第8話 7th lesson すっきりとした顔をする彼女に、俺が安心すると同時に少しだけドキリをしたのは絶対に内緒だ。


「ここ、懐かしいね。アタシが初めてセンセに本気で怒られた場所だ……」


 それは校舎から少し離れた公園だった。

 ベンチと子供が乗れる動物のオブジェ、それに滑り台しかない、公園と呼ぶには少し寂しい場所だ。

 その為だろうか、子供が遊んでいる姿を見かけたことがない。


 あれは確か、春日の中学二年の夏だったと思う。

 塾に通う中学生あるあるだと思うが、彼女は『塾に行く』と嘘をついて家を出て、この公園で暇を潰していた。

 うちの塾は当時、始業時間に来ない生徒に確認の電話を入れていたので、その彼女の嘘はすぐにバレた。

 誘拐などの事件に巻き込まれた可能性もある。

 当時の小鳥遊室長の指示のもと、一部のクラスを自習にして俺は校舎の周辺で春日の姿を探した。

 コンビニ、商店街、よくサボりの生徒が時間を潰している場所を探しても見つからず、俺はそれこそ虱潰しで彼女を探した。

 そして、この公園で夜空を見上げる春日を見つけたのだ。


「春日、こんなところにいたのか。お母さんが心配してるぞ? ダメじゃないか、嘘ついて塾をサボったら……」


 この頃から、春日は塾大好きっ子だったので、俺は彼女が塾をサボった理由が分からなかった。

 でも、頭ごなしに怒っても意味がない。

 まずは彼女の話を聞くことにした。

 すると、


「はぁ~…… センセ、遅いよ。30分以上もかかってるじゃん。もっと早く見つけてくれないと~!」


 春日は、そう言っていつもの屈託ない笑顔を浮かべた。


「30分って…… お前何を言ってるんだ?」

「いやぁ、センセ達がいつも、『生徒の為ならいくらだって身体を張る!』とか言ってるから、実際どれくらい身体を張ってくれるのか試してみたくてさぁ~……でも、こうして探しに来てくれたのは冬月センセだけみたいだし、30分もかかってたら、もし本当に誘拐とかだったら――」

「そんな理由で、お母さんに心配をかけちゃダメだろ!!」

「っ!? セ、センセ?」


 子供が大人を試そうとするのはよくあることだ。

 大人は子供にもっともらしいことを言って縛り付けることが多い。

 だから、そんな大人を試すために子供が悪ふざけをするというのは本当によくあることなのだ。

 でも、塾の講師達を試したかったのなら、もっと別の方法だってあったはずなのだ。

 俺はたまたま、彼女の母親と電話で話して、母親の反応を知っていたから思わず彼女を怒鳴ってしまった。

 彼女が塾に来ていないことを伝えたとき、彼女の母親は電話の向こうで泣いてしまった。

 恐らくは、普段から春日は『いい子』だったのだろう。

 だから、サボるなんて想像が出来なかった母親は、誘拐や事故を想像してパニックになってしまったのだと思う。

 彼女のことを心配して泣いていた母親を知っていたから、俺は俺達を試す為にそんなことをした春日に声を荒げてしまったのだ。


「ご、ごめ……なさい…… センセ……」


 彼女に対して、俺が声を荒げたのはこのときが初めてだったと思う。

 春日は俺の怒る姿がよっぽど怖かったのか、泣き出してしまった。


「お前のことを大事に思って、信頼して、高い金払って塾に送り出してくれてるご両親の信頼を裏切っちゃダメだ。塾に通わせる為に、食事の準備や、色々なことを配慮してくれてるんだから……もしかしたら、口うるさいとか感じてるかも知れないけど、お前のお母さんは、お前が塾に来てないって聞いて泣いてたんだぞ?」

「ごめ……なさい…… ごめんなさい、センセ」


 制服のスカートの裾をぎゅっと握って、うつむいて泣く春日。

 その頭に手を置いて、そっと撫でたのを今でも覚えている。



「あのとき、本気で怒ってくれたセンセのこと、アタシもお母さんも、『この人なら任せて大丈夫』って思ったんだよ」


 俺の方を向いて、照れ臭そうに笑う春日。

 確かに、あの日から彼女は俺に懐いていた気がする。

 しかし、そうか。

 あのときから、彼女のお母さんも俺を信頼してくれていたのか。


「だから、センセには話しておきたかったんだ。アタシのお父さんのことを……」


 公園のベンチに座った春日は、自分の横を手のひらでポンポンと叩いた。

 どうやら隣に腰かけろということらしい。

 俺はその指示に従って、彼女の隣に腰かける。

 すると、春日は俺の二の腕にもたれかかるように頭を預けて来た。


「センセも知ってると思うけど、アタシはお父さんと仲が悪くてさ……まぁ、アタシがバカだからお父さんはイライラしてるみたいなんだけど。しょうがないじゃんね? バカなのはさ」


 彼女の父親は、確か有名大学の教授だったはずだ。

 そして、彼女の兄もその有名大学に合格していたらしい。

 俺はその兄のことはよく知らない。

 ただ、事故で亡くなったとだけ彼女から聞いていた。


「お父さんはずっと、優秀なお兄ちゃんが大好きでさ。いつも『賢吾のようになれ』だの、『どうして賢吾のように出来ないんだ』だの、アタシには文句ばっかりだったんだよね……あれでもう少しお兄ちゃんがバカだったらよかったんだけど、お兄ちゃんバカはバカでも『勉強バカ』だったから……お父さんの期待にガンガン応えてさ、超有名大学とか合格しちゃうんだもん。バカな妹としては立つ瀬がなかったよ」


 話を聞く限り、どうやら彼女の父親は昔気質の硬派な男性のようだ。

 女性の扱いが苦手で、厳しく接することが父親の威厳を保つ手段だと思っていたのかも知れない。

 兄を良き見本にして、春日にも聡明に育って欲しかったのだろう。

 それが、恐らくは春日には上手く伝わらなかったのだと思う。

 まぁ、そんな風に父親を擁護するような言い方をすれば、彼女からの信頼を失ってしまうので、俺はそれに気付かないふりをして、彼女の話をただ聞いていた。


「お兄ちゃんが死んでから、お父さんはアタシに鞍替えしたみたいで、『そんなんじゃ賢吾の様にはなれない』とか、『賢吾はもっと頑張っていた』とか、前以上に厳しくなっちゃって…… アタシはすっかり勉強が嫌いになってた。そんなとき、友達に誘われて行ったのがセンセのいるあの塾。小鳥遊センセも、冬月センセも、悔しいけど黒桐も、みんな教えるのが上手くてさ、授業も楽しいからアタシ勉強が楽しくなって、そしたら段々点数も取れるようになって……最初考えてた志望校より、ずっと高い高校を狙えるって、センセ達が言ってくれるくらいには模試で点取れるようになってた」


 確かに、塾に来てからの春日の伸びは凄かった。

 ほぼ底辺を彷徨っていた模試の得点は、あっという間に上位に食い込み、得点力だけなら、EXクラスと勝負を出来るほどまで成長していた。


「これ、頑張ればワンチャン行けるんじゃないかって思ってたのに……そこに来て突然、お父さんは『成績に見合った高校を受けろ』とか言い出した。『お兄ちゃんみたいになれ』とか言ってたくせに、完全に正反対のことを……本当に訳が分からないって思った。ふざけんなって思った。でも、お母さんも私も、結局お父さんには逆らえなくて、元々の志望校を受験することになって……もちろん普通に合格したし、それどころか、入試の点は合格者で一番になってて、なんか高校先生達からメッチャ注目されて……高校の先生達から話を聞いたお父さんもなんかメッチャ調子乗っちゃって、アタシをいい大学に行かせるとか言って、また無茶苦茶厳しくなったんだよ」


 受験期、保護者と講師の間での温度差は大きくなる。

 実際の得点力を目の当たりにしている講師達と、人伝にしかその結果を聞かない保護者では、生徒の得点力という点で確度が雲泥の差になるのだ。

 それは学校の教師も同じで、学校の教師もやはり彼女の父親と同じように、目の前にある生徒の成績をベースに進路を指導する。

 元々、彼女の父親は塾講師を『教員になれなかった落ちこぼれ』だと思っていた節があったので、進路指導においても『教員』である学校の教師の方を信じたのだろう。

 それは非常に悔しい話だが、実際にはよくあることだった。


 しかし、蓋を開けてみたら春日の得点力は本物で、主席合格なんていう偉業を達成してしまった。

 その結果を聞いて、彼女の父親は彼女に対して、兄に向けていたのと同等の期待を寄せたのだと思う。


「それからの勉強は、もう本当に最低だった。楽しくないし、シンドイし、面倒くさいし……結果が出ないと怒鳴られて、ペナルティって言ってお小遣い減られされたり、門限とか早まったりして…… もう、本当に最低最悪。しかも、高校の勉強はどんどん難しくなるし、早いし、ついていけなくなるし……アタシに期待してた高校の先生達も、勝手に失望して……もう、本当に勉強が苦行でしかなくなってた」


 高校の学習内容は、本当に難しい。

 俺もその壁にぶつかって挫折した口なので、彼女の気持ちは痛いほど分かった。

 加えて、出だしが良すぎただけに、周囲からの期待という余計な要素も乗っかって、彼女の前に勉強は壁となって立ちはだかったのだ。

 それは『勉強嫌い』になって然るべき状況だったと思う。


「もう、適当な大学とか、短大とかに行って、適当な人生でも歩めばいいかなんて……そんなこと考えてたら、友達が塾の講習に誘ってくれてさ。『ああ、そう言えば、中学の頃は塾の勉強楽しかったな』って思って、体験を受けてみることにしたのがあの日だったってわけ」


 そして、彼女は俺と再会し、その友達からの誘いを断って、俺へ家庭教師を依頼したという訳か。


 話を聞いて、色々腑に落ちた。

 もちろん、何で友達の誘ってくれた塾の講習より、俺の家庭教師を選んだのかとか疑問はある。

 でも、あのときの彼女の突拍子もない提案の裏には、そんな悶々とした彼女の高校生活があったのか。


「センセの顔を久々に見たとき、アタシ泣きそうになった。ああ、センセならアタシをまた助けてくれるんじゃないかって……そしたら、あんな変なお願いしちゃってたんだよね。あはは…… ゴメンね」


 亡くなった偉大な兄の存在。

 生真面目で厳しく、不器用すぎる父親。

 入試結果だけを見て、彼女に過度な期待をした後、勝手に失望した高校教師。


 そんな様々な要因が、最悪の形で歯車をかみ合わせてしまった為に、今の彼女の『勉強嫌い』が完成してしまったのだろう。

 少なくとも、いつか父親とは和解させる必要があるが、それはいまではないだろう。

 そのときが来たら、またどうするかを考えるので間に合うはずだ。


 だから、今は彼女の望む、『彼女の味方』として俺は彼女の寄り添ってあげようと思った。


「別に構わないよ。うまい飯にもありつけるし、なんだかんだでお前に勉強を教えるのも楽しいしな」


 俺はそう言って、あの日と同じように春日の頭をそっと撫でた。


「わひっ!? セ、センセ!? い、いきなりそれは反則だよ!!」


 すると、春日は弾かれたように立ち上がり、俺から距離を取る。

 宙を彷徨う自分の手を見つめて、俺は苦笑いを浮かべた。


「すまんすまん、もうれっきとしたレディのお前に、昔の感覚でのスキンシップはマズかったな……頼むからセクハラで訴えないでくれよ」


 そう言ってベンチから立ち上がる。


「訴えないし! ちょっと驚いただけで、別にダメとは言ってないし!」


 何やら早口でそう言って、俺に背を向ける春日。


「けど、話が聞けて良かったよ。お前の事情がよく分かった。俺がどうしたらいいのかもな。まぁ、ただ、一つ言えるのは、どんなに鬱陶しくても、どんなに最低に思えても、お前のお父さんは一人しかいないんだ。今は無理でも、いつかは折り合いをつけないとな」


 そう言って牽制のような言葉で釘だけ差しておく。

 可能なら、いつか彼女に不器用なお父さんの愛情が伝わるといいんだが……


「出た出た、センセのド正論。本当にそゆとこ変わらないよね……そんなんだから、彼女に捨てられるんだよ。もう少し、乙女心を勉強した方がいいんじゃない?」


 そんな憎まれ口をたたく春日だが、その言葉に強い嫌悪感はない。

 彼女も父親を嫌いながらも、いつかは和解する必要があることに気付いているのだろう。


「いいんだよ、そういうのは。この仕事を続けてる限り、出会いなんてないに等しいし、俺にはもう、大勢の子供がいるようなもんだしな」

「あはは、そんな寂しいこと言って強がってもダメだよ。センセが彼女とか欲しいのは知ってるんだから。この前お部屋の掃除してたら、そういうHow to本が出て来たし」


 それは多分、俺のことを心配した妹が持ってきた奴だろう。

 まぁ、それに一応は目を通したのだから、彼女の指摘も全くの的外れという訳ではないか。


「最悪、どうしてもセンセに彼女が出来ないときは、しょうがないからアタシが貰ってあげるから安心してね!」


 それが彼女の冗談だということをしっかりと理解している俺は、そんな言葉で照れたりはしなかった。


「あはは、そうだな。どうしようもなくなったら、そのときはお願いするよ」


 だから俺は、そんな軽口を彼女に返す。


「――――っ!?」

「ん? どうした、春日? 大丈夫か? もしかして、喋りながら歩いて舌嚙んだか?」


 見れば、真っ赤な顔をして口元を抑える春日を追い抜き家に向かって歩き出す。


「さぁ、色んな事情は分かったが、お前が『ムカつく父親』を見返す為にもしっかりと後れを取り返さないとな。さっさと家に帰ってカレーを食べて、今日の分の勉強をやっちまおうぜ」

「分かってる!! だからアタシを置いて行くな!!」


 そんな俺の背中にドロップキックを叩き込みながら、楽しそうに笑う春日。

 ふむ。

 あんな風に話していたわりに、いや、したからこそか。

 すっきりとした顔をする彼女に、俺が安心すると同時に少しだけドキリをしたのは絶対に内緒だった。



 続く――。


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