第3話 2nd lesson こうして女の子と一緒に星空を見上げる日が来るなんて、俺は夢にも思っていなかった。


 家に入ると、何なら美味しそうな香りに鼻孔をくすぐられた。

 香辛料の香りだろうか? 真っ先に連想されたのはカレーだが、俺の知るカレーとはその香りが大きく異なる。


「この匂い…… 春日が何か作ったのか?」

「うん。センセのこと待ってる間暇だったし、タダで勉強教わるのも悪いと思って……冷蔵庫にあった期限がヤバそうな材料で適当に作ったやっつけだけど、どうせセンセは何も食べてないんでしょ?」


 靴を脱いで、俺は春日の後について行くようにダイニングキッチンへと入る。

 どうにもこの家のホストとゲストが入れ替わってしまっている感じがして落ち着かない。

 テーブルの上には、引っ越しの時に必要だろうと母親が押し付けて来た、普段使わないようなお洒落な食器達。

 それに盛り付けられた美味しそうな食事が並んでいた。


「俺の家の冷蔵庫から生み出されたとは思えない料理達が並んでる……」

「あはは、なにそれ? まぁ味は保証するよ。

アタシも一緒にちょっと食べようかと思ってるし……これから頑張る為の夜食的な感じ?」


 春日は当たり前のように、俺と対面するようにテーブルに着いた。

 その行動があまりに自然なので、俺も促されるままに椅子に座って両手を合わせる。


「あ、センセちょっとストップ! まずは着替えたり手洗ったりが先でしょ!」

「おっと、それもそうだな……」


 『いただきます』と言おうとしたら、春日からまるで母親のような注意をされた。

 

「あはは、子どもかよ。……ほら、アタシも待ってるんだから、さっさと済ませて来てよね」

「分かったよ」


 これまた促されるままに手洗いうがいを済ませ、寝室で部屋着に着替えてから、ダイニングに戻って椅子に座った。


「こんな料理も用意して貰っておいてこんなことを言うのは何だが言わせてくれ。お前は俺の同棲中の彼女か何かか?」

「ふぇ? 何言ってるのセンセ。アタシはセンセの元生徒で、今日からはまた教え子じゃん? 彼女とか、ウケるんですけど」


 俺の言葉を聞いて春日は爆笑した。

 そんなに面白いことを言ったつもりはないのだが。


「……はぁ~、笑った。もう、バカなこと言ってないでご飯食べようよ。せっかくあったかいのに冷めちゃうじゃん」


 勝手に部屋に上がり込んでいた春日に思うところがないわけではない。

 しかし、こうして善意で料理を用意してくれたことに文句を言うのは筋違いだ。

 俺は彼女の言う通り観念して両手を合わせた。


「分かった分かった。それじゃ、ありがたくいただくよ」


 春日も嬉しそうに両手を合わせる。


「いただきます」

「はい、どうぞ召し上がれ! アタシもいただきまぁーす!」


 言うが早いか、春日は自分の作った夕飯を口に運ぶ。


「うっし、我ながら完璧な出来栄え!! ほらほら、センセ。冷める前に食べてよね! 大丈夫だよ、毒なんて入れてないから」

「いや、そんなことは最初から疑ってないよ。って、うまぁっ!? これ本当に春日が作ったのか?」


 促されるまま口に運んだスパイシーな香りのする肉料理(なんと言う名前の料理なのかは分からない)の美味しさに驚いて、俺は思わずそんな言葉を漏らす。

 すると、春日は嬉しそうな顔でガッツポーズをしていた。


「そうそう、その顔が見たかったんだよねぇ……センセって基本自分のこととか疎かだから、絶対ろくなもの食べてないと思ってたんだ。これからはアタシがちゃんとしたもの食べさして下げるから安心してね!」


 春日の発言の中に、聞き捨てならないフレーズ。


って、お前。これを続けるつもりなのか?」

「へ? 当たり前じゃん。センセは私の出来なさを忘れちゃったの? あの頃とは比べ物にならないくらいに勉強できなくなってるんだよ? 一日や二日で、私の馬鹿が直ると思うなよ!!」


 自分の勉強の出来なさを自信満々に語るところなんかは、本当に昔と変わらないな。


「いや、偉そうに言うなよ……別に勉強を教えることは構わないさ。ただ、? って聞いてるんだよ」


 呆れながらそう言うと、春日は再び爆笑してから目の端に浮かんだ涙を指先で拭った。


って…… これはそんなたいそうなもんじゃないっしょ、ウケる」


 コイツ、俺の発言にことごとくウケてないか?

 俺は至って普通のことしか言っていないと思うんだが。


「いや、まぁ本当はお金とか払うのが筋だと思うんだけどさ――」

「この程度で元生徒から金なんかとれないよ」

「って、センセは言うと思ったから。私はこうして私にできることで勉強を教わる対価を払おうとしてるだけだよ。センセは私に勉強を教えてくれる。で、アタシはセンセに美味しいご飯を提供する。これならお互い、『ウェイーウェイ』でしょ?」

「『win《ウィン》-win《ウィン》』な。なんだよそのパリピみたいな言葉は」

「べ、別に知ってたし! センセのこと試しただけだし!!」


 最後は間抜けな言葉になっていたが、俺の言動や行動を予測して、彼女なりに家庭教師の対価を考えてくれたということなのだろう。

 正直な話、こんな旨い飯が食えるのはありがたいことこの上ない話だ。


「……材料費は俺が出す。過度に凝ったものを作る必要はない。お前の負担にならない程度のものを作ってくれるっていうなら、かなりありがたいよ。このレベルの料理が定期的に食えるのは、正直嬉しい話だしな」

「やった! じゃあそう言うことで!」


 あくまでも、家庭教師の対価としての料理だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。だから、多分セーフだ。

 って、俺は一体何に何を言い訳してるんだろうな。


「それじゃ、さっさと飯食って勉強を始めるぞ。既にこんな時間だからな……家が近いとはいえあんまり遅い時間になるのはマズいだろ」

「うえぇ~…… 勉強したくねぇ~……」

「いや、お前はその為にここに来てるんだから観念しろよ」

「はぁ~…… 分かってるけどさ。嫌いなもんは嫌いなんだもん。しょうがなくない? センセだってあるでしょ、生理的にNGなの」

「まぁ、気持ちは分からないでもない。って言うか、俺も高校の頃は勉強大嫌いだったしな……けど、時間が時間なのは間違いないだろ? さっさと始めないと、あっという間に夜中になっちまうぞ」

「分かってるってばぁ……」


 勉強を始めようという言葉で、春日はスライムのようにだらけてしまう。

 気持ちは痛いほど分かるのだが、これ以上遅くなるのはまずい。


 それから、少し早いペースで春日の作ってくれた食事を平らげた俺達は、テーブルを片付けてから本命の作業に取り掛かるのだった。









「まぁ、時間もそろそろ限界値だし、今日はこんな所かな?」

「うへぇ~…… やっと終わったぁ……けど、流石センセだね。ヤバいくらい分かりやすかったんですけど。まさかこのアタシが数列の基礎を理解できる日が来るとは思わなかったもん」


 時計は長針が12、短針が2を指している。

 勉強に費やした時間は約二時間。

 目標としていた内容の半分は教えられたか。

 時間が許すなら本当はもう少し時間をかけたいところだ。

 だが、法令的には完全にアウトな時間だ。

 これ以上続けるのは流石にNGだと判断した。


「俺はお前の癖や思考パターンを理解してるからな。お前がどこでどう躓いて、何を誤解しているのかがある程度想像できてたってだけだ。本当はこの倍進めたかったんだけどな」


 溜息交じりに俺がこぼした言葉を聞いて、春日は少し青ざめる。


「え? この倍とか、アタシ死んじゃうんですけど?」

「大丈夫だよ、人はそんなことでは死なないから」


 俺は大きく伸びをして肩を回す。

 身体からは小気味よくパキパキと音が鳴った。


「さて、もう遅いし送ってくよ。次はいつにするんだ? 来週とかでいいのか?」


 俺は後ろで帰り支度をしている春日にそう問いかけた。

 すると、当然の様な温度感で、春日は聞き捨てならない返答をする。


「じゃあ明日で。明日は化学とか教えて欲しいんだよね。丁度課題提出もあるし」


 鞄を背負って、スタスタと玄関に向かって歩く春日の背中を追いかけて、その肩を掴んで振り向かせる。


「ちょっと待て、まさかお前毎日来る気か?」

「まさかも何も、そのつもりですけどナニカ?」


 俺の質問に、ふてぶてしく答える春日は間違いなく本気の顔だった。


「さっきも言ったけど、私の馬鹿は一日や二日でどうにかなるものじゃないんだから、毎日でも勉強しなくちゃ遅れを取り戻せないでしょ? センセってもしかしてバカなの?」


 確かに、彼女の学力を考えればその主張は真っ当なものだ。

 しかし、俺が問題にしているのはそんなことじゃない。


「いや、じゃあお前は、毎日俺の家に来て、夕飯作って一緒に食って、こんな時間まで勉強するつもりなのかよ」


 それじゃあまるで、本当に同棲みたいなものじゃないか。

 そう思って戸惑う俺に、春日は『何言ってんのコイツ』みたいな顔をする。


「だからそう言ってるんじゃん。私を助けてくれるんでしょ? 頼むよセンセ、私の未来はセンセの腕にかかってるんだからさ!」


 そう言って笑う春日の顔は、俺の生徒だった頃のものと同じだった。

 俺のことを信頼しきった、真っ直ぐな眼差し。

 そんな顔をされたら、もう俺は何も言い返せない。


「ったく、分かったよ。本当にお前は変わらないよな……ただ、鍵の隠し場所は変えるからな?」


 玄関で準備万端の春日に並んで、俺は散歩用のサンダルに足を通して玄関を出る。

 すると、春日は驚いたような顔をして俺の方を見た。


「へ? もう鍵の隠し場所とか変えても意味ないよ?」

「いや、何でだよ」


 春日から返って来た言葉の意味が分からずに、俺はそう聞き返す。


「だってほら?」


 そう言ってポケットからキーホルダーを取り出す春日。

 そのキーホルダーには、見覚えのある形の鍵がぶら下がっていた。


「お前、それって!?」

「うん、この部屋の合鍵。待ってる間に調味料買いに行ったときに、商店街の鍵屋さんで作って置いたの」

「お前なぁ……」


 今どきの高校生の行動力には驚かされる。

 いや、春日の行動力が飛び抜けているのか。


「と、いうわけで、明日もよろしくね、センセ!」


 これではまるで押しかけ女房だ。

 とは思ったが、それを口にはしなかった。

 きっと口にしたらコイツは「押しかけ女房とか、ウケるんですけど」とか言うに決まっている。


 コイツは俺の生徒で、俺はコイツの家庭教師で、明日からのコイツの行動はその対価。

 俺はそれを自分に言い聞かせる。


「分かったよ。それじゃあ俺はせいぜいお前の上手い料理に期待しながら、校舎で飯食う暇なく働くとするさ」

「うん、大いに期待するといいよ! その期待を裏切らない、美味しい料理を作って待ってるから!!」


 玄関を飛び出して、春日は楽しそうに階段を駆け下りる。


「だから、遅いから送っていくって!」


 その背中を追いかけて、俺は春日の隣に並ぶ。

 それを満足げに見つめて、春日は嬉しそうに歩き出した。


 見上げると夜空には満天の星。

 ここら一帯でも高台に位置するこの部屋に決めた一番の理由がこれだった。

 少し広めの道路を歩くときに夜空を見上げると、遮蔽物のないプラネタリウム顔負けの星空が見えるのだ。


「センセ、何見てんの? って、うわぁ~…… ここってこんなに星見えるんだ。長いこと住んでたけど全然知らなかった」

「まぁ、この時間にならないとここまで綺麗には見えないからな。他の家の明かりとかも消えるから、これだけの星が見えるようになるんだよ。遅い時間まで働いてる特権みたいな景色だな」

「へぇ~…… じゃあ、私もこれからはこの星空が見れるわけだ。先生の秘密の楽しみのおすそ分けって感じだね」


 ふと、明日が楽しみになっている自分に気付いて苦笑いをする。

 どうやら俺は、こいつとの時間が思った以上に気に入ってしまったらしい。


「ん? 何? どしたの、センセ?」

「なんでもないよ。明日は化学だったな……最低限のとこまでは何としても叩き込むから覚悟しとけよ?」

「うへぇ~……」


 それを絶対にコイツには言わない。

 言えば調子に乗るに決まっているからだ。


「けど、望むところだよ!」


 そう言って笑う春日の顔は、悔しいがやっぱり可愛かった。

 もちろん、先程自分に言い聞かせた言葉を違える気持ちはない。

 ただ、こうして女の子と一緒に星空を見上げる日が来るなんて、俺は夢にも思っていなかった。






 続く――。


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