仕事に疲れた塾講の俺がJKの家庭教師をすることになった件。

はないとしのり

第1話 prologue 今度こそ、もう辞めてやる。って言ってる奴は大抵辞めない。




「ああ、今度こそ、もう辞めてやる!」


 空になったビールジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。

 ちなみにこれが何敗目なのかはもう数えていない。


「あはは、そう言い続けてもう3年経つけど、変わらず働き続けてるけどな……」


 呆れながら苦笑いを浮かべてビールを飲む赤木あかぎは、俺の数少ない友人だ。

 変則的な勤務形態のせいで休日も仕事が基本の俺が、突然呼び出しても文句を言わずに付き合ってくれるのは、世界中でコイツぐらいのものだ。

「いや、今度こそは絶対にだよ。もういい加減、あのクソ上司のストレス解消には付き合ってられない……辞めてやる、絶対に辞めてやる!!」

「あはは…… 言うねぇ、冬月ふゆつき。こりゃ朝までコースだな」

「お姉さん! ビール、おかわりね!」

「じゃあ、こっちにも同じものをお願いします」


 もはや飲まないとやっていられない。

 こう毎日のように上司から意味の分からない理由で『作業確認』という名のツメをされていたら、ストレスで胃に穴が開いてしまう。


 俺の上司は、俗にいう『クラッシャー上司』というやつだ。

 部下の仕事に『ダメ出し』をすることが『管理』することだと勘違いしているのだろう。

 他人に厳しく、自分に甘いというのを地で行くような人物だ。

 部下の俺には休むことを一切許さず、食事休憩も取らせない。

 何十個とある報告の内、たった一つでも失念すれば『なぁなぁで仕事をするな』と怒られる。

 どうやら彼は、自分の部下は失敗なんて一つもしないパーフェクトなロボットか何かだと思っているらしい。

 とにかく、俺を含めた部下のミスにはトコトン厳しいのだ。


 しかし、その逆に自分に対してはトコトン甘い。

『このまま仕事をしていると、不機嫌に任せて周囲に当たってしまいそうだから、今日はもう帰る』

 とか言う訳の分からない理由で仕事を早退。

『今日は朝早くから資料を作ったり会議で忙しかったから』

 とか言う信じられない理由で職務時間中に仮眠。

『いい加減息抜きでもしないとやってられないから』

 と身内の不幸をでっち上げて休みを取り、お気に入りの映画館で映画鑑賞。

 書き並べたらきりがないが、本当に好き勝手に仕事をしている。


 そんな上司の横暴に、俺はもう限界を迎えつつあった。

 

 今日なんて、事務さんから伝言を頼まれて『手続き書類が未提出の雨貝さんにお電話をお願いします』と伝えたら、


「君がという言葉を使うということは、一度自分の仕事だと判断した作業を、改めて私にふろうとしたということだ。だとすれば、『どんな話をして、どういう所に話を落ち着けるか』や『どういう返答が想定されるか』などを、事前に私に提示してからべきだと思うんだが違うかね? 少なくとも私が誰かには、これまでずっとそうしてきたと思うんだが……」


 という、聞いたことのない謎の理論で説教をされた。

 重ねて言うが、俺は伝言をしただけなのだ。

 『伝言すること』は自分の仕事だと認識していたが、『電話をかけること』については、初めから自分の仕事ではないと思っていた。

 それがどうして『お願い』という言葉を使う=自分の仕事を他人に押し付けるという流れになるのかが全くもって理解できなない。

 加えて言うが、俺の記憶が確かなら、これまで上司からときは、基本全部丸投げだった。

 だが、それは彼の言うには含まれないらしい。

 とりあえず、この人には『お願いします』という言葉を使うと面倒くさいことになると俺はメモを残したのだった……


 ふと、思い出して俺はメモ帳を胸ポケットから取り出した。


「ん? ああ、か……今度はどんな文言が追加されたん?」


 赤木は俺の手元を見て、苦笑いを浮かべた。

 コイツも俺がこのメモ帳に、上司からかけられた理不尽な言葉の数々が記されているのを知っている。


 このメモ帳も最初はそんなものではなかった。


『社会人ならメモ帳の一つも持て、そして大事だと思うことは片っ端からメモしろ』


 そう教えてくれた上司は、あっという間に偉くなって、今や会うこともなくなってしまった。

 でも、俺はその人の教えをずっと守って、メモ帳を付け続けている。

 これでもう35冊目。

 勤務年数もバイトの頃も入れればかれこれ6年だ。

 この冊数が多いのか少ないのかは判断しかねる。

 その日学んだ『大事なこと』を書き記していたメモ帳も、今では上司の地雷を踏まないための『べからず集』になってしまっているのが悲しいところだ。


「俺的には、“上司が出勤している日に休みだった場合、『昨日はお休みを頂いてありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみませんでした』って翌日には必ず言わなきゃいけない”とかいうのが、意味分からな過ぎて忘れられないんだけど」

「それな。もともと会社が決めてる休みを取ってるだけなのに、『感謝』と『謝罪』が必要って、なんでなのかはいまだに良く分からないよ……」


 この『べからず集』に書き並べられているのは、そんな感じの理不尽極まりない謎の言葉ばかりだ。

 最近はこの『べからず集』の文言一つ一つにイラストを添えて、『うちの職場の変な決まりごと集』とかにして売り出したら、案外受けて売れるんじゃないかとも思ってしまう。

 そんなまさに迷言ばかりのメモ帳を捲りながら、俺は溜息と共に呟いた。


「今度こそ、もう本当に辞めてやろうかな……」


 普段ならここで『そうだそうだ、辞めちまえ辞めちまえ』と合いの手を入れてくれる赤木が、ゆっくりと煙草で一服してから、俺の顔をまじまじと見つめて来た。


「今の『辞めてやろうかな』には、いつもの勢いで言ってるのとは違う本気を感じたからハッキリ言っとくぞ? これまでずっとお前の愚痴を聞いてきたし、その意味不明なルールばかりのメモ帳の中身も見て来たけど、お前の上司は間違いなくクソだよ。自分はいい加減に仕事をして、面倒ごとは全てお前に押し付けて、しかも自分のストレスを発散するためにお前に八つ当たりしてる。そんな奴の下でお前はもう3年も仕事をしてるんだ。辞めたいっていうのは当然だと思う。多分俺なら3か月ともたずに辞めてる」

「どうしたんだよ、珍しく真面目な顔して?」


 いつも通りの愚痴大会のつもりだったのだが、どうも赤木のテンションがおかしくて、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「これまでも、俺は結構本気でお前に言ってきたつもりだぜ?」


 そうだ。赤木は本当にいい奴だと思う。

 堂々巡りの俺の愚痴に、3年間付き合ってくれた。

 翌日の仕事が早くてもいつだって……


「その仕事、マジでそろそろ潮時だよ。本気で転職考えてみないか? うちなら俺が口利きしても――」

「ダメだよ。俺が辞めれば生徒に迷惑がかかる。どんなに上司がクソでも、何の罪もない生徒達に迷惑をかけるようなことはしたくないんだ、俺は……」


 赤木の言葉を遮るようにして、を口にする。

 赤木が俺のことを、心底心配してくれているのは勿論分かっている。

 でも、こればっかりはどうしようもなかった。

 俺の信念とかそう言う類のものなのだ。


「はぁ~……、でしょうね!」


 俺の言葉を聞いて、赤木はがっくり項垂れてから、気持ちを切り替えるように笑った。


「『今度こそ、もう辞めてやる。って言ってる奴は大抵辞めない』ってよく聞くけど、お前はそれの典型だよな」

「大きなお世話だよ…… でも、ありがとな」

「へいへい、どういたしまして。まぁ、付き合うよ、お前がスッキリするまでトコトンさ」


 ちょうどテーブルに届いたビールジョッキを二人でかち合わせて、そのままの勢いで一気に飲み干す。

 身体に染み渡るビールと共に、ゆっくりと酔いが回ってゆく。

 そして、俺は『べからず集』をそっと胸ポケットにしまった。

 胸に渦巻く様々な思いも一緒に――





「うぅ…… 徹夜明けの太陽は、いつもの数倍まぶしく感じる……」


 結局、赤木の言った通りの朝までコースだった。

 早朝の駅前にはほとんど人がいない。

 世間的には今日は日曜日。

 当然と言えば当然だ。

 赤木は帰って寝ると言っていたが、俺は今日も元気に出勤だ。

 塾講師には、土日祝日は関係ない。

 今は定期試験の対策の時期なので、日曜も返上でお仕事なのである。

 もちろん無給で。

 最悪のクソ上司に、給料の出ない休日出勤。

 地獄のようなこの仕事だが、それでも悪いことばかりではない。


「はぁ……今から帰れば、出勤までに2時間は寝れる……かな?」


 始業時間が少々遅いので、朝まで飲んでいても少しだけ寝てから出勤できるのだ。

 昔から夜型人間で朝に弱かった俺には、ピッタリの就業時間帯だ。


 時間を確認しようとスマホを取り出す。

 すると、画面に通知が一件。

 職場で無理やりダウンロードをさせられたビジネスアプリの通知だった。


「なんだなんだ?」


 嫌な予感しかしないが、確認しないと余計に面倒くさいことになるのは分かっている。

 ので、しぶしぶその通知をタップ。


『本日の対策授業で配布するグッズの表紙データを送るので、人数分のグッズを作っておいてください』


 素敵なお仕事のお願いだった。

 ちなみに、表紙のデータだけが送られていて、それ以外のグッズとやらに関する申し送りは皆無だ。

 要するに、『わかるだろ?』ということだ。

 丸投げっぷりに乾いた笑いがこみ上げる。


ときは、『どうするか』と提案してからじゃないのかよ……ったく」


 思わずこぼれる愚痴は、赤木との徹夜の飲み会のせいだろう。

 この調子で職場に出たら、確実に本音をこぼして面倒なことになりそうだ。

 なので、俺は深呼吸して気持ちのリセットを試みる。


「……こんなんでリセットできてれば、赤木呼びつけて飲み明かさないっての」


 面倒な通知が止まないスマホを地面に叩き付けたくなる欲求を、寸でのところで押し殺す。

 そんな理由でスマホを買い替えたくない。

 スマホをスラックスのポケットに押し込んで歩き出す。

 まだ臀部にスマホの振動を感じるが、そんなものは無視だ。

 とりあえずは、一度家に帰って寝る。


「今から帰れば、出勤までに2時間…… いや、1時間は寝れる……はず」


 胸を満たすもやもやは、寝て忘れるに限る。

 そう心に決めて、駅の改札に続く階段に足をかけようとしたときだった。


「あぇ? もしかして、冬月センセ?」


 突然、ギャルというには派手さに欠ける女子高生に声をかけられた。

 俺のことを『冬月先生』と呼ぶということは、おそらく塾の卒業生なのだろう。


「あ、その顔。センセさ、絶対アタシのこと忘れてるでしょ?」


 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、下から覗き込むように見上げてくる少女。

 その顔に、不覚にもドキリとしてしまう。

 長いまつ毛、薄い化粧なのにも関わらず、はっきりとした目鼻立ち。

 その顔は、そこらのアイドルよりもよっぽど可愛かった。

 こんな子、俺の教え子にいただろうか?

 そんな風に考えた俺に向かって、少女は白い歯を見せながら心底楽しそうに笑う。

 その顔が、急に記憶の中の少女と重なった。


「……もしかして、春日かすが……か?」

「……なぁーんだ、覚えてるんじゃん? 忘れてたんなら、クイズにしようと思ってたのに。残念」


 いつも屈託なく笑っていた記憶の中の少女。

 春日 ひとみ

 確か三年前に卒業した生徒だ。

 少々口は悪かったが、講師達が呆れるほどに塾が大好きで、入塾してから数年間、文字通り毎日塾に来ていた歴代の中でも飛び抜けて変わり者の生徒だ。


「ふつうに三年ぶりくらい? 元気してた、冬月センセ?」

「あ、ああ、俺は見ての通り相変わらずだよ。春日はどうだ?」

「見ての通りだと、正直結構しんどそうだよ? 目の下の酷いし、顔も白いし」

「いや、目の下にできるのはくまの発音は、かわのそれと同じ感じだぞ?」

「あははは、相変わらずうるさいね、センセ。どっちでもいいじゃん、発音なんてさ? 英語じゃあるまいし」


 三年という時間をあっという間に取り戻したように、当時と全く変わらないテンションのやり取り。

 そうだった。

 こんなとりとめのないやり取りを、あの頃は毎日のように繰り返していたんだっけ……


「あ、そうだ。小鳥遊たかなしセンセは元気? まだ美晴校にいるの?」

「いいや、お前たちの代が卒業するのと同時に、小鳥遊室長は偉くなって異動しちゃったよ」


 彼女が在籍していた頃の教室長は、俺がこれまでで一番お世話になった上司だ。

 彼女も含めて、当時の生徒は全員が『小鳥遊っ子』だった。

 授業も抜群に上手かったし、生徒の人気もピカイチ。

 それに加えて、部下の扱いも、上司の扱いも上手かったのだから、あの人が偉くならない訳がない。

 さらに数年後には、もっと偉くなっているだろう。


「えぇー……なんだ、そうなんだ。会いたかったのになぁ……小鳥遊センセは今どこなの?」

「今は東京の方の校舎を十何校舎か束ねる立場になって、忙しくしてるよ」

「やばっ!? めっちゃ昇進してるじゃん? ……あれ? なのになんで、冬月センセはまだここで、そんなくたびれた顔してるの?」


 それに引き換え……そんな言葉が聞こえてきそうな顔。

 イタズラっぽいその表情も、あの頃はただのガキンチョだったのに、今はそこに小悪魔的な魅力を感じさせられる。

 って、いかんいかん。卒業生に小悪魔的な魅力を感じてどうする。

 どうやらまだ酔いが抜けていないらしい。

 教え子にときめくなんてありえない。

 俺は心の中でそう結論付けた。


「大きなお世話だよ! お前の予想通り、今も俺は平の講師だ。悪いか!?」

「えぇ!? 流石に、今は冬月センセが室長なのかと思ったのに……なんかゴメンね」

「やめてくれ、そんなガチのトーンで謝られると、余計に惨めになるだろ?」

「あはは、ゴメンて。 ……あれ? じゃあ今は誰が室長なの?」

「ん? ああ、今は黒桐こくとう先生だよ。覚えてるか? 多分春日は国語を習って――」

「えぇ――……、アイツが室長なの? マジ今の生徒かわいそー…… てか冬月センセもかわいそー。アタシ、アイツ嫌いなんだよね。人のこと見下してるし、すぐ自分の自慢するし」

「こらこら、ここにいない人のことをそんな風に悪く言うもんじゃないぞ」


 春日の意見には心の奥で激しく同意しながらも、一応大人として注意する。


「……とか言いながら、どうせ朝まで飲んで、黒桐の悪口ずっと言ってたくせに?」


 俺の脇腹を肘で小突きながら、痛いところを突いてくる春日に乾いた笑いが溢れた。

 まさか、あの飲み屋に春日も居たのか?


「……いやいや、適当に言っただけなのに、そんな顔しなくてもいいから。ってか、図星かよ。……相変わらず、冬月センセは苦労してるみたいだね。ほんと、ごしゅーしゅーさま」

「ははは、ちなみに『ごしゅーしゅーさま』じゃなくて『ご愁傷様しゅうしょうさま』だからな?」


 元生徒にかまをかけられて、あっさり引っかかってしまうとは。


「にしても、日曜の朝から制服着て……部活か何かか?」

「ああ、違う違う。今日は塾の体験授業に友達に誘われてて……」


 そこでふと気付く。

 彼女が卒業したのは三年前だ。

 つまり、そういうことか。


「そっか、もうそんな時期か……」


 思わずこぼれた俺の感慨深げな言葉に、今度は春日の方が盛大な溜息を吐いた。


「そうなんですよ。そんな時期なんです。もう、ほんと、助けて欲しいって感じ。……あーあ、三年前に戻りたいなぁ」


 ニコニコしていたはずの表情を一気に曇らせて、春日は憂鬱そうに言葉を続ける。


「あの頃はさ、冬月センセに小鳥遊センセに、あと黒桐もだけど……塾の授業、超分かりやすかったし、だから勉強も超楽しかったのに……今はもう、全科目意味不明だし、全然わかんないし、楽しくないし……アタシ、結構勉強好きかもって思ってたのに。今じゃすっかり勉強大嫌いなふつーの学生ですよ」

「その言い方は全国の学生の皆さんに失礼だから、訂正して欲しいところだけどな」

「いや、あんな意味不明なものみんな嫌いでしょ? 数列すうれつとか、文型とか、熱化学方程式ねつかがくほうていしきとかもうマジで呪文じゃん? 頼むから日本語でお願いしたいっての、ほんと――」

「数学に英語に化学か……相変わらず、苦手教科は変わらないんだな……」


 思わず口にした俺の言葉を聞いて、きょとんとした後、春日は何故だか嬉しそうに笑う。


「……ほんと、全然変わんないね、冬月センセ。ムカつくくらい、あの頃のまんまじゃん」

「悪かったな、進歩なくて」

「褒めてるんだから怒らないでよ!」

「いや、どう聞いても褒めてないだろ、今のは?」

「褒めてるの!」


 少しだけ頬を赤らめる春日。

 そんな彼女の表情が、生徒だった頃の記憶と重なった気がした。

 しかし、そういう事ならこんなに引き留めておく訳にはいくまい。


「体験授業が何時かは知らないけど、こんなところで油を売ってて大丈夫なのか?」

「はぁ? アタシ別に油なんて売ってないけど?」

「……一応念のため伝えておくと、『油を売る』っていうのは『無駄話をして時間を過ごす』って意味だからな?」

「し、知ってたし! 冬月センセを試した? だけだし?」


 目が泳いでいるところを見ると、普通に『油を販売する』という意味で言葉を受け取っていたのだろう。


「……そうか」

「あぁ!? 絶対信じてないでしょ、その顔は?」


 思わず昔のノリでからかいそうになるが、ぐっとこらえてもう一度質問を投げかける。


「って、そうじゃなくて、時間大丈夫なのか?」

「ん? ああ、そっか……」


 俺の心配の視線を知ってか知らずが、春日は肩にかけていたカバンからスマホを取り出すと、おもむろに操作して耳に当てた。


「あ、もしもし、さーちゃん? うん、それなんだけどさ、アタシやっぱ辞めとく。なんか急に勉強する気がなくなっちゃって……うん、うん、そう、ゴメンね。せっかく誘ってくれたのに……大丈夫大丈夫。そっちのあては見つかったから――」

「ちょっ!? せっかくやる気になったんなら、頑張れよ受験生っ!」


 止めようとする俺に、春日は悪戯っぽく笑った。


「そ、アタシ今、受験生なんだよねぇ~……でも、勉強全然わかんないし、やる気も出なくて……ほんとーに困ってるんだぁ〜」

「だったら――」


 春日の目が、一瞬怪しく光った気がした。

 だからだろうか、俺は思わず言葉を飲んだ。

 嫌な予感とも違う、なんだか不思議な予感があった。

 仕事に疲れ切った俺の心の隅にくすぶっていた何かをくすぐるような、淡い予感。 


「センセが、アタシに勉強教えてよ? 得意でしょ、先生だもんね?」


 そっと俺の唇に、そのきれいな指をチョンとあててウインク。

 その仕草に俺の胸は思わず高鳴ってしまう。

 これは、きっと、抜けきらない酔いのせいだ。


「勉強嫌いになっちゃったアタシを助けてよ、冬月センセ!」


 断ることもできた。

 俺は小中学生を教える学習塾の講師で、高校生を教えた経験なんてない。

 それにもう、その仕事にも疲れ果てて、ともすれば辞めようとさえ思っていた。

 俺では役不足だと、断るべきだったのだと思う。

 なのに――。


「専門外だから、どこまで教えられるか分からんぞ?」

「いやいやそんなこと言わずにさぁ……って、へ? 嘘? マジ!? いいの? やったぁー!!」


 思わずそう答えてしまっていた。

 懐かしさのせいかも知れない。

 あの頃の感覚の延長で、困っている生徒を放って置けなかった。

 ……んだと思う。


「じゃあ、今日の夜でいいからさ、アタシ、センセの家行くから! そこで勉強教えてよ!」

「いや、流石に俺の家は――」

「また後で連絡するね! どうせ仕事でしょ? 終わるのは11時過ぎとかだよね?」

「って、こら! 人の話を――」


 俺の言葉を、おそらく敢えて聞き逃して、春日はそのままあっという間に行ってしまった。


 こうして、俺と春日、元講師と元生徒の関係が、どうにも歪な形で復活を遂げてしまったのだった。





 続く――。

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