第4話 3rd lesson まさか、女の子から別の女性のことを問い詰められる日が来ようとはな。
「冬月先生、変なこと聞いていいですか?」
生徒達が帰った教室を掃除していると、珍しく俺に声を掛けてくる人がいた。
振り返ると、夏川先生が眉を寄せている。
彼女からの質問は初めてではないが、いつもは授業に関するものだ。
『変なことを』ということは、それとは別のことについてなのだろう。
「なんですか? 俺に答えられることであればいくらでも答えますけど」
俺の返答を聞いて、夏川先生はしばし目を泳がせてから、大きく息を吸ってから頷いた。
何というか、覚悟を決めたみたいな顔をして。
「ふ、冬月先生、もしかして恋人とか出来ましたか?」
「………………はい?」
夏川先生の口から飛び出したあまりに予想外の質問に、言葉を失う。
ちなみに、俺に恋人はいない。
この仕事を始める前はいたこともあった。
だが、この仕事を始めて少ししてから、『私と仕事、どっちが大事なの?』というあまりに典型的なセリフを言われ、あっという間に別れてしまったのはもう数年前の話だ。
隠すようなことでもないしネタとしては最高なので、生徒に『先生恋人いるの?』と聞かれたときの鉄板エピソードだ。
生徒達のウケも悪くなかった。
当然、この校舎の卒業生だった夏川先生も、そのネタは知っているはず……
「俺に恋人って…… どうしてそんな風に思ったんです? 夏川先生もこの仕事やってるから、なんとなく分かってると思うけど、よっぽど理解のある相手じゃないと恋人なんて無理だと思うんだけど……」
そう言って苦笑いを浮かべる。
夏川先生は再び目を泳がせた後で、言いにくそうに言葉を続けた。
「最近、冬月先生仕事を早く切り上げようとしているように見えたので……いつもはのんびりしているような時間帯でも、前倒しでお仕事してますよね?」
確かにここ数日、俺は出来るだけ残業時間を減らそうとしていた。
これまでなら、少しでも隙間の時間が出来たら休憩していたのにだ。
素敵な上司のお陰で、食事休憩も取れないような職場ではあるが、隙間時間がない訳ではない。
電話がけの合間や生徒の質問対応の合間。
ほんの数分ではあるが、お茶を飲んだり外を眺めたりと、ホッと一息着く時間はあるのだ。
しかし、ここのところはその時間に、終業後に片付けていたような仕事をこなしていた。
なるほどな。
これまで早く帰ろうとしていなかったやつが、急に早く帰ろうとし始めたのだ。
そういう想像をするのも分からないではない。
「それって、少しでも早く帰りたいと思ってるってことですよね? 一日だけなら見たいテレビ番組とか、生配信とかがあるのかな? とも思いましたけど……こう毎日だと、もしかしてって……」
夏川先生のそれは間違いなく名推理だった。
しかし、
『久々に再開した卒業生のJKに、夕飯作ってもらう代わりに勉強を教えてるんですよ』
と正直に答えるのはなんとなく憚られた。
だから、
「いや、最近疲れ溜まってるから、少しでも早く帰ってゆっくり風呂に入りたかっただけだよ」
なんて、らしくもない嘘をついてしまった。
「最近、実家の親から入浴剤のセットを貰ったのも理由の一つかもね。うちって一応脱衣所付き、浴槽付きの大きめの風呂付き物件なんだけど、これまでろくに風呂に入ってなくてさ……この前改めて入ってみたら、ビクリするぐらいよく眠れたから。それから毎日、風呂に入る時間欲しさに早めに上がってたんだよ」
「そうだったんですね…… 良かったぁ」
俺の渾身の嘘を聞いて、ホッと胸を撫でおろす夏川先生。
なんとか誤魔化せたようでこちらもホッとする。
しかし、俺に恋人がいないと分かって安心するって……
もしかして、夏川先生って俺のことを?
……なんて、恥ずかしい勘違いはしない。
多分あれだ。
彼女も恋人がいないのに、およそ彼女なんて出来なさそうな俺に彼女が出来ていたら腹が立つから……とか?
んな訳あるか!
夏川先生はそんな性根の腐った子じゃない。
いや、もし万が一そうだとしたら、少しだけ凹む。
何にしても、掘り下げても絶対ロクなことにならないので、俺はその話題を早々に切り上げて掃除を再開した。
掃除を手伝ってくれるという夏川先生と一緒に、残りの教室清掃をさっさと終わらせて職員室に戻ると、例によって黒桐室長から明日の配布のための印刷物を頼まれた。
黒桐室長はと言えば、仲のいいバイトの先生達と一緒に校舎を出て行った。
恐らくは、またお気に入りの飲み屋だろう。
いつものことだ。
黒桐室長の背中を見送って、校舎に備え付けの時計で時間を確認する。
あと20分で23時か。
印刷物のオーダーは5000部だ。
両面印刷となると、早刷りしてもそこそこの時間がかかってしまう。
「一応、連絡しておくか」
スマホをポケットから取り出して、俺は少し遅くなることを春日に伝える。
すると、数秒とせずに返事が返って来た。
『りょ。 お仕事頑張ってね! アタシはテレビ見て待ってるから気にしないでいいよぉ』
その返信を見て、俺は思わず笑ってしまう。
アイツがいるのは間違いなく俺の部屋だ。
完全に我が物顔だよ、遠慮とか知らんのか?
スマホから目を離して、印刷する原本を印刷機に置いて、製販のボタンを押す。
すると印刷機が動き出して、大きな音を立て出した。
これから、5000枚の紙をこいつが吐き出すまで、特にやることもない。
それを待つ間に俺は、春日のメッセージに返信した。
『テレビを見てないで、勉強してなさい』
するとまた、すぐに返事が来る。
『やです。 センセが来ない限り、絶対に勉強はしません』
頑なな意思を感じるその文面に、再び笑ってしまう。
「……やっぱり、恋人が出来たんじゃ?」
「な、夏川先生!? 帰ったんじゃなかったの?」
突然、背後から声をかけられて振り返ると、先程同様怪訝な顔で俺を見る夏川先生がそこにいた。
「印刷作業大変そうだったので、少しお手伝いしようかと思って……」
そう言ってデスクに鞄を下ろして俺に近付いて来る彼女は、何だか心なしか怒っているように見えた。
「いや、どうせジーっと印刷機が紙を吐き出すのを眺めるだけだし、これ以上遅くなるのは夏川先生のご両親に心配をかけるから帰ってくれて大丈夫だよ?」
俺はそう伝えて断ろうとするが、聞こえてないのか夏川先生はさらに質問を重ねてきた。
「誰と連絡してたんですか? 随分と楽しそうでしたけど……」
良識ある彼女は、スマホを奪ってのぞき見したりはしなかったが、連絡相手が誰なのかが気になっている様だ。
もちろん、正直に答えてもいいのだが、相手がJKというのは少々後ろ暗さがある。
ので、俺は再び彼女に嘘をついた。
「誰って、赤木だよ。夏川先生も知ってるでしょ? 俺の――」
「ああ、先生の唯一のお友達の?」
事実なので否定が出来ないのが悲しいところだが、『唯一』という言葉に俺は少しだけ悲しくなる。
「そうでしたか。もしかして、飲みのお誘いですか?」
「そうそう、ただ、今日は行けなさそうだから断ってたところ」
嘘を一つつくと、芋づる式に増えて行くというのは本当だった。
塾講師という仕事柄、生徒や保護者からされるプライベートについての質問は適当な嘘ではぐらかすことも多い。
塾の商品は講師の授業。
変なイメージが付くと面倒なのだ。
ただ、職場で一緒に働く人にこんな些細な嘘をつくのは、もしかしたら初めてかも知れない。
黒桐室長は、よく身内を病院に送ってサボったりしているが……
「それはそれとして、これ以上遅くなるのは、本当に夏川先生のご両親に心配をかけるから帰った方がいいよ」
「……はい、わかりました。確かに、お手伝いできることはなさそうですしね」
再び俺が彼女に帰るよう提案してみる。
すると今度は素直に聞き入れてくれた。
実際、夏川先生のご両親からは、以前『帰りが遅すぎる、非常識だ』とおしかりを受けている。
彼女もそれを知ってのことだろう。
「それでは、お先に失礼しますね。冬月先生」
「ええ、夏川さんも夜道は気を付けてね」
俺に何度か頭を下げながら校舎を出て行く夏川先生。
それを見送って、俺は印刷機が吐き出した紙の束と、これから印刷されようとしている紙の束を見つめて溜息をついた。
まだ半分も終わっていない。
まだしばらくはかかりそうだ。
思い出したように手に持ったスマホを覗くと、春日から何通か返事が来ていた。
『何を言われても勉強はしないからね』
『……あれ? 大丈夫?』
『ごめんなさい。勉強をして待ってます。
だからセンセ、怒らないでよ』
『おーい、センセ。生きてるかぁ~?』
少々中途半端にやり取りが途絶えてしまったので、春日のやつ心配しているようだ。
俺はすぐさまそのメッセージに返信する。
『悪い悪い、ちょっと他の先生と話をしてた。印刷物頼まれてるんだけど、まだ半分も終わってないから結構時間がかかりそうだ。出来るだけ急ぐけど、あれだったら先に夜食を食っててくれ』
俺がそんな返信を送ると、また数秒とかからずに返信が飛んでくる。
『その感じ、相手は女の子と見た。帰って来たら、尋問なので覚悟するよーに。印刷物って、あのうるさい機械でやるやつでしょ? 時間がかかるって言っても何時間もかからないんだろうし、終わって帰って来るのを待ってる』
何故尋問なのかとか、どうして相手が女性だということが分かったのかとか、聞きたいことは色々ある。もちろん聞く事はしないけど。
アイツは待つと言ったら、本当にずっと待っているのだろう。
俺は、一人必死に頑張る印刷機を心の中で応援した。
少しでも早く帰れるように。
そんなことで印刷が早く終わる訳がない事は、もちろん知った上で。
「おっかえりぃ~!」
「ただいま」
もはや、毎日の習慣となりつつある挨拶を交わして、俺は自宅の玄関で靴を脱ぐ。
「ほら、まずは手洗いうがいと着替えね」
「分かってるよ」
春日に促されるまま、俺は書斎として使っている部屋に鞄を投げ込み、そのままの足で洗面所へ。
手洗いうがいを済ませてから、寝室で部屋着に着替える。
そして、ダイニングへ……
すると、今日もまた気合の入った美味そうな夕飯が俺を待っていた。
「帰って来て、こんな風に充実した食卓が待ってるのって、本当にありがたいよな……」
「あはは、それはよかった。作った甲斐があるってもんだよね」
素直な感想を漏らすと、嬉しそうに頬を掻く春日。
この仕草、どうやら彼女が照れているときにする癖らしい。
思えば昔からそうだった。
「ってか、こんな時間にこんなご飯をがっつり食べてるのに、センセはいっこうに太る気配がないよね。ちょっとうらやましいかも……」
春日は自分のお腹の辺りをさすりながらそんなことを言う。
「前からずっとそうだしな。……確か寝る前の三時間以内に食事をすると太るらしいが、寝るまでの時間がゆうに三時間をこえるからじゃないか?」
「えぇっ!? 寝る前の三時間以内に何か食べると太るの!?……なるほど、だからか。もう今日から寝る前にアイス食べるの止めよっと」
何やら感心したように頷く春日。
俺が椅子に座ると、春日も箸を手に持って手を合わせる。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
これももう、いつものやり取りだ。
早速おかずを口に運ぶと、いつも通り絶品の味付け。
本当に春日は料理上手だ。
ここ数日、毎日食べているが、どの料理も本当に美味しかった。
「ねぇ、感想は?」
俺の方を見つめて少し頬を膨らませる春日に、俺ははたと気付いて感想を告げる。
「いや、今日のも美味いよ。文句なしだ」
「おっし! ならよかった、安心安心」
感想を聞いて満足そうに頷いてから、自分も料理を口に運ぶ。
そして、自分でも「やっぱ美味しいじゃん!」と自画自賛。
本当に楽しそうに料理を食べるやつだ。
「それでさ、さっきの話だけど」
料理を食べ終わり、一緒に食器を片付けていると春日が話しかけて来た。
「校舎に居残りして一緒に話してたのって、女の先生なんでしょ?」
そう言った春日の顔は、いつもより若干視線が冷たかった気がする。
……気のせいだろうか?
「まぁ、確かにそうだけど……何で分かったんだ?」
「ん? なんとなく。……女の勘的な?」
恐るべし女の勘。
夏川先生といい春日といい、勘がさえわたっている女性ばかりが俺の周りにはいるようだ。
「で? センセはその子と何話してた訳?」
「え? この話続くのか?」
「いや言ったでしょ、尋問だって。忘れてた?」
そう言って俺を見つめる春日の目は、なんと言うか獲物を狙う猛禽の目に見えた。
気がした。
まさか、女の子から別の女性のことを問い詰められる日が来ようとは。
俺は思わずそんなことを考えて、嘆息してしまう。
「おい、こらセンセ。逃がすと思うなよ?」
続く――。
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