりでは癪だからな。
「そんなに期待されてるんじゃ仕方がない。 全力で作った私の自信作を食らうといいよ、センセ」
俺の心中を知ってか知らずか、春日はその大きな胸を張って自信作を食べるように促す。
俺は手を合わせてから、その自信作を残さず食らった。
「ふぅ~……お風呂に入った後の勉強がどうしても眠くなるからって、勉強をこなしてからお風呂にすると、面倒臭さが圧倒的に勝つよね……」
「そうだな…… これは考えものだな」
「やっぱり衛生問題的にもさ、お風呂は帰ってきてすぐ、ご飯前に済ませるっていうルーティンがいいと思う。外から持ってきた、埃や菌やウイルスと、疲れやストレスを洗い流して、清い身体と心で、私の自慢の食事を楽しんで欲しいもん」
「最後のお前の願望だな……まぁ、『衛生的』にその方向で検討するか」
時計を確認すると、時刻は3時。
今日は帰って来るのが遅かったのもあって、勉強の時間がずれ込んでしまった。
そのせいで、折角焚き直した風呂に入るのが、二人ともこれ以上ないくらいに面倒くさくなっていた。
湯船に浸かるのはいい。
ただ、その前に全身や髪を洗わなくてはいけないのがこの上なく面倒なのだ。
それをそのまま口にしたら、春日もそれに同意した。
『いつか、人を丸ごと洗い流せる便利な機械出来ないかな?』
なんてことを真剣な顔をして言っていたくらいだ。
「まぁ、くだらないこと言ってないで、さっさと入るしかないんですけどね!」
「そうだな……」
「それじゃあ、アタシは最後にお風呂を掃除するから、センセが先で」
「いや、それだとお前が寝る時間が遅くなるから俺が掃除するよ」
「いいの? 女の子のお風呂は長いよ? 待ってる間にセンセは眠くなっちゃうと思うなぁ〜、そうなったらもっとお風呂が面倒になる思うなぁ〜」
「……ぐぬぬ、分かった。先に入ろう」
このどちらが先に風呂に入るかという話題。
帰って来たとき同様に、新婚感が強いというか、リア充感が満載だ。
だが、もうそんなものどうでもいいくらいの眠気に襲われていた俺は、仕方なく春日の提案に従った。
「それじゃセンセ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
そんな当たり障りのないやり取りをしたのち、二人別々の寝室へと入り扉を閉める。
布団に飛び込んで、俺はその布団に向かって思っていたことを吐き出した。
『なんだよこの、同棲したての初々しいカップルみたいな雰囲気は!!』
布団に吸い込まれて、恐らく壁の向こうの春日には届かなかったであろう俺の言葉。
共同生活を始めるにあたって色々ルールを決めたりのが、どうやらそれっぽさを強くしてしまったらしい。
お互い何やら照れながらやり取りをしていることにも問題があるだろう。
「とりあえず、見る人によっては『イチャイチャしている』ように見える、言葉のやり取りは極力避けるよう努力しよう」
とにかく、このどうにも恥ずかしい新婚というか、同棲したてのカップルのような雰囲気をどうにかしたい。
俺の中で、何かが壊れてしまう前に。
続く――。
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