第5話 4th lesson まさか、JKに朝食を作って貰うなんて言うイベントが、俺の人生に起きるなんて思わなかった。
「うーむ…… 夏川センセイかぁ」
「お前と同じ卒業生で、お前が思うような関係じゃないからな?」
尋問という名の質問攻めの末、結局俺は夏川先生のことを春日に話した。
別にやましいことをしていたわけでもない。
聞かれて困るような話でもない。だから本当に包み隠さずだ。
しかし、話を聞いた春日は、何やら難しい顔をして唸っていた。
下手をすると、彼女の苦手な数学の難問と向き合っているとき以上に真剣な顔だ。
「……はぁ~ これ本気で言ってるっぽい。本当にセンセはそういうとこ鈍いよね。『元生徒』ってことで、そう言うアンテナが立ってないのかもだけど」
「なんだそれ? どういうことだよ?」
「はっは~ そんなの教えてあげるわけないでしょ。センセはそう言うことに、ちゃんと自分で気付くべき。色々振り返りつつ、自分の胸に手を当ててよく考えなさい。あ、これ、アタシからの宿題ね」
まさか、この年になって『宿題』を出されることになるとはな。
彼女の言う『そう言うこと』というのが、一体『どういうこと』なのかは、流石に文脈からなんとなく分かる。
だが、俺と夏川先生の間に『そう言うこと』などあるわけがない。
春日と俺ほどではないが、夏川先生との間にも大きな年齢差がある。
それに、そもそも『先生』と『生徒』であったことは変わらないのだ。
仮に向こうがどう思っていようが、俺が『生徒』に対して『そう言う』感情を向けることなどありえない。
つまり、『そう言うこと』を考える必要など初めからないのだ。
「はぁ~…… そんなことは良いから、今日もさっさと勉強を始めるぞ。今日はいつもより帰りも遅かったし、さっさと始めないと勉強する時間が無くなる」
「はぁ~い…… 分かりましたぁ~」
絶対に分かってなさそうな声で返事をして、春日はテーブルの上のノートと渋々向き合った。
「ふぅ~ まぁ、今日はこんな所か?」
熱化学方程式の基礎は、なんとか理解させることが出来たと思う。
本当はこれからもう少し、簡単な問題を解かせて理論を理解する段階から使いこなせる段階まで引き上げたいところだが流石にタイムリミットだ。
壁掛け時計の針は長針が12を、短針が2を指している。
いつものことながら、法的には完全にアウトな時間だった。
「えぇ~ やっとなんとなくやり方が分かったとこなのに……塾のときだったら、絶対センセはこのあと何問も問題とかせたじゃん? やろうよぉ~ 今なら解けそうなんだよぉ~!」
熱化学方程式の問題に対して、少し前から春日はノッて来ていた。
丁度コツを掴み始めたところなのだろう。
もう少しでものに出来そうな感覚が自分で分かるから、このペースでもう少し問題を解きたいと思うその気持ちはよく分かる。
某ひげおやじのアクションゲームで言うところのスター状態。
勉強をしていると、たまにそんな状態に入ることがある。
今の春日がまさにその状態だった。
「だったら、さっさと家に帰って、自分の部屋の机に向かって問題を解けばいい。どうせ徒歩数分の距離だ。走ればすぐだろ?」
「えぇ~ そしたら躓いたときに、センセに聞けないじゃん。アタシがやる気になることなんて奇跡なんだから、このときを逃したら絶対ダメだって! センセも分かってるでしょ?」
それは確かに言われた通りだ。
春日が苦手科目でこの状態に入ることは本当に稀だ。
そして、コイツは熱しやすく冷めやすい。金属のような奴だ。
恐らく、ここを片付けて、玄関を出て階段を降りる頃には、この状態は終わってしまうだろう。
定着させるなら、今が好機なのは間違いなかった。
しかし、時間が時間だ。
これ以上は流石に色々マズイのだ。
「仕方ないだろ? これ以上遅くなったら、流石にお前のご両親も心配する――」
「ん? そんなこと気にしてたの? それなら大丈夫だよ。心配なんてしないってば」
「いやいや、そんなわけないだろう?」
「いやいや、そんなことあるんだってば。思い出して見なよ、アタシのお母さんのこと」
突然ありえないようなことを言いだす春日。
だが、その妙に自信満々な物言いに、仕方なく彼女の母親のことを思い返してみることにした。
「……あ」
そして、思い出した。
恐らく、俺の表情からそれを察したのだろう。
春日は、ニンマリと笑った。
「思い出したみたいだね。そうそう、そうなのよ。うちのお母さん、異常にセンセのことを信頼してたでしょ。あれ、今でも変わってないから」
確かにそうだった。
春日がうちの塾の生徒だった時代から、何故か知らないが、俺という人間のことを信じられないくらい信頼してくれていた。
保護者面談をする際には、当時の室長ではなく必ず俺を指名していたし。
面談の度に、何かしらの差し入れを『俺だけに』と言って持って来てくれたり。
『うちの子が大きくなったら、先生が貰ってあげて下さいね!』
とか、冗談交じりにいつも言っていたくらいの変わり者だった。
以前、連日のハードワークによる寝不足でフラフラな状態だった俺に、通り掛かった車から『校舎まで送りましょうか?』とか言ってくれたこともあったっけな。
あのときは、驚いて一気に眼が冴えたのを覚えている。
とにかく、そんな感じで俺のことを異様に気に入ってくれていたのだ。
「なんならアタシがこうして毎日センセのとこで勉強教わってることも、知ってるし、何だったら応援してくれてるから。多分お母さん、センセのとこにだったら、泊っても何も言わないと思うよ?」
「いやいやいやいや、泊るとかないからな」
しかし、まぁそれくらいの理解は示してくれそうな母親であることは間違いなさそうだ。
なら、もう少し彼女の勉強を見てあげてもいいか?
いや、しかし……
「それじゃあ、せめてその熱化学方程式の解法が、お前の体に染みつくまでは続けるか……ただし、遅くなることをキチンと今、お母さんに伝えるんだぞ?」
「ほんと? やった! おっけーおっけー、速攻でお母さんに伝えとく」
悩んだ末の俺の提案に、春日は机の上に置いてあったスマホを手に取って、嬉々として母親にメッセージを送る。
すると、すぐさま返事か来て、その画面を見せなかがら春日は嬉しそうに笑った。
「ほら、お母さんOKだって!」
画面には『今日も冬月センセのとこで勉強教わってるんだけど、きりがいいとこまで教わっていい?』という春日のメッセージに対して、『理解するまでキチンと教わって来なさい。先生によろしく伝えておいてね』という返信が来ていた。
「……よし、それじゃあさっさと終わらせるぞ」
「はぁ~い!」
こんなに信頼して貰っているのだから、その気持ちに応えるためにもトコトン春日に勉強を教えなきゃな……
そんな風に思ったのが、失敗だったと俺は後になって思うのだった。
「どうしてこうなったんだ?」
俺は、ダイニングで頭を抱えていた。
「センセーッ? このストックされてるボディーウォッシュタオル使っていい?」
風呂場からシャワーの音と共に春日の声が聞こえて来る。
「ああ、好きにしろ!」
俺はその声に応えて、再び自分の頭を抱えた。
どうしてこうなったのか。
それは数分前のことだ。
なんとか春日に熱化学法的式を使いこなすコツまで掴ませることが出来たが、時間は既に3時を回っていた。
スター状態だった春日だが、ひと段落した安心感からその状態が解けて、一気に眠気と疲れが押し寄せたらしい。
「やった! センセ、アタシ熱化学方程式のコツ掴んだかもぉ~」
という言葉を最後に、春日は机に突っ伏して眠りについてしまったのだった。
「おい! 春日!! ここはお前の家じゃない。起きて帰ってから、自分の布団で寝ろ!! おい!!」
俺がいくら肩を揺さぶっても、春日は起きる気配がない。
仕方がないので、抱きかかえて俺が彼女を家まで送ろうと考えたが、残念ながら彼女の家の住所までは覚えていなかった。
彼女の荷物を漁れば、もしかしたら分かったかも知れないが、流石にそんなことは出来ない。
春日のスマホを使えば母親に迎えに来てもらうことも出来たかも知れないが、それもプライバシーなどの問題から断念した。
「……はぁ~ 仕方ない……のか?」
仕方がない。
それはそう自分に言い聞かせて、来客用の布団をダイニングに敷いて、彼女を抱きかかえてそこに寝かせた。
少し寝て、彼女が起きることを期待して。
しかし、もちろんそんなことはなく、彼女はがっつり4時間起きることはなかった。
その間俺は、寝るに寝れなかったので、ダイニングで教材研究をして夜を明かした。
そして、彼女のスマホのアラームが7時きっかりに鳴り響き、彼女は布団から起き上がった。
「ん? あえ? アタシ、何でこんなとこに?」
キョロキョロと左右を見渡して、自分が自室ではない場所で目を覚ましたことに気付く春日。
しばらくボーっとした後で、俺と目が合ってフリーズした。
「え? あれ? ここセンセの部屋じゃん? 何でアタシここで布団敷いて寝て…… あれ? どゆこと?」
プチパニックを起こしかけていた春日に、俺はすかさず状況を説明した。
もちろん、彼女に対して俺が一切いかがわしいことをしていないことも含めてだ。
すると、彼女はあっけらかんとこう言った。
「なんだそっか。ゴメンね、センセ。迷惑かけて。それと、ありがと。お布団用意してくれて」
そして、スマホを操作して何やら誰かに連絡をしてから、むくりと起き上がって俺にこう続けた。
「学校に行かなきゃ出し、お風呂貸してくんない?」
そして、現在に至る。
「いや、流石に朝帰りとかマズいだろ……俺は何もしてないが、流石に……」
俺の頭には、パトランプを回した白黒の車が思い浮かぶ。
この状況は完全に事案だ。
自分の人生が、こんな幕切れを迎えることになろうとは。
俺の両親にどう説明したものか……
いや、その前に春日の両親にキチンと謝罪と説明を……
「ふぅ~…… 結構綺麗だし、シャワーの水圧も十分だし、早炊きも出来ていいお風呂だね!」
混乱する俺の目の前に、バスタオルで髪を拭きながら春日は呑気に登場する。
「あ、その顔を見るに、色々心配してるみたいだけど大丈夫だよ。お母さんにはキチンと説明したし、了承も貰ったから。だから、センセの想像するようなヤバいことにはならないから」
そう言って、俺に向かってスマホを投げつけてくる春日。
「うわっとっと……」
それを慌てて受け取って画面をのぞき込むと、そこには彼女の母からのメッセージが表示されていた。
『これは先生にもちゃんと見せること。
冬月先生、ご無沙汰しております。
瞳の母です。
お元気そうでなによりです。
この度はうちの娘が大変なご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません。
聞けば、うちのバカ娘の家庭教師を引き受けて下さったとか。
将来のことや、学力や成績のことをずっと心配していましたので、
先生がみて下さると聞いて安心しました。
これからも色々ご迷惑をおかけするかとは思いますが、
末永くうちの娘のことをよろしくお願いいたします。
追伸
ご近所ですし、たまにはうちにも遊びに来てくださいね。
また、うちの娘がそちらにお世話になることも増えるかと思いますが、
どうぞ気兼ねなくこき使ってやってください。
家事だけが取り柄のような子ですので……
外泊も、先生のお部屋であれば何の問題もありません。
うちの人には私が適当な言い訳をして置きますので、ご安心を』
とのことだった。
「ね? だからそう言うことで、これからちょくちょくそのお布団にもお世話になると思うから! 今後ともよろしくね、センセ!」
そう言って明るく笑う春日。
どうやら母公認で、ここに泊まっての勉強が許可されたらしい。
「マジかよ…… おおらかにもほどがあるだろ……」
呆れる俺の心中を知ってか知らずが、
「ねぇ、センセ! 朝ご飯は適当に作るけど、食べるよね?」
底抜けに明るい顔で春日はエプロンを装備して台所に立つ。
軽い頭痛が襲う。
この痛みはきっと、寝不足だけのものではない。
JKを深夜に自室に招いているだけでも問題なのに、まさかお泊りまで……
いくら母親の許可があるとはいえ、こんなことご近所に知られたら流石にマズイ。
どうやら俺は、とんでもない秘密を抱えることになったらしい。
この頭が痛みその辺りが原因に違いない。
それにしても、
「くそ、お母さんの言う通り、本当に家事は完璧だな、コイツは……」
台所から漂う上手そうな匂いにつられて、俺の腹の虫が鳴る。
まさか、JKに朝食を作って貰うなんて言うイベントが、俺の人生に起きるなんて思わなかった。
果たして、俺はこれからどうなってしまうのか。
頭痛と空腹と眠気に襲われて、ふらふらしながら俺はそんなことを考えていた。
続く――。
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