第2話 1st lesson 家に帰ったときに聞こえる「おかえり」に、こんなにも癒されるとは思わなかった。
結局、家に帰ってから寝ることなど出来なかった。
何をやっていたのかと言えば、部屋の片付けだ。
なし崩し的にとはいえ、春日がここに来るのだ。
流石に散らかったままにはして置けない。
元生徒とはいえ、うら若き乙女をお迎えするのだ。
「センセの部屋、臭いね」
とか言われたら、流石に凹む。
そんなわけで俺は、貴重な睡眠時間を削ったのだ。
それと、奇跡的に取って置いてあった高校の頃の教科書や参考書を引っ張り出し、春日の苦手科目の勉強もしておいた。
専門外だからと断りを入れたものの、彼女に質問されたときに『わからない』とは言いたくなかった。
先生としてのちっぽけなプライドを守る為の見栄だ。笑いたきゃ笑え。
しかし、こうして改めて勉強してみると、高校の勉強と言うのは中学のそれとは一線を画するのがよく分かる。
実際、理科や社会などは小学校と中学校では教える内容に大差はない。
小学校では『学ぶ楽しさや体験』を優先し、中学では『知識や習熟』を優先するだけで、内容自体は繰り返しなのだ。
しかし、中学から高校への学習内容の変化は、最早進化と言ってもいい。
多くの学生は高校で初めてその大きすぎる変化に直面し、勉強を一気に嫌いになると聞く。
私立中学などは、その辺に対応できる生徒を育成するため、敢えて高校で学習する内容を中学で教える場合があるが……
かくいう俺も、高校の難しい学習内容に音を上げて落ちぶれていった残念な学生の一人だ。
だからこそ、春日の気持ちも分かる。
『勉強嫌いになっちゃったアタシを助けてよ』
春日が言った言葉を聞いたとき、どうにかしてあげたいと思ったのはそれもある。
「ふぅ…… 自分の面目を保つ為とは言え、徹夜明けで仮眠もとらずに仕事はハードだな」
俺は黒桐室長に頼まれていたグッズを、今日校舎にやって来る生徒人数分作り終えて溜息をつく。
ちなみに『グッズ』とは『友人紹介グッズ』と呼ばれる印刷物と無料配布用ノートのセットのことだ。
中身はざっと次の通り。
校舎のテスト対策を売り込むチラシ、無料体験申込用紙、季節講習の案内チラシ、通常の塾の週間予定表、無料配布用のノート。
それらをB5サイズのキラパックに封入したものだ。
生徒達にそれを渡して、クラスや部活の友人に誘いをかけて貰うのだ。
まぁ、平たく言えば、営業用ツールだ。
塾講師は生徒のいる学校に直接営業をかけられない。
だから、保護者を通じた友人紹介や、生徒を通じた友人紹介を募る訳だ。
授業をするだけが塾講師の仕事ではない。
生徒の様子を保護者に伝える電話。
生徒の悩みを聞き出したり、進路の相談に乗る面談。
あとは今やっていたようなグッズ作成と近隣の家へのポスティング。
学校行事で外部の人間も参加出来るイベントがあれば足を運ぶし、授業参観なんかも行ったりもする。
他にもまぁ、色々だ。
そんなわけで、授業の準備をする暇もないので、基本的には家に帰ってから次の日の授業の準備をするのが常である。
公私を全て捧げて、生徒の為に身を粉にして働く…… それが塾講師という仕事だった。
「さて、そろそろ早い子は来るかもな……」
今日は無料で実施しているテストの対策特別講座だ。
中学1年生から3年生が、その授業を受けるためにやって来る。
16時からの予定だが、早い子は13時頃から校舎にやって来て自習や質問をしてくれる。
まぁ、その時間から教室を開けているのは俺だけで、室長や他のスタッフは15時ごろに出勤してくるのだが……
無料で実施している講座なので、社員スタッフは無給だ。
だから、早く出勤すればその分だけタダ働きの時間が増える。
よっぽど熱心じゃなければ、こうして早く校舎にやって来て生徒を迎え入れたりはしないのだ。
まぁ、俺は別に苦じゃないし、生徒達の質問を個別に対応できるこの時間が好きなので問題はない。
ただ、この自習室開放や質問対応は、黒桐室長が『塾だより』を通じて、校舎独自のサービスと謳って宣伝しているものだったりする。
その当の本人は来ないけどな……
「こんにちわぁ~! あはは、やっぱ冬月先生だけかぁ……」
楽しそうに笑いながら校舎にやってきた高田が、俺の予想通り今日も一番乗りだった。
ぱっと見、高校生と見間違えそうな大人びた顔立ちの女の子だが、喋ると一気に年相応に感じられる中学二年生だ。
この代の春日といったところか。
各学年に数人いる、塾大好きっ子だ。
得意科目は英語。苦手科目は数学。典型的な文系女子である。
「あ、そうだ。冬月先生って、数学も教えられるんだっけ?」
「ん? ああ、一応理系の主任だからな」
「あはは、うちの学年には国語教えてくれてるから、先生が理系ってイメージないけどね〜」
バイト時代にお世話になった室長先生の無茶ぶりのお陰で、俺はいつの間にか全教科の授業ができるようになっていた。
今では時間割に講師の空きが出来たとき、無理やり放り込まれる便利なピンチヒッター扱いだ。
徐々に生徒達が校舎にやって来て、やれプリントのコピーやら、質問対応やらをしているとあっという間に15時。
「お疲れ様です、冬月先生。質問対応もいいですが、頼んでおいたグッズは出来てますか?」
15時半を回った頃、校舎にやって来た黒桐室長は、俺を一瞥してそう言った。
「ええ、そちらのデスクに用意してあります。本日の生徒人数に加えて、倍配れるようにしてますよ」
「そうですか。それなら良かった。ですが、少し教室が騒がしいですね……目の前の生徒にだけ対応すればいいと思わないで下さい。私達にとっては、生徒の学習しやすい環境づくりも仕事なんですからね」
「すみません。授業まであと三十分をきったので、休憩するように生徒に伝えていました。静かにするように注意してきますね。あ、ごめんね。すぐ戻って来るから、その類題を解いて待っててね……」
教室を見渡しながら、悠々と上着を脱いでお茶を飲む黒桐室長の注意を受けて、俺は慌ただしく教室を駆け回る。
そんなことをやっている内に、気が付けば授業の時間。
その頃には、バイトの先生達も揃い、チャイムと共にテスト対策特別講座が各教室で始まった。
「先生、さようなら!」
「おう、気を付けて帰れよ」
最後まで質問をしていた高田を見送って、俺は塾前の道路のゴミ拾いをしてから校舎に戻る。
教室の一番前の机に乱雑に積まれた余分なプリントを回収し、欠席生徒の分のプリントセットを作って生徒配布用ボックスに放り込む。
それが終わったら、各教室の清掃だ。
ホワイトボードを綺麗にして、生徒が机の上に残した消しゴムカスを床に落として掃き掃除。
仕上げに一応掃除機をかけてしまう。
机と椅子を濡れ雑巾で水拭き、乾いたタオルで乾拭き、最後に除菌スプレーを吹きかけて除菌する。
とまぁ、そんな清掃を各教室で行った後で職員室に戻ると、黒桐室長が楽しそうにバイトの先生達と雑談をしていた。
「ああ、冬月先生ご苦労様」
「いえ、清掃が終わりましたので、俺は残って欠席生のご家庭にお電話をして置きますね。皆さんはお気になさらず――」
「それじゃあ、冬月先生のお言葉に甘えて、今日は頑張ってくれたみんなに私が夕飯をご馳走しよう!」
俺の言葉を最後まで聞かずに、黒桐室長がそう言うとバイトの先生達は嬉しそうに笑った。
彼らとの飲みニケーションは黒桐室長の大事なお仕事。
彼らがいないと教室は回らないので、メンタルコントロールの一環だそうだ。
その他雑務は、下っ端社員の俺の仕事である。
「それでは、後のことお願いしますね」
そう言って校舎を出て行く黒桐室長御一行。
去り際、俺に申し訳なさそうに頭を下げていたのは、元卒業生で今は講師をやってくれている女子大生講師の夏川先生だった。
肩をすくめて『気にしないで』とジェスチャーを送ると、夏川先生はそれを受け取ってくれたのかコクコクと頷いて去って行った。
「ふぅ~…… 誰もいない校舎は静かなもんだ」
時計を見ると22時を回ったところだった。
22時半を過ぎると流石にご家庭にも迷惑なので、俺は急いで受話器を手に取った。
ご家庭への電話を終えて、職員室の清掃をしていたら、あっという間に23時だった。
「あっ!? やばい、春日がそろそろ家に来てるかも知れないな」
俺は慌ててデスクの上を片付け、校舎を飛び出そうとして立ち止まる。
「危ない危ない。電話、転送にしとかないと、また黒桐室長に怒られる……」
俺は転送設定がキチンとされているかどうかを自分のスマホで確認してから、校舎に鍵をかけて帰路に着く。
「うわ…… 既に通知が何件も…… って、全部春日か。はぁ、なんか元生徒からこうしてスマホに通知が来るとか、新鮮な感覚だな」
よく考えれば、卒業した高校生と、プライベートで連絡を取るなんて、ちょっと悪いことをしている気にさせられる。
いや、実際は何も悪いことをしていないのだが。
「あ、夏川先生からも連絡が来てたのか」
俺はこれから会う春日の山のような通知を無視して、夏川先生の連絡を先に確認する。
『大丈夫ですか? 先に帰っちゃってゴメンナサイ』
実に彼女らしいメッセージ。
俺はそれにスタンプを返して、改めて現在進行形で通知が増える春日の連絡を確認する。
画面に表示されたメッセージはこんな感じだった。
そろそろ23時ですが? 23:00
どうせ一人で掃除してんでしょ 23:05
可愛い生徒が待ってんだから
早くしろよぉ 23:07
アタシを10分待たせるとは、
冬月センセのくせに生意気な 23:10
おーい、
もしかして約束忘れてる? 23:12
あ、黒桐につめられてるとか?
ご愁傷さま 23:13
おお、ご愁傷さまって
こういう字なんだ 23:13
まーだー? 23:16
ねぇ……センセ、生きてる?
事故とか? 怪我したとか? 23:18
最新のメッセージが俺を心配する文面だったので、俺は慌てて通話ボタンを押してスマホを耳にあてた
数コールののち、スマホ越しに春日の声が聞こえて来た。
「センセ、大丈夫?」
「ああ、悪いな。お前の予想通り、掃除やらいろいろしてたらこんな時間になってた。今どこにいるんだ? そこに行くから――」
「良かった、生きてた。どこって、センセの家にいるけど? アタシそう言ったよね?」
「俺の家って…… お前まさかずっと玄関の前に?」
てっきりどこかで時間を潰しているものだとばかり思っていた俺は、悪いことをしてしまったと思い歩く足を速める。
「ん? 待て。なんでお前が俺の家を知ってるんだ?」
「はい? だってセンセ、ずっと塾の近くのとこに住んでるでしょ? アタシ生徒のときから知ってたよ。センセの家ってうちの近所じゃん」
言われて思い出した。
確かに、うちに回って来る回覧板に『春日』という欄があったこと。
そして、彼女の生徒情報を見たときに、もしかして近所じゃないかと思ったことがあったことを。
「ああ、それと。アタシはもうセンセの家の中にいるから安心してね」
「はぁ!? お前、どうやって……」
「鍵の隠し場所、郵便受けの蓋に張り付けておくのは少し防犯上危険だと思うから、見直した方がいいと思うよ!」
「あのなぁ……」
どこまでも昔のままの春日に振り回されながら、俺は家に続く長い坂道を早足で登る。
徐々に見えてきた自分の部屋に、明かりがついた。
「あ、センセ見えたわ。電話切るね」
そう言って通話が切れると、俺の家のベランダに春日が出て来て手を振って来た。
「センセ、おかえりなさい」
「おう、ただいま帰ったよ。待たせて悪かったな」
ベランダからかけられた出迎えの言葉。
家に帰ったときに聞こえる「おかえり」に、こんなにも癒されるとは思わなかった。
続く――。
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