第6話 5th lesson 帰った後に俺を待つカレーを心の支えに、校舎での仕事に耐えるのだった。


「眠そうですね、冬月先生?」


 校舎で配布プリントをコピーしながら欠伸をかみ殺していたら、夏川先生に寝不足を指摘される。


「え? あはは、ちょっとね。教研やら色々やってたら、結局徹夜になっちゃってさ……」

「先生でもそんなことあるんですね?」

「いや、こんなことしょっちゅうだよ。特に季節講習中の『特色試験対策』の教研するときなんかは、大抵徹夜で挑むことになるし……」

「あはは、そう言えば私が生徒だったときも、目の下にくま作ってそんなこと言ってましたね……」


 まぁ、塾講師の徹夜なんて珍しいものではないので、変に怪しまれることは無いのがありがたい。

 しかし、『徹夜が珍しいことじゃない』という部分に、悲しみを感じずにはいられなかった。


「そう言えば、そんなこともあったね」

「生徒のときは、『先生って大変なんだなぁ』程度にしか思ってませんでしたけど、こうして先生になってみると、あのときの先生の大変さが身に沁みて分かります」

「それはまた、嬉しいような申し訳ないような……複雑な気持ちにさせられる感想だ」


 小中学生の勉強の手助けをして、学校での学習理解の補助や進路実現のための学力向上に貢献できるこの塾講師という仕事は、とてもやりがいのある仕事だと思う。

 出来なかったことが出来るようになって喜ぶ生徒の顔や、志望校に合格して涙を流す生徒を見て、俺は毎年この仕事をやって来て良かったと思っている。

 まぁ、そこに至るまでの就業状況なんかは、冷静に考えると辞めたくなってしまうので、基本的に考えないようにしているというのが現実ではあるが。

 だから、こうして教え子である卒業生が、同じ志の元に一緒に働いてくれる状況は嬉しい以外のなにものでもない。

 同時に、この過酷な現場に招き入れてしまったことへの責任感というか、罪悪感を覚えずにはいられないのだ。

 実際、『こんな大変な仕事だとは思わなかった』と言って、やめてしまう卒業生も多い。

 だから、夏川先生の『大変さが身に沁みて分かる』という言葉に、俺を複雑な気持ちにさせられるのだ。


「しんどかったら言ってね。出来る限りのフォローはするから」

「はい。大丈夫です。ありがとうございます」


 今のところ、こうして朗らかに笑ってくれている夏川先生は大丈夫だろう。

 ただ、その向こうで頭を抱えているバイト講師の下田しもだ先生はヤバそうだ。

 最近生徒管理が上手く行かなくて、ちょいちょい黒桐室長にネチネチと詰められているのだ。

 正直、色んな意味で心配だった。


「……お疲れ様です」

「お疲れ様、結構疲れてそうだけど大丈夫? なんか困ったこととかあったら相談してね!」

「あはは、大丈夫っす。ありがとうございます」


 元気のない顔の下田先生。

 力のない声でそう言って、講師控室へと消えて行く。


 下田先生は今、中学二年生を担当しているのだが、Bクラスの生徒管理でかなり苦労しているようだ。

 うちの教室ではクラス分けを学校の成績と模試の偏差値、そして黒桐室長の采配で分けている。

 クラスは上から『EXクラス』、『Sクラス』、『Aクラス』、『Bクラス』の4つ。

 『EXクラス』は基本的に最上位レベルの県立高校を志望校にする生徒の為の特別クラス。

 会社の実績にも関わるクラスなので、俺と黒桐先生とベテラン講師の斎藤さいとう先生で担当している。

 下田先生はまだ歴も浅いのもあってそれ以下のクラスを担当しているのだ。

 特に勉強が苦手な子が多い『Bクラス』は授業中の生徒の管理が難しい。

 集中力が続かない為、どうしても私語やよそ見が多くなってしまうのだ。

 そんな生徒達を引っ張っていくには、そう言う集中力を欠いてしまう生徒に注意を促しながら、とにかく分かりやすさで惹き付けるしかない。

 正直、勉強のできる子の多い『EXクラス』より、『Bクラス』の方が講師の実力を必要とするのだ。

 下田先生はまだ講師としての課題が多いので、生徒達を怒ったりして管理しなければならず、その結果一定数の生徒達から嫌われてしまっていた。


「……下田先生、元気ないですね」

「そうだね。夏川先生、悪いんだけど彼に探り入れて見てくれない? 多分俺だと『黒桐室長に伝わるかも?』と思って本音とか言えないと思うから」

「分かりました! 任せて下さい!!」


 俺の頼みを素直に聞き入れて、講師控室へ向かってくれる夏川先生。

 彼女なら彼とも年が近いし、今の彼の本音を聞き出せるかも知れない。


 下田先生は多分今、ドツボにハマってる状況だと思う。

 生徒は子供だ。

 彼らは気に入らない大人のいうことは聞かない。

 自分達の味方となってくれる大人にしか、心を開いてくれないし、いうことも聞いてくれないのだ。

 下田先生は黒桐室長に生徒の管理を厳命されているせいで、どうにか生徒を自分の指示に従わせようと必死なのだ。

 結果、生徒達に厳しく接している為、生徒達との間に敵対関係が出来上がってしまったのだろう。

 そうなってしまうと、一部の生徒達は下田先生を困らせようとして、敢えて問題行動をするようにもなってしまう。

 もしかすると、現状のあのクラスの問題はそうした背景があるのかも知れない。

 

「はぁ~…… あの顔。あんな風だから生徒に舐められるんだよ」


 そんな下田先生を見送って、黒桐室長は深い溜息を漏らす。

 あのクラスの状況が下田先生の管理力不足だとでも言いたげな黒桐室長に、俺は口を挟むかどうか迷った。

 というのも、現在俺は、中学一年生の責任者で、中学二年生に関しては『EXクラス』しか関われていないのだ。

 中学二年生は翌年が受験学年だということもあり、室長である黒桐室長が責任者だ。

 その学年の方針に俺が口を出すことを、黒桐室長は快く思わない。

 しかし、こういう状況の場合、下田先生一人の力でどうにか出来る問題ではないのだ。

 別の科目で入っている別の講師が、下田先生の情報を補強したり、彼の頑張りを伝えることで生徒達の中の彼への評価を改善してあげなければならない。

 ただ、黒桐室長はそういうことをする気はなさそうだ。

 なので、『そうした方がいいのでは?』という提案を誰かがしない限りこの状況の好転は無いのだろう。

 しかし、しかしだ。

 そうやって火中の栗を拾いに行った場合、間違いなく俺はやけど以上のダメージを被るだろうことが目に見えている。

 痛い目を見るのを分かっているのに、そうするだけの元気が今の俺にあるかどうかということが問題だった。


 ふと、頭に過ったのは春日の顔だった。

 ここで俺が下田先生をみすみす潰してしまうような行動をしたら、きっとあいつは俺に失望する。

 そう思ったら、勝手に口が動いていた。


「下田先生を裏コマの先生がフォローしてあげたりしないとちょっと厳しいんじゃないですか? 実際下田先生はあのクラスの為に、夜遅くまで研修とかも頑張ってるし、そう言う部分のアピールを黒桐室長とか、斎藤先生がそれとなくしてあげたら――」

「冬月先生は、中二担当の僕らが問題だってそう言いたいんですか?」


 俺の言葉に、黒桐室長は明らかに不機嫌そうに言い返して来た。


「あのクラスが下田先生の授業のときだけ荒れているのは明らかだ。僕や斎藤君のときには問題が起きないってことは、下田先生の授業に問題があるってことですよね?  それを『学年担当全体の問題』みたいに言うのは、ちょっと失礼なんじゃないですか?」


 別に『学年担当全体の問題』なんて言っていないと思うのだが……

 まぁ、俺が言いたかったのは『下田先生を学年担当全員でフォローアップして欲しい』ということだったので、受け取り方によってはそうなるのか……


「いやいや、そんなつもりじゃないですよ。下田先生の管理にも、もちろん問題はあると思います……でも、ここまで状況がこじれると、まだ経験の浅い下田先生の力だけでは、事態の解決は難しいと思うんですよね……」


 俺はなんとかして黒桐室長が動いてくれるように言葉を弄する。

 黒桐室長を頼るしかないんです的な雰囲気を作れれば、多分彼を動かすことが出来ると思うのだが……


「ここは、あの学年を一番掴んでいる黒桐室長が生徒達を上手く誘導して、下田先生と生徒達が歩み寄れるように采配していただくのが、この状況を解決する一番の近道な気がするんです」

「確かに、それはそうかも知れないね……」

「いつもいつも頼ってしまって申し訳ないんですが、黒桐先生に一肌脱いで頂けないかなっていう感じなんですけど……お願い出来たりしませんかね?」


 もはや、太鼓持ちのごますりみたいなことを言っている自分に呆れながら、俺は黒桐室長の顔色を伺ってみる。


「はぁ~…… 確かに、あの学年を一番掴んでるのは僕だけどさ、僕が動いちゃったら、結局下田先生の成長には繋がらないんだよね……」


 そう言いながらも、嬉しそうな表情を隠せていない黒桐室長。

 俺は心の中で『勝った!』とガッツポーズを取った。


「けど、まぁ今の状況だと、下田先生が空回りするばっかりだろうし、仕方がないか。ここは僕が動いて収束をはかるしかないかなぁ……他学年の担当の冬月先生からもそう言われたらねぇ」


 まんざらでもなさそうな顔をして席を立ちあがると、黒桐室長はゆっくりと講師控室へと歩いていく。


「まったく、本当に冬月先生は、すぐに僕に面倒事を押し付けるんだから……これは貸しってことにしておきますからね?」


 冗談っぽくそう言って講師控室に消えて行く黒桐室長の背中を見送っていると、入れ替わりに夏川先生が職員室に戻って来た。

 直後、講師控室から敢えて陽気に語る黒桐室長の声が聞こえて来る。


『下田先生、ごめんね! Bクラスの管理について最近結構厳しく言ってたけど、あれは君の成長の為でもあったんだ。だけど、流石にかなり状況がこじれて来ちゃったし、ここは僕が動いでゴリっと解決までの筋道を作ろうと思うから!!』


 その声を聞いて、驚いた顔をする夏川先生。


「冬月先生、どんな魔法を使ったんですか?」

「ん? 何が?」

「さっき下田先生に話を聞いてたんですけど、彼が一番悩んでたのはBクラスの管理について、室長先生が全然助けてくれないことみたいだったんですけど……それがもう、解決しちゃいそうな感じだったので」


 講師控室からは、『あとは僕に任せて!』という黒桐室長の声と、それを聞いて安心したのか少し鼻声で返事をする下田先生の声が聞こえている。


「あはは、ちょっと黒桐室長に一肌脱いでくれるように頼んだだけだよ。これで完全解決って感じにはならないと思うけど、下田先生への詰めとか、あのBクラスの雰囲気とかは少し改善できるんじゃないかな?」

「……ただ、室長先生の『貸しですよ』って」

「ん? ああ、そこについてはもう仕方ないよね」


 夏川先生も元生徒だったし、今は一緒に働いているので分かっている様だ。

 黒桐室長が『貸し』という言葉を使う場合、これは冗談ではないのだ。

 この『貸し』は必ず近い将来、キチンと返さなければならないときがやってくる。

 以前は、『季節講習中の休校期間に補習講座を一人で任される』という形で、『貸し』を返させられたことがあったっけ。

 今度はどんな形でこの『貸し』を返させられるのやら……


「だって、この一件って冬月先生は何も――」

「管轄外の学年のことに口を出したことへのペナルティーとかなんじゃない? その辺はきっと、彼の中にはなんか不思議な方程式でもあるんだと思うよ」


 夏川先生の言いたいことは分かる。

 下田先生の一件に、正直なところ俺は一ミリも関わっていないのだ。

 だから、普通に考えればこの件に関して俺が黒桐室長に借りを作るいわれはない。

 だが、彼にそういうことを言っても仕方がない。意味がないと分かりきっている。


「まぁ、そういうことだから、夏川先生は気にしなくていいよ」

「でも……」

「これ以上この件をひっかきまわして、教室の雰囲気を悪くしても仕方ないしね。ってなわけで、この話はおしまい。夏川先生も下田先生の話を聞いてくれてありがとね」


 恐らくは俺の為に引き下がる夏川先生に、俺は笑顔を向かて話を早々に切り上げるのだった。


「それは別に、いいですけど……なんか色々納得いきません」

「あはは、その気持ちはまぁ……分かるし嬉しいけどね」


 納得がいかない風の夏川先生だったが、俺の気持ちを汲んでそれ以上その話はせず、授業の準備作業に戻って行った。

 彼女は、この教室で数少ない俺の理解者だと思うが、そのことで黒桐室長に目をつけられても困る。

 こんな風に程よい一定の間隔を保っているのが、彼女を含めたスタッフのみんなに妙な波風を立てずに済む一番の方法だろう。

 黒桐室長の標的になるなら、俺一人で十分なのだ。

 ここしばらく俺が見て見ぬフリをしてしまったせいで、下田先生には辛い思いをさせてしまったなと少し後悔する。


 でも、少し前までの俺には、こんな面倒なやり取りを進んでするだけの気力がなかった。

 俺にそれだけの気力を取り戻させたもの。

 それはもう自分には分かっているのだが、しばらくは気付かないふりをして置こうと思う。


 そこに丁度メッセージアプリに、春日からのメッセージが届く。

 文面は今日の晩御飯のメニューを伝えるものだった。


「お、今日はカレーか」


 定番だが間違いなく美味しいのがカレーの良いところだ。

 しかも、それを作るのがあの春日だと思うと、余計に期待値は高くなる。


 そんな訳で、その日俺は帰った後に俺を待つカレーを心の支えに、校舎での仕事に耐えるのだった。




 続く――。


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