第7話 6th lesson 彼女の高校での話。それは多分、彼女の抱える悩みに繋がっている…… そんな気がした。
「それじゃあ、お疲れ様です。悪いけどお先に失礼しますね」
そう言って、黒桐室長はいつも通り先に教室を後にする。
その背中を見送って、俺は一人職員室で溜息をついた。
叶うなら俺もさっさと帰って春日の作ったカレーを食べたかった。
が、明日のテスト対策でバイトの先生達が使うテスト対策用冊子の印刷と製本がまだなのだ。
就業打刻をキチンとしてネクタイを外してラフな格好になってから、授業の合間に用意して置いた原本を印刷機に読み取らせて、人数分の冊子を印刷していく。
この前のポスティング用と違って、生徒人数分で済む。
とは言え、冊子一冊分が20pあるので、印刷枚数は累計ではそこそこの枚数だ。
それを長椅子にページ順に並べて、一枚ずつ拾い上げながら重ねて最後にホチキスで止める。
この作業を延々繰り返して、生徒人数分の冊子を作っていくのだ。
こんな作業を、塾講師は担当中学校のテストがやって来るたびにやっている。
おかげさまで、俺はその長年の経験を活かし、両手で別々のプリントを拾い上げ、一周で2冊の冊子を作ることも出来るようになった。
もし俺が急死して異世界のOLとかに転職しても、会議の資料準備では困らないだろう。
……どうやら俺はかなり疲れているらしい。
異世界のOLって何だよ。
そりゃそうか。疲れていないわけがない。
昨日は一睡もしていない上に、今日もフル稼働だからな。
「とか、どうでもいいこと考えながらでも、問題なく製本作業が出来るくらいに、この作業には慣れてるんだよな……」
その言葉に応える声は無い。
校舎には今俺しかいないのだから当然だ。
こういう一人の作業が多いからかどうか分からないが、俺はこの校舎で黒桐室長の下で働くようになってから独り言が増えた気がする。
そう言えば、もしかして春日から何か連絡が来ていたりするだろうか?
ふと気になってそんなことを考えていたら、春日の声を幻聴した。
「うわぁ…… 両手使って冊子作りって、本当にやってるの見ると『凄い』って言うより『キモい』ね」
幻聴でも『キモい』とか言われてしまうのが実に悲しい。
だが、ふむ、確かにこの状況ならそんなことを言いそうだ。
「はぁ…… 睡眠不足は良くないな。とうとう幻聴が聞こえ始めた……春日がこんなところにいるわけないのに……」
「いや、いるんですけど? 連絡しても返事がないから、どうせ仕事してんだろうなとは思ってたけど……幻聴扱いされるとか、流石につかれ過ぎでしょ」
あまりに自然な返答をしてくる幻聴に、思わず首を傾げる。
いや、これを幻聴と言い切るのには流石に無理があるか。
恐る恐る校舎の入り口に視線を向ける。
すると、俺の部屋の来客用スウェットを身に付けた、ラフな姿の春日がニヤニヤしながらウインクをしてきた。
「やっほー、センセ。暇だし、ちょっと心配だったから来ちゃった!」
俺に向かってピースサインを向け笑う。
「おいおい、お前こんなところまで来ちゃ……いや、別に問題ないか」
『ダメだろ』と言いかけてその言葉を飲み込む。
特にダメな理由が思い当たらなかった。
実際、この時間にビールを持って遊びに来たりする卒業生もいる。
なので、こうしてここに春日がいても、特に問題もないのだ。
「ね、センセ。その作業、終わらないと帰れないんでしょ?」
「ん? ああ、そうだな」
「じゃ、手伝う。捲って重ねてホチキスで止めればいいんだよね?」
スタスタと俺の横に並ぶと、春日は黙々とプリントを捲り上げ始めた。
「悪いな、手伝って貰って……」
「あはは、いいってことよぉ~!まぁ、この後色々頑張って貰わないとだしね……ってか、この作業見た目地味だけど、なんかだんだん楽しくなってくるね!」
言葉通り楽しそうにプリントを捲って重ねていく春日の姿を見ていたら、不思議と俺もこの地味な作業が楽しくなって来た。
「それにしても、てっきりセンセは『これは俺の仕事だから』とか言ってお手伝い拒否されるかと思ったけど、なんかすんなりOKしてくれたね? もしかして、アタシはセンセの中で特別枠に入っちゃった感じ?」
「いや、この後のことを考えると手伝って貰った方がいいなって思っただけだ。そもそもなんだよその『特別枠』って? 俺だって別に、誰かを頼ったりとか普通にするぞ」
春日に指摘に実は内心ドキリとしていた。
『手伝う』と言ったのが春日以外の誰かだったら……
彼女の言う通り、多分俺は断っていたと思ったからだ。
『特別枠』という表現もあながち間違いではないかも知れない。
少なくとも俺は春日に対して、彼女以外の人間にしている遠慮的なものを感じなくなっている様だ。
「ふーん…… まぁいいけどねぇ~」
クスクスと笑いながら、春日は手際よく冊子を作っていく。
気付けばみるみるうちに必要人数分の冊子が出来上がる。
「よっし、これで最後だね!」
「おう、春日のお陰で予想よりかなり早く終わったな……」
時計を見ると、23時半を少し過ぎたところだ。
「それじゃあ、急いで帰るか」
そう言って俺が出来上がった冊子をそれぞれの先生の棚にしまっていくと、その棚をマジマジ見つめて春日は首を傾げた。
「ねぇ、それって全部自分で使うやつじゃないよね?」
「ん? ああ、そうだけど…… それがどうかしたか?」
冊子を棚に仕舞い終えて振り返ると、春日は珍しく怒っているように見えた。
「それってなんかおかしくない? 自分が使うものを人に用意させるとか、それって手抜きじゃん」
「いや、バイトの先生達は授業をしている時間しか給料が出ないしさ……こういう時間もかかる準備までさせたら可哀そうだろ。働いた分給料が出る社員の俺がそういう部分をフォローしないとなんだよ」
「それじゃあ、この作業にセンセにはお金が出てるわけ?」
「いや、それは……」
「出てないでしょ? だってセンセ、すごくラフな格好してるもんね? それなら可哀そうなのはセンセもそのバイトの人達も同じじゃん」
本当に、春日は俺のことをよく見ている。
彼女の言葉があまりに的を射ていて俺は返す言葉を見つけられずにいた。
「こういう作業はむしろやらせてあげた方がいいと思うよ? アタシ、さっき手伝ってて、『ああ、今の子達はこんなところを勉強してるのか』とか、『ああ、この問題ってアタシも中学生のときに苦戦したな』とか思ったもん。あの冊子を使って授業するなら、冊子作ることでそういう確認とかもできると思う。アタシは塾の先生の仕事についてはよく分からないけどさ、これってやっぱり、その先生達の手抜きだよ」
それも全て、彼女の言う通りだった。
本当に耳が痛くなる。
彼女の方が、よっぽど講師として大事なことが見えている。
「はぁ~…… 本当にお前の言う通りだよな。全く持って俺も同意見だよ」
「じゃあ――」
「けどな、これはまぁ、所謂『上司の命令』だから仕方がないのさ」
俺は、机の上の荷物を鞄に仕舞いながら、やれやれと深い溜息をつく。
「春日、これはマジでただの愚痴だから……聞いてて気分が悪くなったらゴメンな」
そう前置きをして、俺は胸に溜まっていたもやもやした気持ちを吐き出した。
「全部黒桐室長の指示なんだよ。それに、バイトの先生達は本業の大学の試験とかもあって忙しいから、あまり負担が多いと続かないんだ、この仕事は。だから、出来る限り負担を減らして、甘やかして働いて貰ってる」
面倒な雑務は全部俺に押し付けて、黒桐室長はバイトの先生達と楽しく雑談。
それが黒桐室長のやり方なのだ。
「けど、俺もお前の言う通りのことをずっと考えてた。この作業って面倒だし大変だけど、お前の言うような気付きが沢山ある大事な作業なんだよな」
バイトの先生の負担を減らしてあげたいのは俺も同じだ。
でも、もっと別のところの負担を減らしてあげて、こういう準備の作業はさせてあげた方がいいのではないかと俺はずっと思っていた。
それをまさか、春日の口から聞くとな。
「もっと授業のやり方をアドバイスしてあげたり、生徒の管理の仕方かとか、しつけの部分を肩代わりしてあげたりさ……面倒な作業を引き受けるのとは別の負担の減らし方もあるんじゃないかって思うんだけど……
「……黒桐がそれを聞き入れないってことか」
「ま、そういうことだ……そう言う形にすると、黒桐室長にも作業負担が出てくるから嫌なんだろうさ」
黒桐室長は、基本的に自分の仕事を増やさない。誰かの負担を減らそうとする時は、別の誰かにその負担を押し付けるのだ。
そして、授業や生徒の管理については、バイトの講師達の裁量に任せてほぼ放任。
それでなにか問題が起きたときは、その講師の自己責任として、『どうしてそうなったのか』と詰めるのだ。
プリント印刷などの面倒な単純作業の負担を減らしているのだから、授業などは自分の努力で向上させろという方針だ。
ロジックは分かるし、その合理性も理解できる。
でも、そのやり方が正しいとは思えなかった。
「俺と黒桐室長のやり方や考え方は、もう完全に正反対だからな……俺が変に意見をすると、怒らせちまうし校舎の雰囲気も悪くなるしでさ……結局その辺の面倒くささや労力を考えて、俺は黒桐室長の指示をそのまま聞き入れてやってるんだ。それで結果的に、バイトの講師の先生達は黒桐室長に詰められるのがしんどくて、ボロボロやめてっちゃうんだけどな……」
単純作業や面倒な仕事をやって貰う代わりに、授業や生徒管理のやり方なんかを手厚くフォローして、そっちの面での責任を経験の豊富なこちらが担保してあげた方がよっぽどバイトの講師の先生達は働きやすいのではと俺は思う。
「まぁ、それも含めて、この教室は黒桐室長の教室だからな。一国一城の主は彼だし、俺は彼の忠実なる僕だ。下剋上を考えてもいいのかも知れないけど、俺はそんなことをしたいとは思わないし……無責任だけど、彼の采配で教室が崩れていくなら、そのままにした方が彼の為にはなると思うしな」
「そっかそっか。なんかよく分からないけど、センセが色々大変なんだってことは分かったよ。まぁ、色々考えがあってそういうやり方をしてるってことね……」
春日の言葉で、俺ははたと我に返る。
「悪い悪い。やっぱりこんなこと、お前に話す内容じゃなかったよな」
仕事の愚痴を聞かせる相手を完全に間違いていた。
こんな話、本来なら赤木に聞かせるべき内容だ。
「いいっていいって、気にしないでよ。アタシはセンセの愚痴が聞けてなんか嬉しいよ? なんか心を許してくれたって感じするしさ……」
「そう言ってくれるのはありがたいけどな……」
ニコニコと俺の肩を叩く春日に、俺はホッと胸を撫でおろす。
でも、直後偉く真面目な顔をして、気分悪そうに言葉を続けた。
「でもね……黒桐のやり方は気に入らないな。理想や考え方はあるんだろうと思うけど、それに伴って生じる面倒事を全部センセに押し付けて、結局自分は楽しようとしてる考えが見え見えだもん。偉そうに理想を掲げるなら、ちゃんと自分でやれって話。ホント黒桐って、うちのお父さんと同じで、腹立つ……そういう大人が、私は一番嫌いだよ」
どうやら俺の為に腹を立ててくれている様だ。
それが申し訳ないと同時に、少しだけ嬉しかった。
しかし、気になる言葉もあった。
「春日、お前お父さんとまた上手く行ってないのか?」
そう言えばと思い出す。
コイツが俺の生徒だった頃、進路についてで父親と大きく揉めたことがあった。
塾に通うことで大きく得点力を伸ばし偏差値を向上させた春日は、当時の内申点、成績からは際どいとされる志望校への受験を望んだのだ。
彼女の母親もそれに賛同して応援してくれていたが、父親はそれに最後まで反対。
結局、父親の言う内申点や成績から考えて無難と思われる高校を受験することになってしまったのだ。
「あはは……センセって本当に目ざといよね?」
俺の指摘に、春日は苦笑いを浮かべる。
「まぁ、その話は帰りながらしない?」
校舎の入り口を指差す春日。
「そうだな…… そうするか」
「じゃあ、外の自販機でジュースでも買って貰って、それでも飲みながら話してあげるとしましょうか!」
わざとらしくそうやっておどけているところを見ると、あまり話したくない内容なのだろう。
「春日、別に話しにくいならその話は――」
「ううん、センセには聞いて欲しい。面倒くさいかも知れないけど、アタシの高校での話を……」
そう言って先んじて校舎の入り口を出て行く春日。
俺はその背中を追う前に、電話を転送したり、校舎を後にする準備を一通りこなす。
彼女の高校での話。それは多分、彼女の抱える悩みに繋がっている…… そんな気がした。
続く――。
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